259 そんな規則は誰も守っていない(2)

「え?」


「言われてみれば、会って話したかも」


「いつ、どこでだよ」


「わからない」


「わからないわけないだろ」


「それこそまやかしみたいな話だから」


「……なんだよそれ」


「ごめんね。ハイジはちゃんと話してくれたのに」


 そう言ってアイネは申し訳なさそうに微笑んだ。そんな彼女に俺は全身の力が抜けるような感覚を覚えた。


 ……アイネらしくないといってこれほどアイネらしくない態度はない。


 はっきり言えばいい。話したくないなら話したくないと、いつものようにはっきりそう言えばいい。そうせずに言葉を濁し、曖昧な表情で微笑みかけてくるアイネにひどい違和感を覚えた。思わず目をそむけてしまいたくなるほどの、それは違和感だった。


 そんな俺のとまどいに気づいたのか、そのらしくない表情はほどなくしてアイネの顔から消えた。だが俺の胸に湧きおこった違和感はいつまでも消えなかった。


 こうしてまともに話ができるだけ昨日よりはだいぶましだ。けれども何かが違ってしまっている。それが何なのかはわからない。ただ薄い壁を隔てて向かい合ってきるようなこの状態が、今の俺にはたまらなく息苦しい……。


「……話はそれだけ?」


「ああ、それだけだ」


「そう。ならまたあとで」


 素っ気ない口調でそう言うとアイネは俺の脇をすり抜け、教室を出て行こうとした。そちらを振り向かないまま、「なあ」と俺は声をかけた。扉の前でアイネが足を止めるのがわかった。


「なあ……俺たち、どうしてこんな風になったんだろうな」


 アイネからの答えはなかった。


 扉が引き開けられる音と、引き閉じられる音。その二つの音を聞いたあと俺は深いため息をつき、ほとんど歯軋りするような思いで、口から出してしまった最後の一言を後悔した。


「――先輩」


 突然の声に俺は弾かれたように頭を向けた。アイネが出て行ったのとは反対側の扉から見知った顔が覗いていた。


「こんなとこにいたんですか先輩、捜しました」


「……聞いてたのか?」


「え? 何をですか?」


 質問の意味がわからないというような表情でペーターは教室に入ってきた。


 偶然にしてはタイミングが良すぎると思ったが、あるいは本当に偶然だったのかも知れない。少し考えて、そのあたりは追及しないでおくことにした。


「何か用でもあったか?」


「ありますよ。今日これからの指示をください」


「指示ならさっき出しただろ」


「あんな指示じゃわかりません。もっとちゃんとした指示をください」


「ちゃんとした指示って言ってもな……」


「先輩、本当にキリコさんのこと捜す気あるんですか?」


「……」


 予想しなかった一言に言葉を失った。そんな俺に畳みかけるようにペーターはなおも続けた。


「さっき先輩が言ってたのはヒステリカの隊長としての指示ですよね?」


「ああ……そうだ」


「隊長の指示には口を挟まないのがヒステリカのルールだってことは知ってます。と言うか、先輩に教えられました」


「だったら――」


「でもさっきのは納得がいきません。あんな指示じゃ何したらいいのかわかりません。だからあえてルールに逆らいます。もっとちゃんとした指示をください」


 ペーターの言いたいことはわかる。……そんなことはわかりすぎるほどわかっている。


 確かにあんな指示じゃ何をしたらいいのかわからないだろう。だがそれもそのはずだ。俺自身なにをしたらいいのかわからないからあんな指示しか出せなかったのだ。こいつにはそれがわからないのだろうか……。それともわかっていてこんなことを言っているのだろうか?


「今の先輩は、いつもの先輩じゃないじゃないですか」


「……!」


 ぎくりとした。今の××は、いつもの××じゃない。つい今しがた、自分がまったく同じ思いを別の人間に対して感じていたことを思い出した。


「……そうか? いつもと同じだろ」


「いいえ、同じじゃありません。……いつもの先輩なら、こんなとき目を反らしたりしませんよ」


 そう言われてはじめて、自分がペーターから目を反らしていることに気づいた。


 これではまるで……本当にさっきの逆だ。目の前に立つ後輩に何もかも見透かされている気がして、それで俺はなおさら視線をあげることができなくなった。


「私はただ、いつもの先輩に戻ってほしいだけです」


「……」


「キリコさんのことにしても同じです。あんなあやふやな指示で動いても見つかるわけない、いつもの先輩ならそれがわかるはずです。あんな指示じゃ、最初から諦めてるとしか思えませんよ」


