258 そんな規則は誰も守っていない(1)

 雨が降っている。


 陰鬱という言葉をそのまま映したような空から、一夜越しの雨が絶え間なく降り続いている。


 冷たい雨だった。昨日までの陽気が嘘のように今朝の空気はひんやりと肌寒い。ジーンズを通して伝わってくる石段の冷たさも、腰をおろしたときから少しも変わっていないように感じられる。


「それなら、急な連絡があるときなんかはどうしてたんですか?」


「急な連絡なんてなかったから」


「なかったって、一度もですか?」


「ああ……うん。なかったと言うより、連絡する必要がなかった。隊長はずっと会館に詰めてたし、わたしたちはいつも決まった場所で練習か作業してたから」


 傘をさした学生が一人、二人と目の前を抜けてゆく。一限がはじまって十五分だがどの顔も急いではいない。今から教室にもぐりこんでも出席には充分間に合うのだろう。


 会館はいつも通り一限開始のチャイムと同時に開いた。扉の開く音が響いたときペーターは腰を浮かせ、『談話室に移動しますか?』と尋ねてきたが、俺が答えないでいるとまたその場に腰を降ろした。


 そのあとでペーターは申し訳のようにちらりと背後を見た。その場所――俺の視界に入らない真後ろに座るアイネが動こうとしていたのか、あるいはそうでなかったのか、俺にはわからない。


「でも、それって舞台が迫ってるときの話ですよね。ちょうど今みたいに一週間前とか」


「そうだけど」


「そうじゃない普通のときに急な連絡ができたら?」


「普通のとき?」


「舞台が迫っていないときのことです」


「もっとない。舞台が迫ってもないのに急な連絡なんて」


「そうですか?」


「入団してから今日までやってきて、急な連絡なんてあった?」


「……そうですね。考えてみれば」


 ぽつりぽつりと二人が話す声が耳に入ってくる。聞くともなくその会話を聞きながら、アイネとペーターがこんな風に喋るのは珍しいと今さらのように思った。


 ……もっとも三人きりの話し合いで一人が口を閉ざした場合、残る二人はどうあれ喋り続けるしかないのかも知れない。たとえそれが気休めにすらならない無意味な会話であったとしても。


 昨日に引き続き、朝練の始まる時間になってもキリコさんは現れなかった。彼女ばかりではない、今朝集まったのはこうして石段に座っている三人だけで――隊長の姿がそこにはなかった。


 予想しなかったことではない。むしろそうなるのではないかという思いは昨日の夜からずっと燻ってはいた。


 だが実際にその二人が朝練に来なかったという事実に、俺の心は予想していたよりはるかに激しく軋んだ。結局そうだ……俺は心のどこかで二人がいつも通り朝練に来ることを信じていたのだ。


 三人での発声を終えたあと俺たちは誰からともなくこの石段に座り、こうして今に至るまで気の抜けた話し合いを続けている。趣旨はもちろん俺たちがこれからどうすべきかということだったのだが、決まったことといえば、当面は俺が仮の隊長としてやっていくということくらいだ。


 ペーターが強く押し、今度はアイネも認めないとは言わなかった。それを受け容れたあたりで俺は会話から離脱し、それからずっと押し黙ったままでいる。


 沈黙の理由はキリコさんたちが朝練に来なかったことを引きずっているためではない。……いや、それもあるにはあるのだろう。他にも色々と心にかかっていることはあるのだろうけれども、仲間たちを前に黙りこくるほど俺は混乱も絶望もしていない。


 最初に沈黙したのは俺なりに隊長としての責務を果たすため、つまり俺たちがこれからどうすべきかについて考えるためだった。口を閉ざして真剣に考えはじめ――すぐ袋小路に入りこんで、そこから抜け出せなくなったのだ。


 今朝方、俺は朝練の前にキリコさんのマンションを訪ねた。


 早い時間だったこともあり、まだ照明の灯る階段をのぼると、湿気を帯びてうなだれる二日分の新聞が俺を出迎えた。何度かチャイムを押してみたがのつぶてで、そのうち上から女性が降りてきたのですごすごとその場をあとにした。


