262 そんな規則は誰も守っていない(5)

 突然の声に寝台から跳ね起きた。


 目をやれば部屋の入り口に申し訳なさそうな表情のペーターが立っていた。……彼女の姿を見た途端、俺はなぜか激しい苛立ちに襲われた。「勝手に入ってくるな」と、その苛立ちを隠さない口調で吐き捨てた。


「……すみません。でも、下で何度か呼びましたよ? 扉の鍵も開いたままになってたし、何かあったんじゃないかと思って心配で」


「心配の必要がないことわかっただろ。……だいたい何の用だ。大学でキリコさん捜してるんじゃなかったのか?」


「だからその報告に来たんじゃないですか。理系の院を一通り回ってみたんですけど、それらしい名札がかかった研究室は――」


「そんな報告はいい。見つかったのならともかく見つからなかった報告なんていらない。とにかくさっさと出ていけ。見てわかるだろ、着替え中なんだよ」


 洗面所でシャツを脱いだきり俺の上半身は裸のままだった。だからその言葉には説得力があるはずだった。だが、ペーターは立ち去ろうとしなかった。部屋の入り口に立ったまま、「わかりません」と、思い詰めたような声で言った。


「はあ? 何がわからないんだ」


「着替え中だってことです。先輩は嘘をついてます」


「嘘なわけあるか。どこにそんな証拠が――」


「ありますよ。だって先輩ずっとその格好でベッドに寝そべってたじゃないですか」


「……っ!」


 その言葉を聞いた瞬間、苛立ちは怒りに変わった。嫉妬に苛まれ寝台の上で身もだえしている俺の姿をこいつは見ていた! そのことに恥ずかしさは感じなかった。代わりに俺は噴きあげるような怒りを感じた。


 ……それでも俺はその怒りを抑えた。今にも爆発しそうなその怒りをどうにか封じこめながら、一刻も早くこの部屋からペーターを追い出すべきだと直感した。だがそんな俺の葛藤をよそに、ペーターはなおも続けた。


「そんな嘘つくなんて先輩らしくないですよ」


「嘘じゃないって言ってるだろ。着替えようと思ってシャツ脱いだらどっと疲れが出たんだよ。それで寝てただけだ」


「脱いだシャツはどこにあるんですか?」


「……っ! いいだろそんなことはどうでも!」


「やっぱり変ですよ。先輩……何かあったんですか?」


「うるさい! いいから出ていけ!」


 俺はついに寝台から立ち上がり叫んだ。けれどもペーターはその場を動かない。薄暗い部屋の入り口に、哀れむような目をこちらに向け立ち尽くしている。


 その二つの目が俺の怒りをいやが上にもかきたてた。このままでは取り返しのつかないことになる――真剣にそう思い、俺はつとめて冷静に言葉を選んだ。


「……なあ、頼むから出て行ってくれ。今はおまえと話せるような心境じゃないんだ」


「……」


「ホールに降りるだけでもいい。下で待ってろ。気持ちを落ち着けたらそっちに――」


「……嫌です」


 はっきりとした拒絶の言葉がペーターの口から告げられ、俺は言葉を失った。それからゆっくりと、頭の中が真っ白になってゆくのがわかった。


「何があったのか話してください。……お願いです、先輩」


「……」


「私が聞いてもどうにもならないかも知れませんけど、話すことで少しは楽になると思うんです。だから……え? どうしたんですか先輩――きゃっ!」


 大股に近づいて細い腕を掴んだ。そのまま寝台まで引っ張ってゆき、無造作に押し倒した。肩を両手で押さえつけ、腰を両膝で挟みこむようにしてその身体を組み敷いた。


 ――雨の音が聞こえた。気がつけば冷たい寝台の上にペーターの顔を見下ろしていた。


 うすく唇を開いた、恐れるような困惑したような表情。けれどもその目は物言いたげな光をもって、じっと俺を見つめたまま動かなかった。


 その顎から首筋へ視線をおろした。


 肩口を強く引かれたブラウスには身体の線がはっきりと浮かんでいた。かすかに透けて見えるブラジャーの下に、たおやかな胸がゆっくり上下していた。更に視線をおろすとスカートが見えた。俺の両脚に挟まれたそのスカートは大きくめくれあがり、その奥には白い股と、薄いレースの下着が覗いていた。


