257 泣かなかった、泣けなかった(9)
雨はまだ降り続いていた。
昼間ほどの勢いはもうなかったが、それでも充分に粒の大きな雨が宵闇の商店街を濡らしていた。
冷たい雨だった。その冷たい雨の中を傘もささず、商店街の出口に向かいアイネは歩いていた。
……こんな冷たい雨に濡れていたら風邪を引く。遠方にアイネの背中を見つけてすぐ俺はそう考え、舞台前にそんな軽率なことをしている彼女に軽い怒りを覚えた。
だがその背中を追い駆けるうち、俺にその怒りを覚える資格はまったくないことを知った。……俺もまた傘を持たず、この冷たい雨に濡れていることに気づいたのだ。
やがて追いついた。手を伸ばせばアイネの肩に触れられるところまで近づいて、俺は足を止めた。
アイネを引き留める言葉がない……それを今さらのように思った。アイネは前言を翻さない。さっきと同じ言葉で引き留めても意味はない……。
アイネは立ち止まらない。そのまま歩いて行ってしまう。俺がここにいることに気づいていないはずはない。だが彼女は振り返ることさえしない。
……俺はその背中に声をかけることも、追いかけることもできなかった。
悔しさとも悲しさともつかない感情が胸にこみあげてきた。瞬時のうちに胸を満たして、それでも湧き続けるその感情は喉を迫りあがり、苦しい呻きとなって俺の口からこぼれた。
「アイネ」
自分でもよく聞き取れないほど小さな声だった。けれどもアイネはその声に立ち止まり、静かにこちらを振り返った。
「……!」
振り返ったアイネの顔に――なぜだろう、一瞬、ペーターの顔が重なって見えた。
追いかけてきた理由を問い質すようにきつく俺を見据える目。だがその目のまわりには何かを堪えるような……引き留める俺の言葉を待っているような表情が滲んでいた。
その顔は……似ていた。さっきのやりとりの中で俺が激しい嫌悪を感じたあいつの顔に見紛うほどよく似ていた。
だが、そんなアイネの顔に俺は嫌悪を感じなかった。嫌悪を感じずに俺は……それとはまったく別の感情を感じた。
胸が掻きむしられるような衝動があった。――その衝動の正体に気づいたとき、俺は堪らずアイネから目を逸らした。
俺が目を逸らしてもアイネはしばらくその場から動かなかった。動かないその足下を見つめながら俺は震えるほど拳を強く握り、奥歯を噛みしめて激しい衝動に堪えた。
そうして必死に堪える間、頭の中の妙に醒めた一部分で、笑い出したくなるほどの理不尽を思った。
……同じ表情を向けてくる二人の女に、俺はまったく正反対の感情を覚えている。
嫌悪とその逆。嫌悪を向けられた女はその逆を求め、その逆を向けられた女は……どうやら俺を嫌悪している。こんな理不尽な話はない。こんな滑稽で気の利かない茶番はそう滅多にない……。
履き古された黒のローファー。小さな水音を響かせてそれが視界から出ていったあとも、俺は今までその靴があった場所をじっと見つめていた。
衝動はにわかにその激しさを増し、だがやがて急速に消えていった。
そしてその代わりに痛みが……鈍い熱をもった痛みが、ゆっくりと心に広がっていくのがわかった。
◇
小屋に帰り着くとペーターはまだいた。仮舞台の端に腰かけてじっとこちらを見つめていた。
「……いたのか」
「なに言ってるんです。先輩が待ってろって言ったんじゃないですか」
「ああ……そういやそうだったか」
「風邪引きますよ。何やってるんですか、こんなときに……」
そう言ってペーターは傍らに畳み置かれていたバスタオルを広げ、ふわりと俺の頭にかけた。
家のタオルだった。断りもなく部屋に入って家捜しをした彼女に軽い憤りを感じはしたが、あえて言葉には出さなかった。
乾燥したバスタオルは肌に心地よく、生き返る思いがした。……だがそうして身体を拭きながら、まだ雨に濡れているだろう一人の女を思って、胸の痛みがまたぶり返してくるのを感じた。
「服びしょびしょじゃないですか。着替えた方がいいですよ?」
「いや……このままでいい」
自分でも着替えるべきだと思ったがそう答えた。俺が濡れたままの服を着続けることに何の意味もない……そんなことはよくわかっていた。
わかってはいたがそうせずにはいられなかった。胸の痛みはそれほど激しいものになっていた。
