260 そんな規則は誰も守っていない(3)

 昼近くになっても雨は止む気配を見せなかった。途中立ち寄った電器屋のテレビでちょうど天気予報をやっていて、それによるとこの雨は少なくとも今夜遅くまで降り続くだろうということだった。


 それから悪いことに台風が近づいているらしい。上陸するかは微妙だと言っていたが、とりあえず日曜に直撃といった事態が起こらないことを祈るしかない。


 ――キリコさんのマンションを訪ねたのは予想通り無駄足だった。力なくうなだれる二日分の新聞は朝のままで、一応チャイムも押してはみたが何の反応もなかった。


 あと、できることがあるとすればストーカーよろしくドアの前に座りこんで待つくらいしかない。ほんの少しそうすることも考えたが、やはり断念してその場をあとにした。……そんなことをしていても時間の無駄だということが何となくわかったからだ。


「けど……いずれにしろ時間の無駄だったかもな」


 傘からしたたり落ちる水滴を眺めながら、小さくそう独り言ちた。


 本を読んでいるのを見かけたことがある本屋、行きつけだと言って一回だけ連れていかれた喫茶店、それからヒステリカ専用の稽古場である例の小屋と……それだけまわってしまえばもう心あたりは残っていなかった。


 それから俺はこうしてあてもなくとぼとぼと町を歩いている。どこかでばったりキリコさんに遭遇しないとも限らないという憶測あってのことだが、こんなことをしていても時間の無駄だということは、何となくわかる。


 雨の町を歩きながら俺は何度かアイネのことを考えた。


 散々に終わった昨日の練習のあと、誰もいない舞台に這いつくばるようにして一人泣いたこと――その涙の中に思い知らされたアイネへの思いを、繰り返し頭にのぼらせた。


 けれどもそうやって彼女のことを考える俺の心は、自分でも不思議なほど冷静だった。昨日あれほど俺を狂わせた激情は鳴りをひそめ、むしろ完全に燃え尽きてしまったような感じさえする。


 ――もっともそれは俺にとってありがたいことに違いなかった。舞台に向けて考えなければいけないことが山積みの現状においてそんな感情は邪魔以外の何ものでもないし、今日の朝練後にリカのことをアイネに話せたのもそのおかげと言っていい。


 俺の感じ方に間違いがなければ、あれでアイネとの関係はだいぶ修復できた。それというのも俺があいつに対してある程度冷静でいられたからだ。


 ……もちろん、死んでしまったわけではない。そう簡単に死んでくれるような思いでないことを、俺はよくわかっている。


 俺が今その思いを感じないでいるのは、向き合わないようにしているだけなのかも知れない。向き合うことを避けている……ただそれだけなのかも知れない。けれども、今はそれでいい。向き合わないことでその思いを感じずにいられるのなら、それが今の俺にとってはベストに違いないのだ。


 ――中身のぎっしり詰まった買い物袋を提げた女が向かいの歩道を歩いてゆく。


 ――黄色い傘をさした子供が長靴で水たまりを蹴りながらそのあとをついてゆく。


 ――おとなしい目をした犬が黒い雨合羽の老人を引いてゆく。


 ――乗客のほとんど乗っていない路線バスが濡れたアスファルトをゆっくりと踏みしめてゆく。


 何の変哲もない日常の風景だった。夏を告げる雨に濡れる静かで平和な町。だがこうして町を歩く俺自身はその風景に含まれていない気がした。いつも通りの町の風景がやけに遠く、手を伸ばしても触れられないもののように感じられた。


 朝に小教室でしたペーターとの話を思い出した。なぜ銃を使うのかという彼女の問いに、非日常を演出するためのギミックとしての銃について語った。


 ……あのとき俺はそれを安あがりで姑息な手段と呼んだが、舞台という空間を日常から切り離すことが演劇の基本であることを考えれば、そうしたギミックはいくら用意しても多すぎるということはない。


 重要なのはどんな手段を使おうとも、結果として観客を非日常的な舞台へいざなうことだ。一つで駄目なら二つ、三つと、安あがりなギミックを積み重ねることがそのためには必要になってくる。


 そこまで考えて……自分という存在をいつも通りの町の一部として感じられない理由に気づいた。


 思えば現在、俺の置かれた状況はまったく日常的ではないのだ。舞台直前だというのにおかしなことばかり起きる。腹から血を流して瀕死の友人が消え、先輩はその直後にわけのわからない電話をかけてくる。サークルのリーダーは人が変わったようにとても実現できない夢物語を口走り、あげくにその三人ともどこにいるかわからない。


 ……こうして考えてみると、いま俺のまわりには一掴みの日常すらない。


 まるで安あがりなギミックに畳みかけられているような気がする。そうして俺は少しずつ非日常の中にのみこまれてゆく。


 いつからこんなことになったのだろう――考えはじめてすぐ、それがあの事件現場を見たときからだということに思い至った。


 ……そう、あれがそもそものはじまりだった。


 風でめくれあがったビニールシートの下に覗いた死体の腕。俺を撃つためにゆっくり銃口を向けてくる女友だち。舞台に向け順調に流れていた俺の――俺たちの日常は、あのときを境にぼろぼろと崩れ落ちていったのだ。


