263 そんな規則は誰も守っていない(6)
「つまり、『盗人』を追う『兵隊』の捕り物を軸にするってこと?」
「簡単に言えばそうなる。警ドロはこれまで何度もやってるし、見ている方もわかりやすい。それに、『博士』の手紙が盗まれたって設定はそのままでいける」
「キリコさんが来るとは思えないけど」
「わかってる。それを前提とした話だ」
「『博士』がいないのにその手紙が盗まれるの?」
「『博士』はいるよ。最後まで出てこないけどな。台詞の中に名前だけ出てくる役なんて珍しくもないだろ」
「そっか。そういうことならわかる」
――準備はすぐに終わった。場ミリも小道具の仕分けも昨日のうちに済ませてあり、そのまま手つかずになっていたのだから、ほとんど何もやることはなかった。
それでも『博士』が舞台に乗らないことを考慮してサスの位置や大きさを微調整し、それもできてしまうと落としがないことを確認しながらアイネの到着を待った。
三時きっかりにアイネは来た。憔悴した表情を見ただけでキリコさんが見つからなかったことはわかった。俺はあえてそのことには触れず、ただもう準備を終わらせたことだけを伝えた。裏を返せばキリコさんの捜索に早々に見切りをつけたことを告げるその言葉に、アイネは何も言わなかった。
それからすぐリハーサルの打ち合わせに入った。最大の懸案は俺が
三人とも舞台にあがるのはできるだけ避け、舞台にあがっていない一人が効果の確認を出す。三人があがっているときは俺が出す。その場しのぎには違いないが、それでどうにか最後まで通せるはずだった。
「でも、そこを軸にするなら『愚者』の立ち位置はどうなるの?」
「そんなのは任せとけばいい」
「誰に?」
「ペーターに決まってるだろ。立ち位置なんて決めなくてもこいつはちゃんと
「……」
「だいたい『愚者』は元からそういう役だからな。型にはまった立ち位置がないのが『愚者』の立ち位置だろ。違うか?」
「……そうだね。ごめん変なこと言って」
そう言ってアイネはペーターを見る。だがペーターは答えない。まともにアイネと目を合わせようとさえしない。
あれから――部屋でのことがあってからペーターはずっとこの調子でいる。準備のときもまるで動かなかったし、打ち合わせがはじまってもほとんど口を開かない。朝練後の話し合いとそっくり立場が入れ替わったように、押し黙るペーターを間に挟んで俺とアイネばかりが話をしている。
表情のない真っ白な顔はいつもの『発作』を起こす直前のそれとよく似ている。けれども俺には……今日の俺には、そんな彼女をどうすることもできない。
それでもひとつだけ俺にできることがあるとすれば、それはリハーサルの段取りを組むことだった。リハーサルを成功に導くことが彼女に対するたったひとつの償いの方法だと思った。
……それが逃げ道であることはわかっていた。そんなことをしても問題が解決しないことは、立ち直りの兆しさえ見せないペーターの姿が何よりよく物語っていた。
逃げ道だと知りながら立ち止まりも引き返しもしなかったのは、それしか道がなかったからだ。そしてリハーサルを成功させることで新しい道が拓けると、そう信じたからだ。
芝居がはじまってしまえばペーターはいつもの彼女に戻る。アイネに告げたその言葉は半分以上本心だった。
即興劇に関してペーターという役者はそれだけのものを持っている。その彼女に賭け、とりあえずリハーサルをはじめから終わりまで通せるようにすることが、今の俺にできる精一杯のことだと思った。
「緞帳はどうするの」
「さっき言っただろ。俺が上げる」
「降ろすほうの話」
「それも俺がやる」
「舞台に立ってない人がやるべきじゃない?」
「混乱するに決まってる。それに緞帳降ろすのは隊長の仕事だからな」
「隊長の仕事、ね」
「そう、隊長の仕事」
「それじゃお願いします、隊長」
「はいよ」