「そうだな。半分諦めてる」


 ほとんど投げやりでそんな台詞を吐いた。ペーターの指摘が舞台への熱意からくるものだということはわかったが――それがわかるだけに苦しかった。


「……それじゃ、駄目じゃないですか」


「ああ、駄目だな」


 しばらく会話が途絶えた。黙っている間も俺はずっと床を見つめていた。だがいつまでもそうしているわけにはいかない。失望させてしまったことを思い、ゆっくりと視線をおこした。


 ――屈託のないペーターの笑顔がそこにあった。


「大丈夫ですよ、先輩」


「……?」


「そんなに気に病まなくても大丈夫です」


「……何のことだ?」


「決まってるじゃないですか、舞台のことです」


 すぐには理解できなかった。さっきまで俺を責め立てていた彼女がなぜいきなりそんなことを言い出すのかわからなかった。


 けれどもそんなペーターの言葉に救いのような温かいものを感じて――その絡繰りに気づいたとき、温かいものは一瞬にして激しい苛立ちに変わった。


「いつもの先輩に戻ってください。そうすれば大丈夫です。困ったときは先輩がいつもどうにかしてくれたじゃないですか。私は先輩を信用してます」


 ……ああ、まただ。これはまたいつものだ。


 こいつは俺を慰めているのだ。何のために? ……考えるまでもない。高校の頃から俺が――俺たちがどれだけ同じことを繰り返してきたと思っている。


「いつだってそうでした。あのときだってそうだったじゃないですか。私がまだ劇部に入ったばかりのあのときですよ。先輩、覚えてますか? 春公演の前にマドカさんが骨折しちゃったときのこと――」


 ……どうしてだろう。どうしてこいつはいちいち俺を苛立たせるのだろう?


 いや……どうして俺はこいつの言葉にいちいち苛立つのだろう?


 ペーターにしてみたところでそんなつもりはないのかも知れない。ただ素直に元気づけてくれているだけなのかも知れない。そう考えたところで苛立ちは消えてはくれない。それを態度に出さないようにするだけで精一杯だ。


 ……ここでペーターとこじれるわけにはいかない。そう思ったとき足は動いていた。


 扉に手をかけ引き開けたところで、「どこに行くんですか?」と、困惑したような弱々しい声が後ろから聞こえた。


「――便所」


 後ろ手に扉を閉めると俺は言葉通り便所に向かい、掃除したばかりなのだろうか消毒液の臭いが漂う個室に閉じこもった。そうして、『何をやってるんだ、俺は』と、今日でもう何度目になるかわからない悪態を、声もなく自分にぶつけた。


 充分に時間をおいて小教室に戻るとペーターは席につき、手の中で何かを弄んでいた。いったんこちらを見て、また手の中のものに視線を戻す。よく見ればそれは拳銃だった。何の気まぐれか模型屋の店主が無料ただでくれたあのデリンジャーだ。


「……そんなもの持ち歩いてるのか」


「手に馴染ませないといけませんから、舞台までに」


 ペーターは視線をあげないまま、いつまでもデリンジャーをいじっていた。


 ふて腐れているのかと思ったが、こいつはこういうふて腐れ方はしないのだと思い直した。仕方がなく隣の席に座った。さっきのことを謝ろうかどうしようか迷っているうちに、「先輩」という声がかかった。