 視線を戻した。彼女の顔にもうさっきまでのような表情はなかった。暗く光る二つの目がじっと俺を見つめていた。交錯する視線を介して二人の中で何かが通い合うのを感じた。


 その目が、すっと閉じられた。


 苛立ちから変化した怒りが、一瞬でまた別の感情に変わった。いや――変わらなかったのかも知れない。ただ静かに瞼を閉じた彼女を前に、俺を支配していた激情は明確な捌け口を得た。


 全身の血が沸き立つほどの、それは劣情だった。


 自分の下にあるその身体を滅茶苦茶にしてやりたいという衝動が黒い炎のように燃えあがるのを感じた。乱暴に服を脱がし、荒々しくむしゃぶりつき、汗だくになって絡まり合う――そんな想像が次々と頭に浮かび、炎はいっそう激しくなった。


 ……もう抗うことはできなかった。それでも俺は残された理性を振り絞り、決壊を少しでも遅らせようと歯を食いしばった。


「……ですよ」


 消え入るような声が彼女の唇から漏れた。その肩を押さえつける俺の右手に、彼女の左手が触れた。思わず力を抜いた。するとその左手は俺の右手を、ゆっくりと彼女の胸に運んだ。


「……いいですよ。先輩の好きにして」


 目を閉じたまま静かに彼女はそう言った。


 右手の中に柔らかい膨らみを感じた。その胸はこれまで漠然と想像していたよりずっと大きく、少し力を入れると指先は半ばまでその胸に沈みこんだ。その動きで彼女はわずかに身体を強張らせ、だがすぐに緊張を解いた。


 そんな彼女の様子を確認し、胸を掴む手にさらに力を入れようとして――そこで俺は指先にとくとくという小さな音を聞いた。


 ……それが心臓の鼓動であることに気づいて、俺は右手に力をこめるのをやめた。


 そのまま指先に彼女の音を聞き続けた。とくとく、とくとくと、たぶん普段より少し速い心臓の鼓動。乱暴に組み敷かれ、瞼を閉じた彼女の奥にその音を聞いているうち――俺の中で燃えさかっていた劣情は潮が引くように消えていった。


 そうして俺はまた別の感情に流された。最後にたどりついたその感情は――同情だった。


 なぜそうなったのかわからない。けれども俺は自分の下で目を閉じ、すべてを投げ出してされるがままになっている彼女に、胸が詰まるほどの同情を感じた。


 ……もう乱暴にすることなど思いもよらなかった。胸に触れていた手を離し、その手で軽く彼女の髪をかきまわした。驚いたような目が見開かれるのを認めて、ゆっくり寝台を降りた。


 彼女に背を向けたまま、「ごめん」と一言だけ謝った。下に降りようかとも思ったが、上半身が裸のままであることに気づいて、とりあえずそれをどうにかするためクロゼットに向かおうとした。


「……どうしてですか?」


「え?」


 思わず振り向いた。ペーターは寝台の上に身を起こし、虚ろな表情でこちらを見つめていた。


 ブラウスもスカートの裾もしどけなく乱れたままのその姿に、俺は改めて深い同情を覚えた。もう一度ちゃんと謝ろうと口を開きかけ、だがペーターの一言がそれを遮った。


「どうしてですか?」


「……?」


「どうして最後までしないんですか? あそこまでしといて」


「……」


「どうしてですか?」


「……」


「どうして……どうして私じゃ駄目なんですか?」


「……!」


 彼女の唇からこぼれたその一言に、俺は大きな驚きを覚えた。


 それは高校での二年間、そしてこの半年、その長い時間を通して一度も語られたことのない言葉だった。ことあるごとにほのめかされ、だがいつも巧妙に避けられていた問題の中心……そこにはじめて踏みこんでくる彼女の一言だった。


