269 茹だるような夜に(4)

 会場に着いたのは午後三時をまわったあたりだった。事務に顔を出して挨拶を済ませ、俺一人、まだ誰もいないホールに入った。


 非常口の照明に淡く照らし出されるそこは、もう馴染みの場所と言ってよかった。前回の冬公演も、前々回の夏公演もヒステリカはここ『あおぞらホール』で舞台を行なっている。


 キャパ百人足らずの狭いホール。だがその狭さゆえに観客との距離が近く、毎月赤字が出るという破格の料金も相俟って、界隈で活動する小規模の劇団にとっては他に代えが利かない重要な劇場となっている。当然、小規模の劇団であるヒステリカにとってもそのあたりの事情は変わらない。


 『あおぞらホール』には小屋付きの職人がいない。だから使用できるのは照明のセッティングから音響の調整まですべて自分たちでまかなうことができる劇団に限られる。


 これまでの舞台で――そして今回も当初の予定では、それはDJの役だった。けれどもDJがああいうことになり、新しいオペレーションも見込めない今、その辺のすべてを俺が請け負わなければならない。


 もっとも、仕込みと言ってもやることはそれほど多くない。舞台は地ガスリを敷かない板目のままで本番に臨むし、即興劇の場ミリなどたかが知れている。建て込みの必要な本格的な装置もない。照明に関してもたかだかサスの位置と大きさを調整するくらいで終わってしまう。


 ――問題となるのはハードではなくソフトなのだ。流動する即興の演技を追って的確な効果を当てはめてゆく。まさにディスクジョッキーのアレンジ演奏にも似た即興のオペレーティングを現出するために必要な、実際の機材を動かしての確認。それが今日の仕込みの目玉になる。……そうなるはずだった。


 DJに代わるオペレーションが見込めない以上、効果は極力簡単なものにして、ほとんど変更なしに済ませるしかない。この会場の装置はコンピュータ制御だから、予め設定しておけば効果の変更はボタンひとつでかなう。難しいのはどこでどのボタンを押すかということなのだが、キューをわかりやすくして数自体を減らせばまったくの素人――たとえば明日来てくれる裏方の誰かであっても、どうにかできるところまで持っていけるだろう。


 ……消極的な方法には違いない。だがこの期に及んで背に腹は代えられない。せめて役者がもう一人いれば俺がオペにまわることもできるが、現状ではそれもできない。二人でも難しいというアイネに、一人で舞台に立てなんていう無理を押しつけることができるはずもない。


 いずれにしても今日の仕込みはいつも通り……いや、いつも以上に重要で困難なものになる。役者二人での芝居をある程度見られるものに仕立てつつ、予備知識のない人間でもどうにかオペをこなせるようにする。……そんな魔法のような効果を、何としても今日中に形にしなければならない……。


 ――と、ホールの扉が開く音がした。


 やっと来たか。そう思ってホールの入り口を見た。――だがそこで俺は固まった。振り向いたままの姿勢で身動きがとれなくなった。その原因はアイネにあった。……正確にはアイネと一緒に入り口を抜けてきた男にあった。


「さすがに早いですね。少し遅れましたか。まあ急な話だったんでご容赦ください」


 がらんどうのホールによく通る声を響かせながらカラスは舞台に近づいてくる。だが俺は金縛りにあったように返事はおろか、身動きひとつできない。


「ハイジさんと一緒に舞台をやるのも本当に久し振りですね。今回はどうかよろしくお願いします」


 やがてカラスは舞台にのぼり俺の前に立つと、そう言って深々と頭を下げた。そこに至って俺はようやく金縛りから解放され、「よろしく」と一言だけ返した。


 そんな俺をカラスはよく見慣れた冷たい微笑をもって迎えた。……それが何を意味する微笑か、そのことに思いを巡らすまでには、俺はまだ立ち直っていなかった。


「コンソールの方、見させてもらいます」


 そう言ってカラスは調光室へのぼる階段の暗がりへ消えていった。入れ替わりに俺の前にはアイネが立った。そうして挑むような、責めるような目でじっと俺を睨んだ。


「役者はどこ」


「え?」


「三人目の役者は?」


「――少し操作しても構いませんか?」


 調光室からカラスの声が降ってきた。一瞬そちらに目を向けて「構わない」と返し、それからまたアイネと向かい合った。


「三人目の役者はどこ?」


 さっきと同じ質問をアイネは繰り返した。その質問に俺は答えることができなかった。答えることができないまま、ただ彼女の顔を見つめ返した。その眉間には既に深いしわが刻まれていた。怒りの兆候を示すそのしわが何のために刻まれたものか……まとまりきらない頭にもそれだけはよく理解できた。