「ん?」


「どうして私たちは銃とか使うんですか?」


「……なぜ人間が殺し合うかって意味か?」


「違います。どうして舞台で銃を使うかってことです」


「ああ、そういうこと」


 相変わらず手の中にデリンジャーを弄ぶペーターを横目に、少し時間をかけて考え、言った。


「安あがりに非日常が演出できるからだな」


「……どういうことですか?」


「日常で銃を目にすることなんて滅多にないだろ。だからそれをちらつかせることで観客は舞台を非日常の空間として見てくれるんだよ。……考えてみれば姑息な手段だけどな」


「でもそれなら、銃での撃ち合いが日常みたいなとこだと駄目ですね」


「それはそうだろ。ただまあ、銃での撃ち合いが日常なら舞台どころじゃないだろうし」


「見つける気ないんですか? キリコさんのこと」


「……」


 そこでようやくペーターは銃をいじるのをやめ、まっすぐにこちらを見た。


 ……迷いのない真摯なまなざしだった。今度こそ、そのまなざしから逃げるわけにはいかなかった。


「見つける気はある。キリコさんは見つけないといけない。……ただ捜すには情報が少なすぎる。本名さえ知らないんだ」


「……そうですね」


「躍起になって捜しても見つかる可能性は低い。……と言うより、ほとんどない。それでも捜そうって言ったのは、そのほとんどない可能性に賭けてるわけだけど、リハの前にくたくたになるほど真剣になってもらっても困る。……俺が言いたかったのはそういうことだ」


 我ながらしまりのない説明だと思った。適当に手を抜いて捜してくれと言っているようなものだ。取り繕いの言葉を考えていると、「私はいいですよ」という声が隣から聞こえた。


「え?」


「やれって言われれば二人でもやりますよ。私はそれでもいいです」


「……」


「もしキリコさんが見つからなくても大丈夫ですから。先輩ばっかりそんなに思い詰めないでください」


 そう言ってペーターはまたさっきのように微笑んだ。


 今度はその慰めを素直に受け容れることができた。やはりこいつは普通に俺を気遣ってくれているのだ……そう思い、つい数分前に自分がとった理不尽な態度を改めて後悔した。


 ……実際にはそう上手くいかないだろう。いくらペーターが二人でやれると言っても、アイネが同じことを言うとは限らない。


 だがペーターならやるだろう。こと即興劇というジャンルにおいてペーターという役者がどれほどのものを持っているか、そのことを俺は誰よりもよく知っている。こいつならたとえ一人でも立派に日曜の舞台を演じきってくれると、そんな確信に近いものさえある。


「……強くなったな」


「え、誰がですか?」


「おまえだよ、おまえ」


「そうですか? そんなことないと思いますよ?」


「元からそんな感じだったか」


「たいして成長してないとも言いますけど」


 ……思い返してみれば確かにそうかも知れない。高校の頃からこいつはどんな逆境にあっても平然としていた。


 ときとして病的な心の弱さをかいま見せはするが、普通の人間が普通に挫けてしまうような場面でも、ペーターはいつも驚くほど精神的にタフだった。


 あるいはそのときどきに俺が苛立ちを感じずにはいられなかったのも、彼女のそうした強さに対するコンプレックスがあったからなのかも知れない。今さらながらそんなことを思って、俺は小さく一つ自嘲の溜息をついた。


「院の校舎だ」


「え?」


「理系の大学院の校舎。あの人に手がかりがあるとすればそこだけだ。ドクターなら研究室に名札がかかってるだろうからいちいち聞いてまわる必要はないし」


「でも、名前知りませんよ?」


「略して『キリコ』になる名前だ。キリハラルリコとか、キノシタリツコとかそんな感じ。女性で理系のドクターってのは珍しいから、それでかなり絞れると思う」


「そうか……そうですね。わかりました。……へへ」


「……何だよ」


「やっぱりいつもの先輩だなあと思って」


「……言ってろ」


 照れた様子も見せず素のままの表情でそんなことを言うペーターに、俺の方がたまらない恥ずかしさを覚えた。


 だがそれと同時に、最初からこのくらい具体的な指示を出しておくべきだったという反省に駆られた。何だかんだで俺はこいつに助けられている……と、ここ数日とみに感じるようになった感慨を、また思った。


「先輩はこれからどうするんですか?」


「さっきも言ったようにまずキリコさんのマンションを覗いてみる。それからキリコさんがいそうなところを端からまわる。こっちはまあ、雲をつかむような話だけどな」


「そうですね」


「昼はたぶん小屋にいるから、何かあったらそこで」


「わかりました」


 話はそれで終わり、俺たちは席を立って小教室を出た。別れ際にペーターが似合わない握り拳をつくり、「頑張りましょう!」と言ったので思わず笑ってしまった。


 それでも小雨の降る構内を抜け、キリコさんのマンションに向かう俺の気持ちは明るかった。何だかんだでこうやっていつもペーターに救われているなと、改めて俺はそう思った。

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