268 茹だるような夜に(3)

「……ああ。鳥の墓」


「飼ってらしたんですか?」


「道端で死んでたんだ。ここへ来る途中の」


「優しいんですね」


「……そんなんじゃないさ。たまたま目について拾いあげて、それで元に戻せなくなっただけだ」


 優しいという言葉に苦いものを感じて、俺は乾いた声でそう返した。たったいま口にのぼらせた通り、たまたま目について拾いあげ、戻すに戻せなくなっただけだ。そこに別の意味を汲まれることに、俺は何となく息苦しさを覚えた。


「でもその子にとっては幸せだったんじゃないですか?」


「……その子?」


「ハイジさんに拾われたその子」


 そう言ってクララは土の上に置かれたガラス瓶のかけらを見つめた。同じように俺もその粗末な墓標に目を移し、彼女に聞こえないように小さく溜息をついた。


「死んじまったものに幸せも何もない」


「そうでしょうか」


「そんなつもりで埋めたんじゃないんだ」


「……」


「ちょっと気が向いただけだ。本当にそれだけなんだ」


 俺がそう言うとクララは黙ってしまった。すぐ、考えなく口に出してしまったことを後悔した。……何をむきになって否定する必要があったのだろう。可哀相だから埋めてやったと、たとえ嘘でもそう言っておけばよかったのだ。


 気詰まりな沈黙を追い払おうと言葉を探した。そこではじめて、今ここにいる彼女といなくなった隊長とが、俺の頭の中で結びついた。


『隊長は今、どうしてる?』


 喉元までで出かかったその質問は、けれども言葉にならなかった。……そんなことを聞いて何になるのだという思いがそれを許さなかった。


 そう……何にもなりはしない。そんなことを聞いたところで、隊長が俺たちのもとに戻って来ないことはわかりきっているのだ。


「手に土が」


「え?」


「失礼します――」


 そう言うとクララは腰をかがめ、懐からハンカチを取り出した。そうして俺の手――穴を掘っていた方の土汚れた手を取り、その手をハンカチで拭いはじめた。


「そんな……いいよ」


 困惑してそう告げてもクララは俺の手を拭くのを止めなかった。指の間から爪の先まで、まるで大切なものを扱うように丁寧に、彼女は俺の手を拭ってくれた。


「……ありがとう」


 清拭が終わり、クララの手が離れた時点で、俺はどうにかそれだけ言うことができた。手を拭いている間、彼女は終始無言だった。そんな彼女に、俺は声をかけることができなかった。


「そのハンカチ、洗って返すよ」


 汚れたハンカチを受けとろうと、たったいま彼女がきれいにしてくれたばかりの手を伸ばした。だがクララはそのハンカチを懐にしまうとおもむろに立ちあがり、庭園の日溜まりの方へ歩いていった。……伸ばした手を引っこめ、仕方なく俺もそのあとに続いた。


 クララは日溜まりを抜け、木陰のベンチに腰掛けた。その艶やかな黒髪に、木漏れ日が鮮やかな光彩を描いていた。隣に座ってもクララは何も喋ろうとしなかった。俺の方でも、何を喋ればいいのかわからなかった。


「……もうすっかり夏だな」


「そうですね」


「蝉が鳴いていないのがおかしいくらいだ」


「明日には鳴きはじめますよ」


「え?」


「明日になれば蝉は鳴きはじめます」


「わからないだろ、そんなこと」


「雨が止んでこれだけ暑くなりましたから。明日の朝には多くの蝉が背中を割って羽を生やします。何年も暮らし続けた地下の国に別れを告げて」


「……そうか」


 鈍い熱を孕んだ風が吹き抜けていった。木立が一頻り囁き交わし、少女の髪にかかる木漏れ日の光彩がゆらゆらとその形を変えた。


 不意に――さっき小鳥の墓穴を掘りながら感じたように――自分が劇の中にいるような感覚を覚えた。今このベンチにこうして隊長の妹と二人で座っているのがひどく非現実的な……虚ろで頼りないことのように思えた。


「クララは、日曜には来てくれるんだよな」


「はい。お手伝いにあがります」


「メイクの裏方って言ったっけ」


「そうです。メイクの裏方です」


「隊長――お兄さんに頼まれたの?」


「そうです。……ですが、いったん引き受けたからにはきっかけは関係ありません。兄とは関係なく、自分の意思でお手伝いさせていただきます」


「そうか……ありがとう」


 クララの回答に、俺は満足した。はっきりとしたその答えは、俺たちの現状を彼女がよく理解してくれていることを物語っていた。理解しながら、それでも来るとクララは言ってくれた。それで充分だった。もう何も言うことはないと思った。


