265 そんな規則は誰も守っていない(8)

「大変です! 大変なことになりました!」


「なんだ騒々しい。どうしたというんだね」


「例の盗まれた『手紙』の、その内容が判明したのです」


「ほう。で、それはいったいどんな内容だったのかね?」


「驚かないで聞いてください。その『手紙』の内容とは、この世界の終わりについて書かれた預言書の一部だったのです!」


「それは凄い。漠然と価値がありそうなものだと感じてはいたが、そんな素晴らしい内容だったとは知らなかった。して、その預言書に書かれた預言というのは?」


「ああ! お聞きにならないでください。その内容を語ることは自分にはできません!」


「何を言っているのだ。話せないわけがあるまい、僕には聞く権利があるはずだ。なぜならその『手紙』はもともと僕のもので、しかも僕自身がその『手紙』なのだから」


 そう言って『愚者』はもどかしそうに詰め寄ってくる。苦渋に満ちた表情でそれを迎えながら、ここまでの展開が自分の目論見通りに運んでいることを思った。


 唐突な切出しだったが問題なく筋を接ぐことができた。何より俺が用意したレールに『愚者』は実にうまい具合に乗ってくれた。あとは渓谷にかかる橋まで列車をこのレールから降ろさないことだ。その橋の下に仕掛けた爆弾に気づかせないまま――


「そうです、その通りであります。それは博士の『手紙』であり、『手紙』は博士自身です。しかしたとえそうであっても……いや、そうであればこそ、自分にはその中身をつまびらかにできないのであります!」


「要領を得ない話はそのくらいにしておきたまえ。君には話す義務がある」


「義務……義務でありますか」


「そうだ、話すのは義務だ。税金でまかなわれている公僕としての立場を忘れてはいけないのではないかな?」


「税金……その言葉を出されるとつらい。わかりました、かいつまんでお話いたしましょう。その預言書の中身とは――」


「うむ、その予言書の中身とは?」


「――ひとたびその内容を語るや世界は変容し、やがてわけのわからないものになって終わりに向かうという恐ろしい代物だったのです!」


 舞台の世界に終わりはない。確かにいずれ緞帳は降りるし、観客は帰り俺たちも撤収する。だがそれは舞台の終わりであって、舞台の世界の終わりではない。


 俺たちは――およそ演劇に携わるすべての人間たちは、緞帳が降りきったあとも自分たちがつくった舞台の世界がいつまでも続いてゆくことを思う。夢でも絵空事でもない。観客の心に、そして舞台に携わったすべての人間の心にその世界はいつまでも続く。正しく舞台を終えることで、その舞台の世界は永遠の命を得るのだ。


 今、俺が立っている舞台はそのまったく逆の方向に暴走している。いつまでも終わらない――終わろうとしない舞台の中で、その舞台の世界はいつか破綻し崩壊をはじめる。


 いや……既に破綻し崩壊をはじめている。そう考えればすべての辻褄は合う。目の前に立つ彼女自身が『手紙』であることさえも。


 列車が橋の上にさしかかるまで、あともう少しだった。さりげない手つきで俺はホルスターの留金を外した。


「――つまり、終わりのない終わりの中で終わり続けるということです。奇妙に歪んだ混沌の中にすべての人間が死ぬこともできず無間むげんの苦しみを舐めることになるのです。滑稽で気狂いじみた不条理の王国です。預言書に書かれた世界の終わりとはそういった恐ろしいものだったのです!」


「なるほど、なるほど。君が話すのをためらった理由もわかるというものだ。しかし僕が思うに、それならば恐れることなど何もないのではないかな?」


「それはまたなぜです?」


「君の説明を聞いていて思ったのだが、その預言書に書かれた世界の終わりというのは、もう来ているのではないかな」


「その通りです。それはもう来ています。今こうしている間もこの世界はゆっくりと、だが確実に終わりに向かっているのです」


「さては誰かがその『手紙』の内容を暴いてしまったのだな」


「その通りです。もっと言えば、そいつは今まさにその『手紙』の内容を暴いている最中さなかです」


「ゆゆしい事態だ。速やかに何らかの手を打つ必要がある」


「その通りです。自分もそう思っていたところであります」


「よろしい、では君に新しい命令を与える。『万難を排して世界が終わるのを抑止せよ』」


「了解しました。まったくもって、自分はその命令を待っておりました――」


 思い描いた筋書き通りだった。


 ホルスターから銃を抜き、抜きざまに『愚者』を撃つ――それで曲がりなりにも物語に決着をつけられるはずだ。ひたすら練習してきた抜き撃ちの演技には自信があった。抜く手を見せないとはこのことだと、滅多に人を誉めない隊長にさえそういって誉められたことのある切り札の演技だ。


 だがなぜだろう……いつもなら一瞬で片がつくその動作が目で追えるほど緩慢なものに感じられた。


 事実、俺は銃を持つ自分の手がゆっくりと上がってゆくのを目で追うことができた。標的は立ち尽くしたまま最後の台詞を言った口の形さえ変えずにいた。動作そのものが遅いわけではないことはそれでわかった。実際に時間の流れが遅いのではなく、ただ遅く見えているだけの話だ。そう確信して俺はトリガーにかけた指に力をこめた。


