261 そんな規則は誰も守っていない(4)

「はっ、はっ、はっ……」


 息をきらしながら、がちゃんと勢いよく鉄扉を閉めた。


 どこをどう走ったのかわからない。気がつけば俺は小屋にいた。薄暗いホールの中、閉めきった扉に背もたれてへたりこみ、死にかけた犬のように荒い息をついていた。


「はあ、はあ、はあ……」


 Tシャツの襟首からジーンズの先に至るまでぐっしょりと湿っていた。こうしている間も汗は滝のように頬を伝い落ち、首筋を流れてTシャツに染みていった。


 咽の奥に塩辛くヒリつくような違和感があった。……たしか高校の体育で千五百メートル走のタイムをとったときもこんな感じだったと妙に懐かしく思い、ぜいぜいと息だけで文字通り苦笑した。


「はあ……はあ……」


 充分に呼吸が落ち着くまでにはだいぶかかった。できればずっとその場に座っていたい気分だったが俺は立ちあがり、ふらふらと覚束ない足どりで洗面所に向かった。貪るように水を飲んだあとぐしょぐしょのTシャツを脱ぎ捨て、階段をのぼり部屋に入るとそのまま寝台に倒れこんだ。


「……」


 うつむけに倒れ伏したまましばらく動けなかった。雨粒が屋根を打つ音をぼんやり聞きながら、また少し雨が強くなったことを思った。


 そうしている間も汗は流れ続け、身体の下の布団がみるみる湿ってゆくのを感じたが、俺はそのままでいた。重く水を吸ったジーンズを脱ぐことさえしなかった。


「……何だったんだよ、あれは」


 さっきの出来事を思い出して小さく身震いした。そこかしこに響いていた銃声からするとかなり広い範囲での銃撃戦だったようだ。


 ……と言うより、まるで戦争だった。暴力団の抗争か何かだったのだろうか。この間の事件のこともある。あの殺された男に関係する報復とか、あるいはそういうものだったのかも知れない。


 ウージを持った男の姿がありありと脳裏に蘇った。その背後に響いていた銃声もはっきりと耳の奥に残っている。……けれども自分が目にしたもの、耳にしたものをまだよく信じられない気持ちがあった。


 たしかにこの町は都心からそう遠くないし、暴力団の構成員が手近な戦場として選んだとしても不思議はない。だとしても自分がそんな場面に遭遇するとは思わなかった。町中での銃撃戦なんてものはテレビや漫画の中のことで、現実にはありえないことだと信じきっていた……。


 ふと視界の端にラジオが目についた。ひょっとしたらニュースでさっきのことを言っているかも知れない。そう思いゆっくりと身体を起こしかけ――瞬間、俺は寝台から跳ね起きた。


「……!」


 寝台を立つや俺は電話台に駆け寄り、引き出しの中身を床にぶち撒けた。床に散らばったものの中から小さなメモ用紙を拾いあげ、そこに記された番号をはやる手つきでダイヤルした。


 ――アイネが町にいるかも知れない。今こうしている間もリカを捜し町を歩きまわっているかも知れない。そうして俺と同じように偶然あの駅前の広場に行ってしまうかも知れない!


 受話器の向こうで呼出音が鳴っている。


 激しい焦燥の中でアイネが出るのを待った。なかなか出ない。携帯を家に置いてあるのだろうか……だとしたらどうにもならない。


 ……どうやらそのようだ。虚しい呼出音を一分近く聞きつづけたあと、俺は諦めて受話器を置こうとした。


『――はい』


 そのとき、受話器から声が聞こえた。俺は置こうとしていたそれを慌てて耳に戻した。


「もしもし、今どこにいる?」


『はい?』


 そこで初めて、受話器から聞こえる声がアイネのものではないことに気づいた。それは男の声だった。……番号を間違えたのだ。にわかに恥ずかしさを覚え、高ぶっていた気持ちが急速に萎えしぼんでゆくのを感じた。


『もしもし、どなたですか?』


「……すみません、間違えました」


 それだけ言って相手の返事を待たずに電話を切った。メモ用紙を取りもう一度ダイヤルに指をかけたものの、何となく気勢をそがれた感じでかけなおそうか迷った。


 ……考えてみればあれだけの騒ぎに警察が動かないはずはない。それならもう鎮圧が済んだか、少なくともあの広場に近づかないように呼びかけているだろう。それに、もしまだ野放しになっていたとしても、あの銃声ならかなり遠くからでも聞こえるはずだ。のこのこそれに近づいてゆくほど愚かなアイネではない……。