 道ばたの噴水が勢いよく水を噴きあげた。時計に目をやると正午だった。……そこでふと、俺はもう一度あの事件のあった場所に行ってみようという気になった。


◇ ◇ ◇


「……何もないか」


 当然のように何もなかった。


 あの日、黒山の人だかりに埋め尽くされていた駅前の広場は、その喧噪が嘘だったかのように閑散としていた。


 平日の昼間ということもあるのだろう、周囲に人影はなく、飽きもせず降り続く雨がその情景をいっそう物寂しいものにしていた。


 泣き濡れる空っぽの広場をしばらく眺めていた。


 そうして眺めているうち、疲労とも諦めともつかないどんよりとしたものが頭から全身に広がってゆくのを感じた。もう何もかもどうでもいい――そんな投げやりな考えが心にすっと暗い影をさした。


「……帰ろう」


 自分に言い聞かせるようにそう呟いて、それから大きく一つ溜息をついた。


 ネガティブな考えに陥るのはきっと燃料が不足しているからだ。今朝は食欲がなかったことでろくに食べていないし、昼もそろそろいい時間だ。


 既に発見されたキリコさんが待っているなどということは万が一にもありえないだろうが、二人から何か連絡が来ないとも限らない。……とりあえず小屋に帰ろう。もう一度心の中で呟き、俺はもと来た道を引き返しかけた。


「……ん?」


 ぱぁん――と、耳慣れない音が広場の方から聞こえた。


 何の音だろう……そう思って俺は振り向いた。


 何もなかった。人っこひとりいない場末の駅前に、雨が音もなく降り続けているだけだった。


 気のせいだったのか……そう思って振り返ろうとしたとき、俺はまたその音を聞いた。


 ぱぁん、ぱぱぁん――


 音は駅の向かいのビル陰から聞こえた。


 俺にはまだそれが何の音かわからなかった。


 道路工事だろうか……削岩機が舗装に杭を打ちこむ音のようにも聞こえる。だがそれにしては音が高いし、これは削岩機の音というよりむしろ――


 ぱぁん、ぱぱぁん、ぱぱぱっ、ぱぱぱぱぱぱ――


 そんな俺の疑問に答えるかのように甲高い音が続けざまに響いた。


 そこでふと、自分がこの音を聞くのは初めてではないことを思った。


 これと似た音をどこかで聞いた覚えがある……そう、テレビのニュースだ。内戦の激化を伝える海外からの中継。乾ききった町に逃げまどう人群と、ぱらぱらと気の抜けた音。縁日の出店で売っているしけた爆竹のような……そう、ちょうどこんな感じの音。


「……」


 そこに至って、俺はようやくその音の正体に気づいた。


 俺が耳にしているこれは――銃声だ。


 雨は静かに降り続いていた。物憂げに濡れる広場の佇まいもさっきまでと変わらなかった。


 銃声はその広場に煙る雨に溶け、まるで別の世界のもののように聞こえた。だからそれが銃声であるとわかったあとも、俺はしばらくその場から動かなかった。


 最初に目にしたビル陰ばかりではなかった。いつの間にか銃声はそこかしこから聞こえるようになっていた。


 駐輪場のあたりからも、駅の裏からも……すぐそばからも聞こえる。今こうしている間にも燎原の火のようにみるみる広がってゆくようだ。ぼんやりそんなことを考えながら、俺はまだその場から動けなかった。


 何が起こっているのかわからなかった。確かに耳に届くその音を、現実のものとして認識することができなかった。頭では理解したことを心が受け容れようとしなかった。


 信じられるわけがない、こんな町中で銃声なんてそんなことが――


「……あ」


 ――黒山の人だかり、ビニールシートの下の死体、銃口を向けてくるリカの姿が続けざまに脳裏に蘇った。


 そして、俺は我に返った。


 今、自分が置かれている状況がどういうものか、その実感が津波のように押し寄せてきた。


 このままここにいてはやばい――そんな当たり前のことを今さらのように考え、一刻も早くこの場から逃げるべきだと思った。


 そう思うや、俺は動こうとした。……だが動けなかった。足は俺の意に反して、根が生えたようにその場から動かなかった。


「……!」


 向かいの路地から二人の男が飛び出してきた。どちらかと言えばラフな格好をした大男と、小綺麗な身なりの小男。


 どちらの手にも黒く重々しいものが握られていた。小男の持つそれはウージのように見えたが、大男の銃が何かは判然としなかった。


 おかしなことに、数メートルしか離れていない俺に二人はすぐには気づかず、前の方を指さして何かを言い合っていた。


 だがやがて小男の顔がこちらを向き、その目が大きく見開かれた。ウージの銃口がもたげられるのがスローモーションのように目に映った。


 その間も俺は指一本動かすことができなかった。戦うことはおろか逃げることさえできず、ただのように傘をさして突っ立っていた。


 そんな自分の滑稽さに笑いだしたい気持ちになり、今まさに撃ち殺されようとしている自分を他人事のように感じた。


 動け、動け、動け。


 頭の中で虚しく繰り返す声を聞きながら、ゆっくりとあがってゆくウージの銃口を眺めた。


 ぱぱっ、ぱぱぱぱっ――


「ぎあっ……」


 突然の銃声と共に大男が野太い悲鳴をあげ、小男が後ろを振り向いた。


 その瞬間、俺は傘を捨て転げるように駆け出していた。


 立て続けに銃声がおこるのを背中に聞いたが、振り返らずに走った。銃声が小さくなりそれが聞こえなくなってからも、雨の降り続く町を、俺は闇雲に走り続けた。

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