 そこで不意に――こんな光景をつい最近どこかで目にしたような気がした。


 こんなスローモーションの光景をどこかで……そしてトリガーを引く瞬間、すっかり忘れていた駅前でのことが閃光のように頭を過ぎった。そうだ、これはあのときと一緒だ――


 ――ばぁん、という轟音を間近に聞いたのはその直後だった。


 その音と同時に赤いしぶきがあがった。それはペーターの胸からのもので、その赤いしぶきの中に、最後の台詞を言った口の形を変えないままペーターは仰向けに倒れた。


 彼女の胸から小さな噴水のように赤い水が吹き出ているのが見えた。その赤い水はたちまち彼女の服を染め、やがて舞台の板目に黒い浸みとなり広がっていった。


 ……何が起きたのかまったくわからなかった。銃を持つ腕を降ろすことさえできずに、俺はただ倒れて動かないペーターを見守った。


 ふと視線を感じて目をやると、向いの袖からアイネが呆然としてこちらを見ていた。何も考えられないまま視線をペーターに戻した。


 そのとき――まるで何事もなかったかのようにペーターがむっくりと血だまりから身を起こした。


「――かくして天下を騒がせた大ぼら吹き、ペーター・ハインリヒ・フォン・ローゼンハイムの命は露と消えました」


 そう言いながらペーターは立ち上がった。血まみれの身体をしゃんと伸ばし、客席に向い堂々とした態度でなおも台詞を続けた。


「彼らがあれほど固執した『手紙』の正体とは何だったのか。それは本当に盗まれたものだったのか。そもそも果たしてそんな『手紙』が実在したのか。真相はこの通り、闇から闇へ葬り去られたのでした」


 ペーターは舞台を降り、客席の間の通路をゆっくりと扉に向かった。誰もいない客席に向い身振りをつけて後口上を述べながら。ぼんやりとしたスポットライトの光がそんな彼女の姿を追いかける幻を覚えた。


 そんな幻の中にあって流れる血をそのままに演技を続けるペーターの姿に、俺は、思わずぞっとするほど妖しく美しいものを感じた。


「え? 『手紙』はおまえだったんじゃないのかって? 残念ながらそのあたりはもう話せません。だってほら、死人に口無しと言うじゃありませんか。『手紙』だとか『博士』だとか、そんなのはもうどうでもいいんです。ただこれで世界の終わりはぎりぎりのところで食い止められた――もしそれが本当なら、僕は心から満足して死ねるというものです」


 扉にたどりつくとペーターは立ち止まった。姿勢を正して客席に向き直り、恭しく一礼したあと、小さく一つ咳払いをしてノブに手をかけた。


「さて長らく御静観いただきました舞台もそろそろ潮時。ここいらで当初の希望通り僕は鳥になろうと思います。3・2・1の掛け声でこの扉を開いた瞬間、鳥になって飛んで行きます。ロック鳥とはいかないまでもスズメくらいにはなれるでしょう。うまくいったら御喝采。ではいきますよ、3・2・1――」


 扉が開く音とともに鳥の羽音があがった。その扉から外へと飛びってゆく鳥の姿が見えた――そんな気がした。


 その後、ゆっくりと扉が閉まった。


 ……舞台はそれで幕になった。もう緞帳を降ろす必要もなかった。そうしてすべてが終わってしまったあとも俺はしばらく動けなかった。向かいの袖に立つアイネも同じように扉を見つめたままじっと立ち尽くしていた。


 やがて俺たちはどちらからともなく呪縛から解放され、壁に歩み寄り少し間をあけ並んで腰を降ろした。飴色の照明が落ちる舞台には、ペーターの胸から流れ出た赤黒いものがまだ生々しく残っていた。


「――貸して」


 隣から手を突き出してアイネが言った。一瞬、意味をはかりかねたが、彼女の視線の先を見て何を貸せと言っているのかわかった。俺の右手に握られたままのデザートイーグルをアイネは見ていた。俺は何も言わずそれを彼女に渡した。


「……いつものだね」


 ひとしきり観察したあと、アイネはそう言ってその銃を俺に差し出した。受け取ろうとして――俺はそれを受け取ることができなかった。


 銃を受け取ろうとする俺の手は震えていた。自分でそれと気づかないままに、いつの間にか俺の身体は熱病にかかったように激しく震えていた。


 不意に、銃を受け取ろうとしていた手に冷たいものが触れた……アイネの手だった。


 その手は震えの治まらない俺の手を握ると、二人の座っている間の床にそっと降ろした。縋るようにその手を握り返して俺は目を閉じた。そうして彼女の手を強く握りしめたまま、全身を苛む激しい震えが去ってゆくのを待った。


「……もう大丈夫だ」


 どれくらいの時間が経ったのだろう。身体の震えが治まり、落ち着いたところで俺は握っていた手を放した。アイネは黙ってその手を引っこめ、だがその場から動こうとしなかった。


 咄嗟にかける言葉を探して、「今日はこれで散開にしよう」と、俺は言った。


 それでもアイネはその場から動こうとしなかった。じっとホールの暗闇を見つめるその横顔には、何かに耐えるような苦しげな色が浮かんでいた。


 そんな横顔を眺めながら俺は、このままアイネにそばにしてほしいと強く願った。……だが同じくらい強く、もう彼女を帰さなければならないと思った。


「……忘れ物、取りに来いってさ」


「え?」


「カラスが電話で。家に忘れ物を取りに来いって」


「……そう」


 それきりまた会話は途絶えた。


 口から出してしまった言葉を後悔し、このままアイネが出て行ってくれることを強く思った。……だがそれよりも強く、彼女がそうしないことを願った。


 誰もいない薄闇のホールを見つめながら、俺はいつまでもその場から動けなかった。


 そんな俺の隣で同じように――だがおそらく別の理由で、アイネもその場からいつまでも動かなかった。

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