アイネとの会話にもうぎくしゃくしたところはない。一連のいざこざがはじまる前のように自然なやりとりができている。
だが俺にはそれが、一時的に成立した危ういバランスの上に立っているものであることがわかる。その証拠にアイネの目は何度も気遣わしげにペーターの様子を窺い、そのあと問いただすように俺を見つめることを繰り返している。
その度ごとに俺はペーターとの事件――そしてカラスとの事件の記憶を頭から追い払い、胸の奥に再燃しようとする感情を押し殺さなければならなかった。
……リハーサルの準備に勤しむことはアイネへの思いからの逃げ道でもあった。
借金にまみれて追いこまれた人間がなけなしの金をはたいて最後の賭けに臨むように、解決できない問題を置き去りにして俺はその逃げ道を急いだ。舞台監督がいないことを踏まえての様々な事態への対処法の確認、軸となる展開の最後の擦り合わせ。そんな調整をぎりぎりまで続け――やがて時間は来た。
「……そのくらいか。他にないようなら控えに入る」
簡単な言葉で打ち合わせを切り上げ、舞台の袖へ向かおうとした。けれどもアイネは動こうとしなかった。その場に立ち止まったまま、同じように動こうとしないペーターを見つめていた。
「ペーター」
俺が呼びかけるとペーターはわずかに視線をおこした。だがやはりその場から動こうとしない。
一瞬ためらい、それでも意を決して俺はペーターに歩み寄った。寝台に押し倒したときのように両肩を掴み、顔の高さを合わせてじっとその目を覗きこんだ。
「聞こえてるかペーター。これから控えに入る」
「……」
返事はなかった。ただわかったのかわからないのか、小さくひとつ頷いて見せた。
肩から手を放して舞台に向かおうとする……けれどもペーターはついてこない。俺はもう一度彼女に向き直り――少し考えて、人差指を親指につがえてペーターの目の前に突き出した。
「これが何だかわかるな?」
「……」
さっきと同じように一言もないままペーターは頷いた。俺はつがえた指を彼女の額に近づけ、渾身の力をこめて放った。
バシッ、と鈍い音がホールに響いた。指が額を弾いた瞬間ペーターは目を閉じ、やがてゆっくりとその目を開けた。
声をかけようとすると彼女はまるで俺など目に入らないように脇を擦り抜け、とことこと通路を渡り舞台にのぼった。袖ではなく舞台中央、緞帳があがると同時に二番のサスが落ちる位置に、まるでそうすることが最初から決まっていたかのように客席に向かい、立った。
俺とアイネは顔を見合わせたあと、無言でそれぞれの袖に捌け、控えに入った。
1ベル。2ベル。舞台の真ん中に時が止まったように動かないペーターを見つめながら、祈るような気持ちで俺は見えない緞帳をあげた――
◇ ◇ ◇
「そいつなら見ましたよ」
「なにどこで見た!」
「ただで教えろって言うんですか?」
「……いいだろう。何が望みだ」
「僕を鳥にしてください」
「……は? 何だって?」
「鳥ですよ、鳥。大きな羽を持った鳥がいい。コンドルとか、そうだな、いっそロック鳥のようなのがいい。山も海も越えてどこまでも行ける翼を持った鳥ですよ。なあに、すぐに見つけてやりますよ、空から捜せば早いでしょうからねえ。だから僕を鳥にしてください」
「そんなことができるか! だいたい捜してくれなどとは一言も言ってない。どこで見たかそれを教えてくれと言っているんだ!」
「鳥をですか?」
「鳥じゃない! 盗人だ!」
「盗人が鳥になったんですか?」
「なってない! 鳥から離れろ」
「なに言ってるんです。離れろって言われても、ここには鳥なんかいやしませんよ?」
「ああもう……だから!」
――ペーターはやはりペーターだった。芝居がはじまってしまえばいつもの彼女に戻る、そんな俺の予感は正しかった。