「探したけど見つからなかった」


 せめて視線はそらさずにどうにかそれだけ返した。アイネは応えない。その表情は強ばったまま動かない。


 押し黙って対峙する二人のまわりに舞台照明が点いては消え、消えてはまた点いた。カラスがコンソールの操作を試しているのだ――そんなわかりきったことを頭の中に確認して、けれども肝心の言葉はいつまで経っても出てこない……。


「だいたい把握できました。まあ何とかなるでしょう」


 調光室から降りてきたカラスから声がかかるまで俺たちはそうしていた。そんな俺たちの間にあるものを知ってか知らずか、とまったく変わらない口調で、「早速ですがキューシートをいただけますか?」と言った。


「……待って」


「何か問題でも?」


「その前にちょっとハイジと話し合わせて」


「僕は席を外すべきですか?」


「……できれば」


「それでは僕は調光室に引っ込んでいます」


 そう言ってカラスはまた調光室にのぼっていった。舞台にはさっきから時間が止まったままの二人が残された。


「……どういうつもり?」


「……言っただろ。探したけど見つからなかった」


「そんなこと聞いてるんじゃない」


「……じゃあ何が聞きたいんだよ」


「舞台をどうするかってこと」


「それについてはちゃんと考えてある」


 険しい表情を崩さないアイネに、準備を進めながら考えていた舞台のあらましを説明した。役者二人で芝居をすること。効果を簡単にして初心者でもオペができるようにすること。


 ……だがいくら説明してもアイネの態度は変わらなかった。俺が話し終えたとき、アイネはさっきと同じ表情で――同じ口調で、「それで、どうするの?」と言った。


「どうするって……何を?」


「舞台に決まってるでしょ……どうするの?」


「だから説明した通り――」


「朝に言ったよね? 二人じゃできないって」


「……」


「二人での即興芝居なんてできない」


「……」


「ハイジにはできるかも知れないけど、わたしにはできない」


 反論を許さない、それは拒絶の言葉だった。そこではっきりと俺は、自分が判断を誤ったことを理解した。


 確かに今朝アイネはそう言っていた。……そしてその言葉は彼女にとって絶対だったのだ。二人ではできないと、アイネはあのとき俺にそう言っていたのだ。


 今こうして二度目の拒絶を受け、はじめて俺はそのことを理解した。アイネは二人でやりたくないのではない……二人ではのだ。それが即興劇の役者としての彼女の限界なのだ。俺はそうではない、れと言われれば二人でもどうにかれる。だがアイネにはできない。だから今朝はっきりと俺にそう言った。けれども俺は彼女の告白を無視し……その行き違いが巡り巡ってこの深刻な状況を招いた――


「どうしたんですか一体。何が問題になっているんですか?」


 いつの間に降りてきていたのか、横合いからカラスの声がかかった。こつこつと一頻り靴音が響いて止まる。そうしてカラスは俺たちの隣に……ちょうど二人のどちらとも向き合える位置に立った。


「……あと少し待ってて」


「いつまで待てばいいんですか? もう充分に待ちましたよ」


 横目に見るカラスの顔からはあの薄笑いが消えていた。代わりにその目には、かつて毎日のように俺を苛んだ冷たい光が宿っていた。それでカラスが俺たちのどちらかに攻撃をかけようとしていることを悟った。だがその場に立ち尽くしたまま、俺にはどうすることもできなかった。