 キリコさんのことを聞いてみようかとも思ったが、あからさまに不審そうな目で睨まれてはそれもできない。……第一、何と言って聞けばいい? 大学で一緒のサークルというだけで、俺は彼女の本名さえ知らないのだ。


 そう――俺はキリコさんのことを何も知らない。


 キリコというコードが本名をもじったあだ名であることは知っているが、その本名は知らない。ある学部のある研究室で博士論文を書いているのは知っているが、それがどの学部のどの研究室なのか知らない。携帯電話の番号は知っているが、それは一昨日預かったまま今も俺のポケットの中にある。……どの糸をたどってみても途中で切れている。つまりは捜そうにも捜しようがない。


 ヒステリカをヒステリカたらしめている暗黙のルール――本名さえも隠し通せるという型破りな匿名性。その問題がここへきて一気に吹き出したかたちになる。


 ……何も不思議はない。そもそも今日まで何もなくやってこられたことの方が不思議だったのだ。いつかこんな日が来るのではないかという不安を感じたことも一度や二度ではない。……ただその不安は、隊長のいなくなったあとのヒステリカに向けられたものだったけれども。


 これまで俺たちがどれだけ隊長に頼り切ってきたか、こういう事態になって痛いほどそれがよくわかる。


 隊長ならこういうとき俺たちに悩む暇さえ与えず的確な指示を出してくれる。……いや、そもそもここまで問題が悪化する前に何かしかるべき手を打ったに違いない。舞台にまつわる厄介ごとはいつも隊長が何とかしてくれた。だから俺たちは安心して演技に集中できた。……だが、その隊長はもうここにはいない。


 思えば隊長はヒステリカの持つ匿名性の象徴だった。


 俺たちは彼の個人的なことを何ひとつ知らなかったが、演出として舞台監督として、何よりヒステリカの代表として、彼を心から信頼していた。


 その隊長はもういない。俺たちの知っている隊長は昨日の練習で死んでしまった。悪夢なら覚めてほしいと願ったあれは、結局、夢ではなかったのだ……。


「裏方の人にあたってみるのはどうですか?」


「あたるって、何を?」


「隊長の連絡先ですよ」


「どうして裏方に」


「教えてあるかも知れないじゃないですか、裏方の人には」


「それはないと思うけど」


「そうですか?」


「うん。団員にさえ教えないのに、裏方に教えるってことはないと思う」


 ……おそらくアイネの意見が正しいだろう。それを裏方に教えるくらいなら俺たちにも教えていたはずだ。


 第一、ヒステリカの裏方はゲネプロと当日こそ忙しいが、そこまでは仕事らしい仕事はないし、普通なら緊急の連絡など出てこない。あるとすればドタキャンくらいだが、裏方はみな俺たちの知人だから、連絡のとりようはいくらでもある。


 そんな事情の裏方に信条を曲げてまで隊長が連絡先を教えていたとは思えない。それに――


「それに隊長の連絡先を知ってるかなんて聞いてまわったら騒ぎになるんじゃない? この大事なときに」


「それはそうですけど……でも、どうせばれますよ? 明後日には」


「だから明後日までにはどうにかしないと」


「どうにかするって、どうするんですか?」


「それを考えているんでしょう、今」


 どこか疲れたようなアイネの声が頭の裏にかかった。その言葉が俺に向けられたものであることは何となくわかった。


 ペーターもそれに気づいたのか一瞬険しい目でアイネを睨み、だがすぐ元の表情に戻ってじっとこちらを見つめてきた。


「先輩の意見も聞かせてください」


 短い沈黙のあと、思い切ったような口調でペーターはそう尋ねてきた。それでも俺が黙っていると、また後ろで声が響いた。


「邪魔しないの。は考えてるんだから、今」


「でも話し合いになってませんよ、さっきから」


「そのあたりもはよくわかってると思うし」


「そのあたりって、どのあたりですか?」


「話し合ってどうなる問題でもないってあたり」


 あからさまな皮肉にペーターがまた眉をひそめるのが見えた。だが俺はそのアイネの言葉に救いのようなものを感じた。


 ……つまりはそういうことだ。話し合ってどうなる問題でもない。


 さらに言えば考えてどうなる問題でもないし、行動してどうなる問題でもない。今、手元にある情報で二人を捜したところで徒労に終わるのは目に見えているし、うまく捜しおおせたとしても、それは俺たちがよく知る彼らではないかも知れない……。