 そう思いはしたが、やはりもう一度ダイヤルを回した。今度はさっきのように呼出音が長く続くことなく、すぐに声が出た。


『もしもし』


「……」


 だがそれはさっきと同じ男の声だった。……どういうことだろう、電話番号自体が間違っているのだろうか。


 いや……この番号で何度かかけて繋がったのだからそのはずはない。ならどうして……。


『もしもし、どなたですか?』


 二回も間違い電話をかけられたのに声はあくまで丁寧だった。逆に俺はその声の主に筋違いな苛立ちを感じながら、さっきと同じ謝罪の言葉を口にしようとした。


「すみません。また番号――」


『たぶん合ってますよ』


「……え?」


にかけたのなら番号は合ってますよ、


「……!」


 卒然、俺は自分が喋っているその相手が誰であるかに気づいた。


 カラスだった。受話器から聞こえてくるその声は紛れもなくカラスの声だった。


 背骨の真ん中を冷たい水のようなものが抜けてゆき、心臓をわしづかみにされたような感覚を覚えた。


 ――どうしておまえがその電話に出る。


 喉元までせりあがってきたその質問を寸でのところで呑みこんだ。その質問を呑みこんでしまってから、俺は自分がそうした理由に気づいた。――それはカラスの口からその質問の答えを聞くことに対する恐怖だった。


『で、何の用でしたか?』


「……お前に用はないよ」


『そうですか。それならもう切ります』


「……っ! 待て!」


『はい、なんでしょうか』


「……」


『どうしたんです。僕に用はないんじゃなかったんですか?』


 ……完全にカラスのペースだった。ここは大人しく電話を切るべきだと心の中の冷静な部分が告げた。


 このまま話を続ければ聞きたいことは何も聞き出せないばかりか、いいようにいたぶられるのは目に見えている。だが俺は受話器を置くことができなかった。……そんなことはできるわけがなかった。


 何の手だてもないまま……何を聞こうとしているか自分でもわからないまま、ほとんど自動的に俺の口は動いていた。


「……そこにいるなら代わってもらいたいんだが」


『誰が?』


「その携帯の持ち主だよ」


『いえ、いません』


「……」


『ああそうか。の携帯にいきなり僕が出たんで驚いたわけですね』


「……そうだな」


『僕も出ようか迷ったんですけどね。ただ舞台も間近のようですし、緊急のことだったらいけないと思いまして』


「……」


『何か緊急のことでも?』


「……いや、そんなのじゃない」


『そうですか。でもそういうことならよかった』


 案の定、カラスの口からめぼしい情報は何一つ出てこない。これ以上なにも聞きたくない気持ちと、洗いざらい問い質したい気持ちが半々。せめぎ合うその二つの気持ちの板挟みにあって、俺は何も考えることができず、どうすることもできなかった。


『他には、何か?』


「……」


『なければこれで』


「――リカのこと」


『え?』


「リカがどこにいるか知らないか? 実はまだ見つかってないんだ、あいつ」


『……ああ、それなら知ってますよ』


「本当か?」


『いえ、リカがどこにいるか知ってるわけじゃありません。まだ見つかってないってことを知ってるだけです』


「……そうか」


『それに、今は僕も捜してますから』


「え?」


に頼まれたんですよ。ほら、月曜にハイジさんと一緒に見えられたじゃないですか。そのあとに』


「……」


『きちんと話してくれましたから。その上で頼まれれば僕も捜すのを手伝うのにやぶさかじゃありませんよ。そういうわけで、リカがどこにいるかは僕が知りたいくらいです』


「……そうか」


 カラスがアイネに頼まれ、リカを捜すのを手伝っている……それはどうということのない話のはずだった。だが俺はなぜかその話に激しい衝撃を覚えた。混乱していた頭が真っ白になり、心臓の鼓動が弱々しくなるのを感じた。


『まだ何かありますか?』


「いや……そのくらいだ」


 もうこれ以上は無理だった。予想に違わず俺は一方的に打ちのめされ、このままではとどめまで刺されかねない。茫然自失のまま俺は受話器を耳から離しかけた。『ああそうだ』というカラスの声がその動きを制した。


『ついでだからに言伝を頼んでもいいですか?』


「え?」


『今日のリハのあとにでも、と』


「……」


『お願いできますか?』


「……わかった」


『では最後の追いこみ、頑張ってください』


「……ああ」


『それじゃ』


 通話が終わったことを告げる無機的な発信音をしばらく聞いたあと、受話器を電話の上に戻した。それからまっすぐ寝台に歩み寄り、さっきと同じように力なく寝台に倒れこんだ。