「その問題とやらを聞かせてもらえませんか?」


「……」


「それを聞く権利があると思いますよ、僕には」


「三人で舞台をやるか、それとも二人でやるかで揉めてる」


 アイネの代わりに俺が答えた。カラスは冷たく光る目で俺を見据え、「それはまたどういうことですか?」と質問を重ねた。


「穴が開いたのはオペだけじゃないんだ。役者にも二人ほど欠員が出た。今は俺とこいつしかいなくて……だから揉めてる」


「よくわかりませんが。二人しかいないのなら、その二人で役者をやるしかないのでは?」


「それが……アイネはそれじゃ無理だと言うんだ。せめて三人いないと芝居にならないって」


「そうですか。では僕はこれで帰らせていただきます」


 そう言うとカラスは本当に歩き出し、舞台から客席に続く階段を下りはじめた。「待って!」とアイネが叫ぶのと、「どうしてそうなる」と俺が声をかけるのとが同時だった。短い階段の途中でおもむろにこちらを振り向いて、カラスは言った。


「当然でしょう。舞台二日前に団内で意思統一もできていない劇団のにつき合わされるのはごめんです」


「――」


 あからさまな侮辱に返事が返せなかった。煌々と光る目を俺に――俺たちに向け、カラスはなおも言葉を続けた。


「失望しましたよ、ハイジさん。あなたが打ち込んでいる演劇がこんなものだったなんて」


「……」


「僕はね、ヒステリカという劇団にずっと興味があった。三年間を共に過ごしたが同じ大学で何をやっているのか、それがずっと気になってました。今日まであえて舞台を観に行かなかったのもその興味を長引かせたかったからです。楽しみはあとにとっておきたい、そんな気持ちハイジさんにもわかるでしょう?」


「……」


「ですが、観に行かなかった理由はそれだけじゃない。僕は怖かったんですよ、即興芝居がどうこうという話を聞いてから。台本もなしに即興で芝居をする? しかも喜劇でなしに悲喜劇で? そんなものがまともな演劇になるはずはない。そう思って、僕は怖かった」


「……」


「今回アイネさんからオペを頼まれて、急なことで少し迷いましたが首を縦に振ったのもそのためです。興味が半分と怖かったのが半分。満を持して観に来たんですよ、三年間を共に過ごしたが打ち込んでいるものを。ヒステリカという劇団が誇る即興演劇の何たるかをね」


「……」


「恐れていた通りでした。演劇とは名ばかりのだった。こんなことを言って怒るなとは言いません。いくらでも怒ってくれて構いません。ですが、怒るとすれば筋違いですよ。役者が二人立つか三人立つかで揉めている? そんなところに僕は呼ばれたんですか? 頭のいいハイジさんにはわかるでしょう、僕には怒る権利がある。そしてその権利はあなたたちにはないんです――」


 それだけ言うとカラスはきびすを返し、客席の間の通路を出口に向かい真っ直ぐ歩いていった。扉を開けホールを出てゆくまでカラスは一度も振り返らなかった。


 木偶でくのように舞台に立ち尽くしたまま俺は何もできなかった。引き留めの言葉をかけることも……その背中に殴りかかることも俺にはできなかった。


 アイネが動いたのはそのすぐあとだった。無言のまま、さっきカラスがそうしたように、舞台から通路へと続く短い階段を降りようとする。


「……どこ行くんだ?」


「帰る」


「……! 待てよ、どういうつもりだ」


 俺の言葉にアイネは立ち止まった。そうしてさっきカラスがそうしたように、短い階段の途中でこちらに向き直った――


「言ったじゃない! 二人じゃできないって!」


 絶叫ががらんどうのホールを震わせた。燃えるような怒りの目でアイネは俺を見ていた。


「朝にちゃんと言ったじゃない! 二人じゃできないって! 練習もなしに二人でなんてできないって! わたしそんな器用な人間じゃないの! だから約束したんじゃない! わたしがオペを連れてくるからハイジは役者を見つけてくるって! 朝そう約束したじゃない! 見つけて来るってハイジ約束したじゃない!」


 今度こそ俺は微動だにできなかった。息をつくことさえできずアイネを見守った。心にはただ怒りと悔しさだけがあった。……その怒りと悔しさは自分のものではなかった。目の前に立つ彼女ひとの怒りと悔しさを、俺は同じように感じていた。