「キリコさんに照準を絞って捜す」


 それでも俺の口はそう告げた。午後のリハまでの時間をどう使うか考え抜いた末の、それが俺の結論だった。


「隊長は捜さなくていい。昨日のことを考えれば捜しても意味がない。あの人は本番まで……いや、本番にも戻らないと考えたほうがいい。そうなると俺が舞台監督をやるしかないけど、役者が二人じゃ芝居にならない。だから舞台のためにはキリコさんを捜すのが最優先になる」


 思ったよりずっと滑らかに言葉が出てきた。として俺が告げるはじめての指令を、アイネとペーターはただ黙って聞いていた。


「……裏方にはゲネプロで正直に言うしかない。それまでは気を患わせずに俺たちにできることをする。もっとも、調整がやっかいなのはDJの仕事だけで、あとはどうにでもなる。あいつは明日の仕込みに来るから、そこで俺からちゃんと説明する」


 それが一番面倒な仕事なのは間違いない。照明と音響を一手につかさどるオペレーションはヒステリカの舞台のかなめで、その仕事は舞台監督との連携がすべてと言っていい。


 そこがうまくいかなければどの道、舞台の成功はありえない。だが逆にそこさえうまくいけば、三人の役者しだいで舞台は赤くも黒くもなる。


「俺はこれからもう一度キリコさんのマンションを覗いて、そのあと思いあたるところを端からまわってみる。捕まえたら小屋で待機ってことにしよう。もちろん捕まった本人も。あと三時には小屋に集まって、見つかっても見つからなくても。どの道いつもと同じにはいかないし、時間はいくらあっても足りないから……」


 簡単な連絡と最小限の指示、そしてその中で自分が何をするかということだけを、俺は淡々と語った。


 他人に書いてもらった文面を読みあげているような声……ろくに内容のない空っぽの言葉。こんなものが俺の隊長としての最初の台詞だと思うと悲しかった。けれども急仕立てに隊長の制服を着せられた俺の、それが精一杯の台詞だった。


 そんな俺の気持ちを汲んでくれたのだろうか。話に区切りがついたところでアイネは短く一言、「わかった」と言った。そうしてすぐ、背後に彼女が立ちあがる気配を感じた。


「わたしも心あたりをまわってみる。見つかったら小屋ね」


 そう言いながらアイネは脇を抜け……結局、俺とは目を合わせないまま石段を降りていった。


「――というわけで、散開」


「待ってください。私はどこを捜せばいいんですか?」


 立ちあがりかけた俺をペーターの声が止めた。俺は彼女の方を見ずに「心あたりをまわってくれ」と返した。


「……心あたりなんてないです、私には」


「なら、大学の中を頼む」


 ペーターから返事が返ってくる前に俺は石段を立ち、ほとんど小走りにその場をあとにした。


 だがそんな風に俺を急がせたのはペーターの質問でもなければ、もう半分諦めているキリコさんの捜索でもなかった。


 もう一度キリコさんのマンションを覗いてみる――今しがた口にしたその言葉を実行に移す前に、俺にはどうしてもやらなければならないことがあった。



「……何なのよ、いったい」


 文学部の校舎棟の前でアイネに追いついた。声をかけても立ち止まらない彼女の腕を引き、半ば強引に使われていない小教室に連れこんだ。


「放してよ。痛い」


「……そんなに強く握ってないだろ」


「いいから、放して」


 それでも俺は手を放さず、そのまましばらくアイネと睨み合っていた。


 どちらからも言葉はなかった。扉の向こう側――教室に面した廊下をコツコツと小さな靴音が通り過ぎていった。


 そこでようやく俺はアイネの腕から手を放した。彼女は素早く腕を引っこめ、当てつけがましく掴まれていたところをさすって見せた。だが、それでも教室から出て行こうとはせず、向かいの壁に背もたれて胸の前に腕を組んだ。


