267 茹だるような夜に(2)

「う……」


 バスから降りると、噎せ返るような熱気が俺を襲った。


 昨日までの雨のせいだろうか、肌にじっとりとまとわりつくような暑さがある。そんな暑さのなか俺は、目に映る景色と記憶の中にあるそれとを照らし合わせ、間違いがないことを確認したあと目的の場所――ペーターの家に向かい歩き出した。



 ――大学を出た俺はその足でキリコさんのマンションを訪ねた。黒く変色した二部の新聞の上に新しく今朝のものが挿されているのを見た時点で無駄足だったことはわかったが、それでも俺は昨日、一昨日とそうしたように何度かチャイムを押し、しばらくその場に踏みとどまった。


 ……だが結局キリコさんをつかまえることはできず、マンションをあとにした俺はそのまま近くの停留所からバスに乗りこんだのだった。


 『役者を探して』とアイネは言った。それがキリコさんとペーターを捜せという意味でないことはよくわかっている。


 ただ探すべき役者は普通の役者ではなく、『ヒステリカの舞台に立てる』という条件がつく。言葉を換えれば即興芝居ができる役者ということだ。その前提で考えれば、俺の狭い交友関係ではどうあれその二人――キリコさんとペーターくらいしか心当たりがなかったのだ。



 延々と連なる白壁を右手に眺めながら、俺は細い道を歩いた。


 ペーターが高校に入学したばかりの頃、一度だけこの道を通りその家を訪ねたことがある。訪ねたといっても部活で遅くなった帰りに送っただけで、家の中にまでは入っていない。


 寄っていくようにと促すペーターの言葉に適当な言い訳を返して俺は逃げ帰った。気兼ねしたわけではなく、夜、女の家にあがることに問題を感じたからでもない。


「……やっぱり凄いな」


 数年ぶりにその屋敷を目の当たりにして、俺は思わずそう独り言ちた。


 あの日、夜の帳の内に見た厳めしい古城のような邸宅は、今、初夏の強い日射しの中にひっそりと佇んでいる。ただあの夜に俺を拒絶したその桁外れな威容は少しも変わってはいない。小山を収めたような広大な敷地も、白壁に穿たれた門を閉ざす大きな黒塗りの鉄格子も。


「……」


 門の横のインターホンを押したが音は鳴らなかった。もう一度押してみる……やはり鳴らない。


 あるいは建物の中には音が響いているのかも知れない。だがここで聞くにはその場所はあまりに遠すぎる。念のためにもう一度ボタンを押して、そのままじっと反応が来るの待った。


 ――待ちながら、昔ペーターに聞かされた彼女の家の成り立ちを思った。


 この広い屋敷に、あいつは一人で暮らしていると言っていた。母親はおらず、父親は仕事にかまけて滅多に帰らないのだという。それを聞いた頃の俺はまだ充分に多感だったから、強い同情を覚えるのと同時に、俺の方からは決してその話題に触れないことを心に誓ったのを覚えている。


 ペーターの家はここらでは有名な資産家らしく、彼女が高校の演劇部に入ってきたとき裏ではその話題でもちきりだったと後日、仲間から聞かされた。そんな彼女の『身分』を知らなかったのは部の中で俺だけだった、とも。


 事実、俺は彼女の家のことなど何も知らなかったし、そうした話題に加わることもなかった。当時の俺は部の新歓のことしか頭になく、彼女のことは一人の有望な新入部員としてしか見ていなかったのだ。


 だがそんな中、ペーターは急速に俺との距離を縮め、ひと月も経たないうちに誰もがと認めるような関係になっていた。やがて破綻を来すその関係は最初こそまさに人も羨むようなものだったから、どうやって彼女をのか仲間たちはさぞ気になっただろうし、自分でもどうしてそうなったのか不思議だった。


 だが今となれば、その理由も何となくわかる気がする。


 それはきっと俺が一度も――今日に至るまで――あいつを金持ちの令嬢としては見なかったし、そうした扱いもしてこなかったからだ。


「……駄目か」


 いくら待っても返事は来なかった。それでも俺はもう一度だけボタンを押し、反応がないのを確かめてから踵を返した。



 ――バス停へ向かう帰り道でふと、道端に柔らかい小さな塊が落ちているのに気づいた。来るとき目に留まらなかったそれは、まだ新しいスズメの死骸だった。


「――」


 ……昨日のリハーサルを思い出し、俺はしばらくその場に立ち尽くした。


 血まみれの身体で後口上を述べながら通路を進み、扉を開け夜の闇に飛びっていったペーターのことを思った。


 そのスズメの死骸が彼女のなれの果てだとか、そんなばかなことを考えたわけではない。けれどもその小さなむくろを眺めるうち、死んでしまったその鳥が哀れに思えてきて、せめて土のあるところに埋めてやろうと、俺はその死骸を拾いあげた。