 だがそう思った矢先に、ふと気がついて口が動いた。


「クララは高校生だって言ったよね?」


「え? ……はい、そうです」


「クララは高校で演劇をやってるの?」


「……どうしてですか?」


「いや、裏方やってくれるってことはひょっとしてそうなのかと思って。どうなんだろ、クララは演劇やってるのかな?」


 表情を変えず、じっと俺を見つめたままクララは答えない。けれどもその様子に俺は、彼女が演劇をやっているという確信を得た。もし演劇をやっていなければ、一言そう返せば済む話なのだ。


「もしクララが演劇やってるなら、ぜひ頼みたいことがあるんだ。日曜日、役者として舞台に立ってくれないかな。穴が開いちゃって芝居になりそうにないんだ。もう一人役者がほしくて、今朝からずっと探していたんだ」


 すっかり消えていた希望に小さな火が灯るのを感じた。クララは探していた三人目の役者として適格だった。隊長の妹ならまったく無関係の人間というわけではないし、何より今回の舞台には裏方として協力してくれることになっていたのだ。彼女が役者をやってくれるのなら成功の目が出てくる。そう思い、衝き動かされるように俺は言葉を連ねた。


「メイクの裏方はいいんだ。……いいんだなんて言うと失礼だけど、どうしても必要ってわけじゃない。劇の途中でメイクを変えるような演出はないし、もしあったとしてもそのへんはどうにでもなる。ただ役者はもう一人どうしても必要なんだ」


 クララは答えない。迷っているような顔でじっと俺を見ている。その迷いを振り払おうと俺はなおも続けた。精一杯の情熱をこめて口説き文句を紡いだ。


「クララも知っての通り俺たち――ヒステリカの舞台は普通の演劇とは違う。台本はないし、結末がどうなるかもわからない。いわゆる即興劇ってやつになる。そういう舞台に立つのは初めてだと思うし、難しいって考える気持ちはわかる。でもそれは俺たちがどうにかする。クララがうまく演技できるように俺たちの方でどうにか――」


 そこではじめてクララの表情の変化に気づき……俺は言葉を失った。


 俺を見つめる彼女の瞳は、いつの間にか誰の目にもはっきりとわかる困惑を映していた。いや……ともすればクララは俺が話しはじめた最初からこんな目をしていたのかも知れない。ただ俺がそれに気づかなかった――気づこうとしなかっただけなのかも知れない。


 にわかに激しい自己嫌悪が湧きあがってくるのを覚えた。隊長の妹だから? 裏方をやることになっていたから? ……それがいったいどんな理由になるというのだろう。こんなのは行きずりの人に声をかけているのと何も変わらない。本当に誰でもいいのか俺は……。そう思う俺の心に、自己嫌悪の炎はいっそう激しく燃えさかっていった。


「……ごめんな。いきなり変なこと言って」


 俺の謝罪の言葉に、クララは短く「いいえ」とだけ返した。それがどういう意味の「いいえ」なのか、俺にはわからなかった。彼女はもう俺を見ず、ぼんやりと眼前の景色を眺めていた。彼女に倣って、俺もそちらに視線を移した。


 ――力強い真昼の陽光を受ける庭園があった。鮮やかな色彩と熱に満ちた、ごまかしのない夏があった。


 ……自分という存在がその景色から取り残されているのをありありと感じた。この木陰を出てあの日差しの中に歩み出ても、俺は決してあの夏の景色に迎え入れられることはない……そう信じた。


 長い沈黙があって、俺は潮時を思い立ちあがろうとした。だが俺がそうする前にクララがおもむろにベンチを立ち、そのまま日差しの中に歩み出た。


 クララは真面目な表情でこちらに向き直った。促されるように俺は立ちあがり、彼女のところへ行こうとした。けれども木陰を出るか出ないかのところで、「そこで見ていてください」と言ってクララは俺を止めた。


「……?」


 言葉の意味をはかりかね、ぼんやりと見つめる俺の前でクララは着物の袂に手を差し入れた。再び出てきた彼女の手には異様なものが握られていた。――それは紛れもない拳銃だった。俺の見ている前で彼女はその撃鉄を起こし、銃口を生い茂る緑の天井に向け、真っ直ぐに腕を伸ばした。


 ばぁん、と音がして小鳥たちが一斉に飛び立った。


 一呼吸遅れて、葉のついたままの細い枝が小さな音を立てて地面に落ちた。銃口から白い煙が立ち上るのが見え、濃い硝煙の臭いが鼻をうがった。あまりに突然の展開に俺は息を呑み、瞬きを忘れて見入った。


