264 そんな規則は誰も守っていない(7)

「だいたいその手紙というのはいったいぜんたいどんなものなんですか?」


「そんなのは知らない。わたしは盗んだだけで封を切って読んだわけじゃないから」


「おっと、これはまたおかしな話ではないですか? 封を切っていないのにどうしてそれが手紙とわかったんだろう?」


「手紙は手紙じゃない。何が書いてあってもそれは手紙」


「何にも書いてないかも知れませんよ? それでも手紙ですか?」


「そう。何も書いてない白紙でも手紙。そういう手紙だってないわけじゃない」


「いやいや、わからないぞ? あるいは押し葉や花の種が入ってるなんてことも」


「それでも手紙。押し葉や花の種だって立派な手紙」


「ひょっとしたら生き物かも知れない。その手紙は生き物で、封を開けた人はそれを見て驚くんだ」


「……もうわかったから。それでいいんじゃない? 生き物が手紙でも」


「そうか、なら僕もわかったぞ」


「わかったって、何が?」


「僕のことですよ。僕は『博士』なんかじゃなかった。何で今まで気づかなかったんだろう、僕は『手紙』だったんだ!」


 『博士』になったのも束の間、『愚者』は今度は『手紙』になった。


 『愚者』を前にしてあらゆるものが相対化され、抽象化されて、更には分解されていった。……そこにはもう『兵隊』も『盗人』もなかった。流動する『愚者』の演技に何もかもがついて回る、いわば『愚者』の――ペーターの一人舞台だった。


「まあ実際のところはよくわかりませんねえ。本当のことなんてのは誰にもわからないんですよ。僕は『博士』でもあるし『手紙』でもある。それはまったく確かなことです。けど、一歩間違えばそのどちらでもなくなってしまう。それもまったく確かなことなんです。


「大昔、ある頭のいい人はこう言ったそうです。『僕が本当に僕かなんてのは、僕にだってわからない。僕が僕であるのか僕にさえわからないのだから、他のことなんてわかりっこない』ってね。僕はこれ正しいと思うなあ。わからないからこそわかることだってある。ねえ、そうじゃありませんか?


「おやおやどうしてそんな難しそうな顔をなさっているんですか? 難しく考えることなんて何もないじゃありませんか。僕はただ、わからないのにわかったような顔してる人はみんなだと言ってるだけです。そういう人たちはいつか見ちゃいけない王様の裸を見て、目が腐って落ちてしまうんですよ。きっとそうだ!」


 ――もはやなす術もなかった。気がつけば『愚者』の演技は舞台そのものをまるごと呑みこんでいた。


 いや……そこはもう舞台でさえなかった。あらゆる常識が転倒し、あらゆる観念が崩壊したそこはまさに混沌の海だった。その混沌の海に俺は溺れまいと必死に手足をばたつかせ、そんな努力も虚しくついには溺れ……底へ底へと沈んでいった。


 だがそこで――沈みきった深い海の底で、俺はようやく自分が間違っていたことに気づいた。


「では『博士』、自分に与えられた、手紙を探索するという命令は解除されたと考えていいのでありますか?」


「何を言ってるんだね、君。探索も何も『手紙』はこれこの通り、君の目の前にあるじゃないか。『手紙』は僕だ」


「は! 失礼致しました。確かにおっしゃられる通り『博士』が『手紙』でありました」


「ついさっき言ったことを忘れるようじゃ困るなあ。しっかりしてくれたまえ、君」


「しかし『博士』が『手紙』なら、いったい『博士』はなぜ自分に『手紙』の探索を命ぜられたのでありましょうか!」


「そんなこともわからないのかね、君」


「は! わかりません!」


「やれやれ、そんな簡単なこともわからないなんて! 仕方ない、わかりやすく説明してあげよう。そもそも僕が『手紙』としての自分自身に気づいたのは――」


 開き直るような気持ちで向かい合ったその舞台は、意外にも悪くなかった。


 『愚者』の紡ぎ出すその不条理な世界は、けれどもはっきりとした確かさをもってそこに存在した。その中で俺は何も考える必要がなかった。何も考えることなく、すべてを忘れて即興劇に没頭することができた。


 そうしてしばらくもしないうちに、俺はすっかりその芝居に。常軌を逸した『愚者』の話に振り回されるまじめな『兵隊』の演技に没入していった。


 抗う必要などどこにもなかったのだ……そう思い、いま自分が立っているその舞台にいつもとは違う特別なものを感じながら、このままいつまでも演技し続けたいとさえ思った。


 そんな俺とは対照的に、アイネの演技は一貫して変わらなかった。同じように否応なく『愚者』の演技に押し流され、だが彼女はその流れに身を任せようとせず、必死になって逆らい続けていた。少なくとも俺にはそう見えた。