「それで……何の話?」


「本当なら昨日の朝にするはずだった話」


「……?」


「教えろってしつこくせがまれた話だよ」


「だから、いったい何の――」


 そこまで言うとアイネはふっと口をつぐんだ。何かに気づいたように大きく目を見開き、だがすぐ元の表情に戻った。そして触れれば切れるような鋭い目をまっすぐこちらに向けてきた。


「聞かせて」


「……ああ」


 それから俺は一昨日の出来事をひとつひとつ思い出しながら語った。キリコさんから携帯を渡されたあらましも、アイネとの仲直りのためにリカを捜したことも隠さずに喋った。


 当然、あの路地裏のビル陰でのリカにまつわる事件のことも。


 その話の間中アイネは口を挟むことはおろか相づちのひとつも打たず、どこか険のある表情でじっと俺を見つめていた。小屋の前での一件は適当に流し、最後にあのキリコさんからの謎めいた電話のことを話して、それで説明を締めくくりアイネからの反応を待った。


「……話してくれてありがとう」


 だいぶ時間を置いてからアイネは感情のこもらない声でそう言い、大きくひとつため息をついた。


 予想していたものの中で一番良い答えに、内心ほっとするものがあった。だがそんな俺の心など見透かしたように、「本当は一昨日に聞きたかったけど」とアイネは言った。


「まだ見つからないのか?」


「……なに言ってるんだか。ハイジが見つけてくれたんじゃないの?」


 そう言ってアイネはいかにも皮肉たっぷりという目をこちらに向けてきた。


 ……よく見ないうちに、それが演技であることが俺にはわかった。どうしようもないほど下手くそな、痛々しささえ感じさせる演技。その演技の理由は何となくわかったが、つきあう気にはとてもならなかった。


「まだ捜してるのか?」


「だから、それはハイジが――」


「リカのこと、まだ捜してるのか?」


 ぎこちなく唇を開いたままアイネは固まり、ゆっくりと視線を床に落とした。


「……もう、疲れちゃった」


 彼女のものとは思えないほど弱々しく、乾いた感じのする声でアイネは呟いた。


 ずきり、と胸に痛みを覚えた。だがその彼女はすぐに消え失せ、短いため息をついて再び視線をおこしたとき、それはもういつものアイネだった。


「それに、昨日の隊長の話で気持ちの整理がついたし」


「……どういうことだ?」


「リカはたぶん、もうそっちに行ってるんだと思う」


「そっち?」


「キリコさんと同じとこ。残酷演劇だっけ? 隊長の話してた、こことは別の世界」


 思わずじっとアイネの顔を見つめた。そこにさっきのような皮肉の色か、冗談をにおわせる薄笑みのようなものを探した。……だが、そんなものはどこにもなかった。


「……あの話を、アイネは信じてるのか?」


「信じてるわけじゃないけど……。そうね、信じてるのかも」


「冗談だろ。あんなまやかしみたいな話」


「まやかしみたいな話ってことなら、さっきのハイジの話だって似たようなものじゃない」


 反射的に言い返そうとして――何も言い返せなかった。まったくアイネの言う通りだったからだ。


 しばらくの沈黙があった。外の廊下をまた誰かの足音が通り過ぎていった。


「――あのときのことリカに話したのか?」


「……あのときって?」


「月曜のこと」


「月曜にも色々あったと思うけど」


「あいつんの前での茶番」


 ようやく理解したのか一瞬アイネは驚いたような表情をつくり、それから気まずそうに目をそらした。


「……してない。だいたいどうしてできるのよ、会ってもないのに」


「一昨日、リカに冷やかされたんだよ。アイネから聞かされたって」


 俺がそう言うとアイネはまた大きく目を見開き、けれども今度は真剣なまなざしを俺に向けてきた。


「……わたしに聞かされたって、リカがそう言ったの?」


「ああ。俺が言った台詞そのまま真似されて、見てたのかって言ったら、ううんアイネに聞いたの、って。……本当に会ってないのか?」


 リカには会っていないというアイネの言葉を疑う気持ちはなかった。彼女は少なくともそういうことで嘘はつかない。だから聞いたのはほんの気まぐれだった。


 だがその質問にアイネはしばらく黙りこんだあと、「会ったかも」と独り言のように呟いた。

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