「……」


 依然、頭の中は真っ白で何も考えられなかった。わずかに湿った寝具の冷たさを裸の上半身に感じ、薄暗い部屋の壁をぼんやり眺めながら、引きもきらず降り続ける雨の音に耳を傾けた。


 ――不意に、粘りけのあるどす黒い感情が胸の奥に湧きおこった。その感情はすぐ胸をいっぱいに満たし、血に溶けて全身に運ばれていった。


「……っ!」


 それは一瞬の出来事だった。気がつけば俺は歯軋りをし、全身をこわばらせてその感情に耐えていた。その感情がどういう名で呼ばれるものであるか、よく知っていた。……そんなことは今さら考えるまでもなかった。


『あいつはとびきり上物じょうもんの女だ。そういう女は放っとけばどこかの男がかっさらってくのがこの世界の掟だ。何千年も昔から決まってんだよ、そんなのは』


 庭園でのDJの言葉が耳の奥に響いた。


 その言葉に導かれるように、アイネとカラスの関係について決定的なことを想像しかけ――心を埋め尽くす感情が危険なほど激しく燃えさかるのを感じて必死にその想像を打ち消した。


 なぜあいつがアイネの携帯に……と、今し方の疑問がまたむくむくと頭にのぼってくる。だがそれも、俺はやっとの思いで抑えこんだ。


「……」


 ――理由はわからないが、たしかにカラスはアイネの携帯に出た。それはつまり、二人の間にそうなるような何かがあったことを示唆している。


 あの最後の言伝からするとアイネがカラスの部屋を訪ね……いや、その先は考えない。何があったのかはわからない。ただカラスがアイネの携帯を手に入れ、それを自由に使えるようになるくらいの何かが二人の間にはあったのだ。


 そこでふと、机の上に置かれたワインレッドの携帯が目についた。


 ……そういえばそうだ。考えてみれば俺もキリコさんから携帯を預かっている。そしてそれはリカを捜す上で連絡を取り合うためだった。今、協力してリカを捜すことになったカラスとアイネの間で、それと似たようなやりとりが持たれたのかも知れない。


「……っ!」


 けれどもその推理にもやもやした感情は治まらず、むしろいっそう激しく俺を苛んだ。アイネに頼まれ、リカを捜すのを手伝っている……カラスからそう聞いたときの衝撃がよみがえり、なぜかそれにたまらない悔しさを感じる自分がいた。


 アイネがカラスに頼ったことが悔しいのか、それともカラスがアイネのために動いていることが悔しいのか……そのどちらであるかわからない。わかっているのは俺がそのことに対して、息をするのも苦しいほど激しい嫉妬を感じているということだ。


 そう――これは嫉妬だ。人間が感じるなかで最も不毛で醜い感情だ。


 その原因もはっきりしている。俺はアイネという女に恋をしているのだ。昨日の夜に確認したばかりの、今朝は向き合わないでいられた事実。……その事実に今こうして否応なく向き合わされ、薄暗い部屋に半裸で寝台に突っ伏したまま、人間が感じるなかで最も不毛で醜い感情をどうすることもできないでいる。


 こんな思いを抱えたまま今日のリハに臨むことはできない。ましてや日曜日の舞台に立つことなど絶対にできない。


 できる限り早くこの感情を片づけなければいけないことはわかっている。そしてそのためにできるただ一つのことは、もう引き返しのかなわないこの道を先に進んでみることだということも、わかりすぎるほどよくわかっている。


 ……だがそれはできない。俺がこの道に自分の意思で一歩を踏み出すことは許されない。


 結果が恐ろしいわけではない。たとえその道が途中でとぎれ、奈落に落ちたとしてもかまわない。問題はそんなところにあるのではない。ずっと建前としてきたあのヒステリカの規則にあるのでもない。


『俺たちは何があっても恋人にはならない。約束してくれ、お願いだ』


 ……それは約束があるからだ。ヒステリカに入団したばかりの夜、俺から押しつけるようにしてアイネに結ばせたあの約束があるからだ。


 一昨日、そんな約束をした覚えはないとアイネは言った。だが俺はたしかにその約束を覚えている。冷たくあしらわれるのは怖くない、形骸化した規則を破るのも辞さない。けれどもアイネを相手に約束を破ることだけはできない。


 たとえこんな状況であっても……いや、こんな状況だからこそできない。なぜならあれは正しくこんな状況に陥ったときのために、俺の方から強引に結ばせた約束なのだから……。


「――先輩」


「……!?」

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