 やがてアイネは袖に捌けるとき、まるで裏切りを責めるような目を俺に向けてくるようになった。


 ……彼女がそんな目で俺を見るのも無理のないことだと思った。役者としてのアイネはこの手の先の見えない展開に弱い。そして何より、警ドロを軸にするという当初の取り決めを俺は反故にしたのだ。それをアイネが裏切りと感じたとしても不思議はない。


 そんな俺の憶測が誤解であったことが判明したのは、『愚者』との掛け合いに区切りをつけ、アイネが控えている側の袖へ捌けたときだった。


「――時間」


 入れ替わりに舞台に出る間際、咎めるような口調で彼女はそう言い残していった。反射的に時計に目をやると、時刻は閉幕が予定されていた時間より既に三十分近くもオーバーしていた。


 そこで俺はようやく折からのきついアイネの視線の意味に気づき……同時に冷水を浴びせられた。演技に熱中するあまり、この舞台で自分に課せられたもうひとつの役目――舞台監督という重要な仕事を忘れていたことを思い知らされたのだ。


 舞台上に掛け合いが再開された。相変わらず脈絡のない言葉を連ねる『愚者』と、いちいちまともに反応する『盗人』のちぐはぐな遣り取り。


 だがここに至って俺はそこに今までとは別のものを見た。流れに呑まれるのを拒絶し、頑なに自分の演技を守りながら……アイネがどうにか物語を収束させようとしているのをはっきりと見て取った。


「そんなのはどっちでもいいの。ただわたしが言いたいのは、そういうことなら事件はもう解決したんじゃないかってこと。『手紙』が見つかったならもういいじゃない。そろそろ夜も明ける頃だし、わたしは隠れ家に戻ってぐっすり眠りたいの。ねえ、もういい加減にして。いい加減にわたしをつけ回すのはやめて。お願いだからもうお仕舞いにして。あの男にもちゃんとそう言っておいて」


 ……思い返してみればさっきからずっとそうだった。『盗人』の演技のベクトルはただ一途に物語を収束させる方向に向けられていた。


 俺がいい気になって演技に酔っていた裏で、アイネは一人冷静に時間のことを考えていたのだ。そうしておそらく、一向に緞帳を降ろす兆しを見せない俺の替わりに彼女自身がそれを降ろすために動いていた。だが――


「何という言いぐさだ。盗人猛々しいとはこのことだ。だいたい君の言ってることには土台無理がある。『手紙』が見つかったなどといつ僕が言ったのだ? なるほど僕自身が『手紙』だと言ったことの言葉尻をつかまえてそう早合点したのだろうが、それは少しばかり考えが足りないというものだ。ひとつ例をあげてみよう。たとえば美しい令嬢がいたとする。その令嬢がさる男に心を奪われたとする。令嬢は奪われた心を取り戻すことを思い、男に媚びたり駆け引きをしたり。そんな努力の果てに令嬢はと気づく。『ああ私の心は奪われたのではなく、この燃える思いは私の胸の中にあったのだ』とね。奪われた心はその実、彼女自身の中にあると悟ったのだ。さてここで問題、そう悟った令嬢は果たして心を取り戻したと言えるのだろうか?」


 ――だが物語は収束しない。『愚者』の演技は収束する気配さえ見せず、アイネの努力は空回りを続ける。


 ようやく頭が醒めた俺にはその構図がよく理解できた。どんなに頑張ってもアイネに物語を収束させることはできない。舞台を支配している『愚者』の演技に背を向けたままの彼女には決してできない。


 そこまで考えて、アイネのさっきの一言が持つもうひとつの意味に気づいた。……あれはSOSだったのだ。自分では物語を収束させられないことをアイネは理解している。それを理解しながら虚しい努力を続け、今ここに至って俺に助けを求めている。どうにかして緞帳を降ろしてほしいと訴えている……その声ならぬ声がはっきりと耳に届いた。


 事実、そういうことになる。あの調子ではペーターは止まらず、いつまでも演技を引っ張りかねない。舞台監督としての責務を果たすためにも俺が幕を引くしかない。……だがどうやって?


 目的を遂げられぬままアイネが向いの袖に捌けるのが見えた。立ち替わりに舞台へ出ようとして――ふと立ち止まった。


 右脇のホルスターに収めたデザートイーグルにそっと指を触れた。それで俺は覚悟を決め、「よし」と小さく呟いてから舞台に走り出た。

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