「わたしはちゃんとオペを連れてきた! 約束通りちゃんと! それなのにハイジは何? 役者も見つけてこないで! それだけじゃ足りなくてわたしが連れてきたオペまで追い返して! 何が舞台を成功させるよ! 口だけじゃない! 本気で成功させる気ないじゃない! 本気で成功させる気あるなら役者なんてどこの誰でも連れてこられるはずじゃない!」


『本当にそうか?』


 言葉が口から出かかった。


『本当に誰を連れてきてもよかったのか? アイネは本当にそれでよかったのか?』


 だが俺は歯を食いしばってその言葉をのみこんだ。そんな俺を見るアイネの顔に、当惑とも哀れみともつかない表情が浮かんだ。


「今のハイジは、普通じゃないよ」


「……」


「月曜からずっとそう。ヒステリカがおかしくなってくのと一緒に、ハイジもどんどん普通じゃなくなっていった」


「……」


「今のハイジは普通じゃない」


「……」


「今のハイジは、わたしの知ってるハイジじゃない」


「……そうだな」


 長い沈黙の果てにただ一言、俺はそう返した。抵抗を止めた心の一番深いところからのぼってきた、全面降伏の一言だった。もう心に痛みさえ感じなかった。その返事に何を思ってか、今度はアイネの方が唇を結び、沈黙に入った。


「確かにその通りだ」


 押し黙ったまま動かないアイネに、もう一度そう告げた。言葉にしたあと、実際にその通りだと思った。


 ――今の俺は普通ではない。ヒステリカがおかしくなってゆくにつれて、俺もまた普通ではなくなっていった。今の俺は普通ではない。……アイネの知っている一週間前までの俺ではない。


 やがてアイネは階段を降り、通路を出口に向かい歩きはじめた。……もう引き留める言葉はなかった。それでも俺はあるだけの思いをこめて一言、絞り出した。


「本当に帰っちまうのかよ……」


 その問いかけにアイネは足を止めた。そしてこちらを振り返らないまま、「謝りに行く」と言った。


「……どこに」


「そんなの決まってるでしょ」


 そう……決まっている。彼女がこれからどこに謝りに行くかなどわかりきっている。


 そのことを思って心臓から黒い血液が全身に運ばれてゆくのを感じた。その感情を必死になって押し殺した。……俺にその権利はない。今の俺にこんなことで思い悩む権利はない。


「俺が行く」


「……」


 アイネがこちらを向くのがわかった。サスに照らされる舞台から、客席に立つ彼女の表情は見えなかった。


「あいつを怒らせたのは俺だ」


「……」


「だから俺が謝りに行くのが筋だろ」


「……余計に怒らせるだけなんじゃない?」


「ちゃんと謝る! 土下座でも何でもする」


「……」


「アイネにも謝る。三人目連れて来なくて悪かった」


「……」


「かなり探したんだけどな。最後には投げちまった」


「……」


「疲れたとかそういうのじゃなくて、嫌になったんだ。だってそうだろ、そんなのヒステリカの舞台じゃない。関係のないところから借り物みたいに人引っ張ってきて、そんなんで無理に形にしたって」


「……」


「その気持ちは今も変わらない。そんなに舞台に俺は立ちたくない。でもアイネとの約束を破ったのは確かだ。……だから謝る」


「……」


「今は舞台をどうすればいいかわからない。けど、どのみち手は足りてないし……協力するといってくれたあいつを怒らせたのはいけなかった。……それだけはしちゃいけないことだった。詳しく事情話したって笑い飛ばされるのがおちだろうけど、これまでのことあいつにぜんぶ話して、それで――」


「……わかったから」


 薄闇のホールにアイネの小さな声が響いた。


「二人で謝りに行こ」


 囁くようなその声が、まるで福音のように聞こえた。張り詰めていた空気がふっとやわらぐのを感じた。「ああ」と言って俺は舞台を降りかけ……点ったままの照明を振り仰いだ。


 ――消してゆく必要はない。オペを連れてまたすぐに戻って来るのだから。そう思って、そのまま舞台を降りた。

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