 返事を返せないでいる俺に、ペーターはなおも続けた。


「……答えてください、先輩。どうして私じゃ駄目なんですか?」


「……」


「私の気持ちなんてとっくに知ってますよね、高校の頃から。なのに、どうしていつも無視するんですか? ……どうして私じゃ駄目なんですか?」


 その質問に俺は答えられなかった。……答えられるはずがなかった。


 高二の春に出会ってから今日まで守り続けてきた俺たちの関係が、たった今崩れた。その事実に、俺はぞっとするような喪失感を覚えた。ずっと疎ましく思いながら、ときには呪わしくさえ感じながら――自分がその関係に安住していたことを、俺は今はじめて理解した。


「……前にも言っただろ。そういう規則なんだよ」


 長い沈黙のあとようやく口にできたのは、そんなどうしようもない返事だった。劇団内での恋愛を禁止するというヒステリカの規則……彼女が聞きたいのはそんな建前ではない。


 反論を恐れて俺は身構えた。だがペーターから返ってきたのは、予想もしなかった返事だった。


「誰も守ってないじゃないですか、そんな規則」


 ぎょっとしてペーターを見つめた。湿りきった薄闇の中に彼女の虚ろな目が浮かんでいた。光のないぼんやりとした二つの目。その二つの目に心の底まで覗かれている気がして、俺はたまらず視線を逸らした。


 そう――その通りだった。そんな規則は誰も守っていない。


 ……俺自身、その規則を守っていない。昨日の練習の終わり、誰もいないホールで自分の気持ちを肯定した時点で、俺はその規則を破った。そうしてたった今も――ペーターが部屋に入ってくるその寸前までも、俺はそのことに頭を悩まして苦しんでいた。


 俺はもう規則を守っていない。彼女の一言ではっきりとそれを理解した。……それをはっきりと理解させられた。


 再び視線をあげたとき、ペーターはブラウスのボタンをひとつずつ外していた。スカートはもう着けておらず、ブラウスの裾から真っ白な股が伸びていた。


 その股の間の翳りに、さっき見たレースの下着が淡く光って見えた。「やめろ」と、苦しい声で俺は言った。それでも彼女はやめなかった。無言のままボタンをすべて外し終え、そのブラウスから腕を抜こうとした。


「ペーター!」


 無意識に叫んだ。びくっと大きく身体を震わせ、そこでようやく彼女は服を脱ぐのをやめた。


 そのままの格好でぎこちなく固まり、腕を降ろそうともしない。まるで彼女の周りだけ時が止まったように、ペーターはそのまま動かなくなった。


 ペーターは何も言わなかった。何も言わず、ブラウスから腕を抜きかけたままの格好でいつまでも固まっていた。


 ……そのみじめな姿に、俺は再び激しい同情を覚えた。申し訳なさでも罪悪感でもなく同情だった。自分が同情する立場にないことはわかりすぎるほどわかっていた。けれどもそれは純粋で混じりけのない、文字通りの同情だった。


 薄闇の中にペーターは動かなかった。彼女を動かす方法を、俺はひとつだけ知っていた。そして彼女が動きを止めたまま、俺がそうするのをじっと待っていることも……。


 けれどもそれはできなかった。彼女のためにも、それだけはできなかった。


 動かないペーターを見つめながら、俺は自分にできることを考えた。彼女のためにしてやれることを必死になって考えた。必死になって考え続けて――やがて頭の中でかちりとスイッチが入った。


「ペーター」


 呼びかけても彼女は動かなかった。俺は大きく息を吸いこみ、もう一度声を限りに呼びかけた。


「ペーター!」


 今度は届いた。あげたままになっていた腕をゆっくりと降ろし、表情のない顔をこちらに向けた。その表情を受けとめ、じっと見つめ返してから、精一杯の思いをこめてその一言を告げた。


「時間だ。下に降りて準備にかかろう」

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