 どれだけ経ったのだろう。あるいはほんの短い時間だったのかも知れない。クララは俺に向きなおると、拳銃を持つ手をこちらに差し出した。ほとんど何も考えられないまま手を伸ばし、俺は銃を受けとった。


「その銃をよく見てください」


 ……言われるままに俺は銃を観察した。S&Wの刻印が入ったリボルバーだった。少し小振りだがピースメイカーのように見える。黒い銃身はまだ熱を持っており、さっきのあれがまやかしでなかったことを証明していた。ずっしりと重い鉄の塊。今まで目にしてきたモデルガンとは何もかも違う。


「……本物の銃か」


 そう呟いて俺はクララに視線を向けた。だが彼女は小さく頭を振り、「もっとよく見てください」と言った。言葉に従って俺は拳銃に視線を戻した。


 ……使いこまれた銃だと思った。銃身には無数の傷が浮き、木製のグリップはほどよく摩滅している。硝煙の臭いもしっかりと馴染んでいるようだ。実銃を手にするのは初めてだったが、その銃が長く使われてきたものだということは何となくわかった。


 そう思い、俺は改めて戦慄を覚えた。これは本物の銃なのだ。どうしてそんな代物がここにあるのかわからないし、まだ半分信じられない気持ちでいる。だが実際にクララは俺の目の前で発砲して見せた。……不用意に扱うのは危険すぎる。たとえその気はなくても何かの拍子に火を噴いて人の命を奪いかねない。弾さえ入っていれば撃鉄をあげ引金を絞るだけで誰にでも使える、簡単で便利な殺人のための道具なのだ。


「……?」


 そこで俺は奇妙なことに気づいた。シリンダーには一発の弾も入っていなかった。それは別に不思議でもない。けれどもそこにはあるはずのものがなかった。銃身から一つずれた穴はどちらも空っぽだった。


「気がつきましたか」


「これは……どういうことだ?」


 空の薬莢がなかった。クララが撃ってから一部始終を俺は見ていた。その間に取り出した様子はなかったから、当然まだシリンダーの穴に収まっているはずだった。だが空の薬莢はどこにもなかった。


 混乱する俺の手からクララは拳銃を取りあげた。そしてさっきのように木の茂みに向けて構え、滑らかな手つきで撃鉄を起こした。


 ――ばぁん


 響くはずのない銃声が響き、銃口から閃光が走った。


 そこで俺は我に返った。慌てて周囲を見まわし、庭園に誰もいないことを確認した。校舎の窓もすべて閉じられたままだった。「心配しなくても大丈夫です」というクララの声が聞こえた。


「……え?」


「見ての通り、この銃に弾はいりません」


 そう言って差し出してくる銃を、俺はまた無意識のうちに受けとった。銃身ははっきりと熱かった。まだわずかに銃口から煙が漏れているような気さえした。


「どうしても苦しければ、それで自分を撃って」


「え?」


 弾かれたように頭をあげた。クララが何を言ったのかわからなかった。けれども彼女はそれきり何も言わず、しばらく俺を見つめたあと、もう役目を終えたとばかりに俺の目の前から歩き去ろうとした。


「……待てよ」


 彼女は待たない。炎天に灼かれる庭園をその出口に向け歩いていってしまう。


「待てって! ……自殺でもしろってのか?」


 そこでクララは立ち止まり、頭だけこちらに振り返った。整った顔に曖昧な笑みを浮かべ、どこか蔑むような調子で独り言のように言った。


「弾の入ってない銃で、どうして自殺なんてできるんですか?」


「……」


「頭か、でなければ心臓を撃ってください。この茶番に幕が引きたければ。……あなたにはその権利があります。今回ばかりは、私はあの人のやり方に賛成できない」


 そう言ってクララは再び歩き出そうとし、けれども何かに気づいたようにもう一度こちらを見た。


「それと……忘れていましたが、兄からの言伝があります」


「――隊長は、何て?」


「『やり残しがないように』とのことです。『心にかかるものは舞台までにすべて片づけておくように』と」


「何をそんな……当然のことを今さら」


「言伝はそれだけです。それでは、失礼します」


 クララは軽く一礼してこちらに背を向けた。もう俺に引き留める言葉はなかった。


 クララが行ってしまったあと、俺の手には硝煙の臭いのするリボルバーが残った。その冷たい鉄の塊を眺めながら、彼女は結局ここに何をしに来たのだろうと、まだ混乱の抜けない頭で取り留めもなく考えた。

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