緞帳があがってすぐ、軽い節と踊りまでつけて前口上を述べた『愚者』は、そのまま袖へ捌けず『兵隊』の演技の開始に絡んだ。『兵隊』に代わって『盗人』が登場してもまだ舞台を去ろうとせず、いかにも道化めかしたナンセンスな演技で場面を盛り立てた。
「さては貴様、兵隊の犬か」
「やれやれ、鳥の次は犬ですか」
「……? 鳥ってなに?」
「背中に翼を生やしていて、その翼を羽ばたかせて空を飛ぶ生き物ですよ。それにしても驚いたな。鳥を知らない人がいたなんて!」
「鳥くらい知ってるってば」
「じゃあどうしてこの僕に鳥の意味を聞いたりしたんです?」
「意味なんて聞いてない。鳥の次は犬とか言うから何のことかと思っただけ」
「はあ? なに言ってるんですか。鳥の次は猿ですよ? そんなことも知らないんですか?」
「言ったのはそっちでしょ。鳥の次は犬だって」
「うーん、しょうがないなあ。説明するからちゃんと聞いていてくださいよ?」
「聞かせてよ」
「これは僕の生まれた国の話なんですが、ある日のこと牛やら鼠やら何匹かの動物が集まってですね」
「だからそんなこと聞いてるんじゃないって!」
むしろ俺たちの方が引きずられていた。ちょっと足りない『愚者』が持ちかけてくる言葉遊びにも似た掛け合いに翻弄され、『博士』の手紙を巡っての追尾劇という軸を守るだけで精一杯だった。
それでも『愚者』を中心にまとまった芝居の流れには何の問題もなかった。『愚者』がつくるその軽快な流れに乗って最後まで演じきることができれば成功だと、中盤にかかるまではそんなことさえ考えていた。
――その構図が崩れたのは『愚者』が自分のことを『博士』だと言いはじめたあたりからだった。
「言葉を慎みたまえ。僕がその『博士』だ」
「……は?」
「手紙を盗まれた『博士』というのは僕だ」
「……何を言い出すかと思えば。そんなはずはないだろう」
「はずがあろうがなかろうが僕は『博士』だ」
「俺は『博士』から直接命令をいただいたのだ。そしてその『博士』はおまえなどではなかった」
「ほう、ではその『博士』とはどういった御仁だったのかね?」
「まずだな、『博士』はいつも眼鏡をかけていた。おまえは眼鏡をかけていないじゃないか」
「なら僕は『博士』だ。眼鏡なんていつでもかけられる、それをかければ僕は『博士』だ」
「それに髪型が違う。『博士』の髪は茶色で、ウェーブがかかっていて、それにもっと長かった」
「なら僕は『博士』だ。髪を茶色に染め、ウェーブをかけ、もっと長くすれば僕は『博士』だ」
「背格好だって違う。『博士』はおまえのようなちんちくりんじゃなく、もっとこう……男心を誘う身体つきをしていた!」
「なら僕は『博士』だ。成長して大きくなり、男がつい振り返るような抜群のスタイルを身につければ僕は『博士』だ」
「いい加減にしろ! じゃあ俺も『博士』か!? 眼鏡をかけ、ロングの茶髪にしてウェーブをかけ、性転換手術をしてナイスバディな女になった。さあ、これでどうだ。俺は『博士』か?」
「どうやらそのようだな。君も『博士』だ」
「ばかな! そんなはずがあるか。俺は断じて『博士』などではない!」
「ちゃんとわかっているじゃないか。そうとも、君は『博士』ではない。僕が『博士』だ――」
その遣り取りでは押し切られたが、当然『兵隊』も『盗人』も彼女が『博士』だなどとは認めなかった。屁理屈じみた『愚者』の言葉を否定し、追尾劇の本筋に流れを戻そうと努力した。
……だが流れは戻らなかった。そうして俺は――俺たちはいつしかその脈絡のない『愚者』の演技に呑まれていることに気づいた。
簡単な筋さえ失った本物の即興劇の舞台に、俺たちは立っていた。支離滅裂な流れの中に追尾劇の軸はすっかり埋没し、逆にその支離滅裂な流れはブレーキが壊れた車のように加速の度合いを増していった。
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