「……」


 ――陽光にあぶられるアスファルトの町に、土の見える場所はなかった。周囲を見まわしてそれを確認し、死骸をもとあった場所に戻そうと腰をかがめた。……だがやはり思い直し、ほんの少し悩んだあと、俺はその鳥の死骸を鞄に入れた。


◇ ◇ ◇


「……この辺でいいか」


 鞄の中に入ったままの死骸を思い出したのは昼下がりだった。折からの強い日差しを避け逃げこんだ庭園の木陰のベンチで、上から降ってくる鳥のさえずりを聞いて思い出したのだ。


 せっかく逃げこんだ日陰から出るのは億劫だったが、俺は鞄を開いて死骸を取り出した。そうしてどこかそれを埋めるような土のある場所を探すためにベンチを立った。


「そうだな……この樹の下がいい」


 探しはじめて、この庭園に土が見えている所がほとんどないことに驚いた。緑なす木々が茂る憩いの庭。だがその地面の大半は整然としたコンクリートに覆われ、木の根元に猫の額ほどの土が覗いているに過ぎない。


 そのことに気づいて、毎日のように通いながら自分はいったいこの庭園の何を見てきたのだろうと思った。今日こうして鳥の死骸を埋めようとするまで、そんなことにさえ俺は気づかなかったのだ。


「問題はどうやって土を掘り返すかだけど……」


 ――大学に帰り着いたのは正午だった。バスを降りるや俺は昼食もそこそこにつきあいのある劇団を回れるだけ回ってみた。もちろん三人目の役者を探してのことだ。……結果は予想通りだった。訝しむような対応がほとんどで、中にはあからさまな嘲りの言葉を返してくるやつもいた。


 ……だがそんな冷たい反応に、俺はたいして反発を抱かなかった。それは充分に予想できたことだったからだ。


 むしろ彼らの反応は当然と言っていい。もともとヒステリカが大学の演劇サークル内で浮いた存在ということもあるが、問題は別のところにある。明後日の舞台に穴が開いたから代わりに立ってくれ――出し抜けにそんなことを頼まれたら誰だって苦笑する。しかもそれが台本のない即興劇の舞台だと言うのだから……。


「……思ったより固いな。こんなんじゃ駄目だ」


 落ちていた木の枝で土を掘り返そうとしたがすぐ折れてしまった。仕方なく俺はいったんその場から離れ、土を掘るものはないかと辺りを見て回った。


 しばらく探し続けて、図書館横の駐輪場のそばにビール瓶が割れているのを見つけた。細かな破片の中から大ぶりのかけらを拾いあげ、俺は樹の下へ戻った。


「……これなら何とかなりそうだ」


 土は固く掘りにくかったが、それでも掘れることは掘れた。ガラスの縁で手を切らないように気をつけながら、俺はせっせと土を掘った。額ににじんだ汗が頬を伝い、首筋からシャツの中へ流れ落ちてゆくのがわかった。そんな汗を拭うこともせず、ゆっくりと少しずつ俺は土を掘った。


 ――土を掘りながら、俺は三人目の役者のことを考えた。そのことを考えながら……俺にはもうこれ以上探せないと思った。


 学内の劇団は当たれるだけ当たった。社会人サークルの知り合いにも電話をかけてみた。その結果がこれだ……もうあてなどない。あとは何年も話していない高校時代の仲間に泣きつくか、道行く人に手当たり次第声をかけるくらいしかない。


「……何でそんなことしなけりゃいけないんだ」


 何でそんなことをしなければいけないのか――それが本音だった。第一、誰か引き受けてくれる人がいたとして、その人と三人で芝居をやって、いったいそこにどんな意味があるというのだろう。


 そんなものはヒステリカの舞台ではない。そんなものが半年かけて必死になってつくりあげてきた俺たちの舞台であるはずがない。


 ……いつの間にこうなってしまったのだろう。


 ヒステリカはもう壊れたも同然だ。こんなことになるといったい誰に予想できた? ……一週間前の金曜日に誰が? わけもわからないまま、こんな惨めな思いで舞台を迎えようとしている一週間後の金曜日を……。


「……」


 結局、みんないなくなった。隊長もキリコさんも……そしてペーターも。


 昨日のリハーサルの最後は瞼の裏に焼きついている。あいつをときの感覚は、俺の心にまだ生々しく尾を引いている。


 ……あれが何だったのか俺にはわからない。舞台に血痕がなかったことを思えばやはり幻か何かだったのだろうか。どんな絡繰りだったのか……あいつがどうなってしまったのか、まったくわからない。


 わかっているのはあそこで忽然と姿を消したペーターが、今朝、一度も休んだことのない朝練に来なかったということだけだ。


 おかしな事件ばかり起き、その度に仲間が一人ずつ消えてゆく……まるで脈絡のない出来損ないの前衛劇の中に入りこんでしまったようだ。


 そんな劇の中にあって、いったい俺の役はどういう立ち位置なのだろう。泥縄で間に合わせの役者を探して行き詰まり、成り行きで拾いあげた鳥の死骸のために汗だくで墓穴はかあなを掘っている俺は……。


「……」


 ――いずれにしてもこれでついに俺とアイネだけになった。アイネはオペを探すと言っていたが、おそらく見つかりはしないだろう。DJの代わりなどどこにもいない……三人目の役者がどこにもいないように。


 そうなれば結局、二人で舞台をつくらなければならない。複雑な効果は諦め――それさえも無理かも知れないが最低限の音響と照明で、ヒステリカの舞台と呼べるものをどうにかして二人でつくりあげなければならない。


「……」


 絶望的な状況に違いなかった。けれどもこの絶望的な状況にあって、俺の心は驚くほど静かで落ち着いている。長い時間をかけて必死につくってきた舞台。それが流産しようとしている今、俺の心にはその実感がない。


 そのことを思うと自分自身に対して激しい怒りがこみ上げてくる。舞台がついえかけている……ヒステリカが壊れかけているこんな状況にあって、俺の心は舞台とまったく関係のないことでのたうち、軋みをあげている。


 そう――こうしている今も俺はアイネのことを考えている。……いや、考えまいと必死になって感情を抑えている。


 だがここに至って、そんな努力は何の言い訳にもならないことに俺は気づく。……考えまいとするのは考えているのと一緒だ。必死に考えまいとすることで、俺は必死になってそのことを考えているのだ。


『特に俺たちは同期だからな……。いつか二人だけになる可能性もあるし……絶対に守らないと』


 あの夜、酔いに任せて口にした言葉は一年半の歳月を経て現実になった。それだけではない……そんな状況になった今、自分で懸念した通りの罠に陥っているのだから笑えない。


 あのとき俺から強引に結ばせた約束、アイネはそれを覚えていないと言った。だが俺はちゃんと覚えている。……覚えていながら、それを守ることができないでいる。


「……」


 ――あんな約束を結ぶべきではなかった。今はそんな後悔がある。だがそれは足枷としての約束を恨むものではない。


 ヒステリカがなぜこうなってしまったのかわからないが、アイネに対する俺がなぜこうなってしまったかは少しわかる。全部が全部そのためとは言わないが、それはおそらく俺があんな約束をしたせいだ。


 ……そう、あんな約束をしたのが逆にいけなかったのだ。禁じられていなければこんなに酷くなる前にどうにかできた。なまじ禁じられていたからその思いは檻の中でどんどんと膨らんでいった。


 その膨張はこれからも続くのだろう。だが今更そんなことを言っても仕方がない。行く手を塞がれたこの道を先に進むことはできないし、かといって引き返すこともできない。


 ……ちょうど今のヒステリカの状況に似ている。せめてどちらか一方ならよかった。悩みがそのどちらか一方なら、少なくとも自分自身をこんなに嫌悪するまでにはならなかっただろう――


「……こんなもんでいいか」


 穴が充分に深くなったところで俺は掘る手を止めた。傍らに置いておいた死骸を手に取り、その墓穴の底に安置した。


 そうして俺は苦労して掘り返した土をその上にかけていった。かけ終わったところで、雨で流れないように土を押し固め、最後に瓶のかけらを墓標代わりにその上に置いた。


 作業を終えたあと俺は立ち上がらず、しばらくその新しい墓を眺めていた。ひとつの仕事をやり遂げた満足感はなく、空虚な思いばかりが募った。


 ……なぜ俺は路傍に転がっていた鳥のためにこんな墓を立てたのだろう。今さらのようにそんなことを思って、立ち上がる気力もないまま大きく深い溜息をついた。


「――お墓ですか?」


 不意に上から声が降ってきた。頭を回して仰ぐとすぐ後ろに、着物の少女がかがみこむようにしてこちらを見ていた。隊長の妹――クララだった。

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