ペーターは釈然としない様子で「そうですか」と言ったあとしばらく黙っていた。だがやがて溌剌とした表情をつくると、「ならはじめましょう」と言った。
「……何をだ?」
「練習に決まってるじゃないですか。今日の練習はまだ終わってませんよ、先輩」
思わずペーターを見つめた。その顔に気負いはなかった。平然と何事もなかったかのような調子で、「さあ練習しましょう」ともう一度ペーターは言った。
「先輩の言う通りですよ。最後の練習は気持ちよく締めないと。二人での練習になっちゃいましたけど、先輩に見てもらいたいと思ってたとこ沢山ありますし」
そう言ってペーターは微笑んだ。
その笑顔を見たとき――嫌悪が舞い戻ってきた。それは高校時代に感じていたものよりも、今朝やさっきの練習の中で感じたものよりもはるかに強い、灼けつくような嫌悪だった。
……はっきりペーターを邪魔だと感じた。彼女が自分に向けてくる好意――その剥き出しの好意が俺には許せなかった。
「……止めよう」
「え? どうしてですか?」
瞬間、ペーターはあの表情をつくった。食い下がろうとする目の色と、憐れみを乞うような顔色。
――それを目にしたとき、俺はまたしても激しい嫌悪を感じた。その表情をぐちゃぐちゃに崩してやりたいという思いに駆られ……だが、俺はそうするのを必死になって
「やろうって言ってたじゃないですか、先輩。今日の練習をこのまま終わりにしちゃ駄目だって。その通りだと思いますよ?」
「俺たちだけでいい練習にしても仕方ない。それに二人でできることなんて高が知れてる」
「そんなことありません。二人でできることはいっぱいあります。見てもらいたいとこ沢山あるんです。練習しましょうよ、先輩」
「いいから! ……頼むから今日はもう帰ってくれ」
「……怒ってるんですか?」
「何も怒ってなんかいない」
「……怒ってるじゃないですか。どうして怒ってるんですか? 私、何か先輩の気に障るようなこと――」
「いいから帰れ!」
叫びがホールの湿りきった薄闇をつんざいた。
途端に静まりかえり、濃い沈黙の帳が降りる。しょんぼりと寂しそうにペーターはうなだれていたが、やがて独り言のように「わかりました」と呟いた。
あの表情が彼女の顔から消えるのと同時に嫌悪は消えていた。……そして俺はすぐに後悔した。堪らない罪悪感に押し潰されそうになった。
「……ごめんな」
「先輩が謝る必要なんてないですよ」
自分に言い聞かせるようにそう言いながらペーターは通路を歩いていった。扉に辿り着くとやおらこちらを振り返った。
「元気出してください。私も元気でいられますから、先輩が元気なら」
そう言い残して出ていった。それはもういつも通りの彼女だった。
◇
ペーターがいなくなってしばらくしてから、俺は覚束ない足どりで仮舞台にのぼった。裸電球の照明……粗末でわびしいその明かりの中に入り、その場にへたりこんでぐちゃぐちゃの頭を抱えた。
「何でこんな……どうしてこうなったんだ」
そう言葉にすることで苦悩はいやがうえにも増した。今日の練習がこんな形で終わることをいったい誰が予想しただろう。これが現実とは思えなかった。……これが現実とは思いたくなかった。
ぐにゃりと板目の模様が歪んだ。その板目にひとつ、またひとつと黒い小さな染みが滲んだ。唇の隙間から震える溜息がもれた。
それでようやく、俺は自分が泣いていることに気づいた。
「うっ……」
そう思ったあと涙はぼろぼろとこぼれ落ちた。しゃくりあがってくるものがどうにか声にならないように堪えるだけで精一杯だった。
……本当は声をあげて泣きたかった。けれども心の中にある男としての部分が、俺にそうすることを許さなかった。
「うっ、うっ……」
涙は止まらなかった。
ただ泣いている自分を思うことで頭はかえって冷静になった。泣くのは久し振りだ、と嗚咽する声を他人のもののように聞きながら俺はそう思った。
こうして泣くのは本当に久し振りだ。そう……あの敗退した予選会で泣けなかった日以来の涙だ。
「ふ、ふ、ふ……」
しゃくりあげのタイミングに合わせて鼻で笑った。
あの日に『泣けなかった』以来の涙という言いまわしはおかしい。そこで涙は流れなかったのに、どうしてそれ以来の涙になるのだ。
そんなことを考えて――あそこで泣けなかった自分がこんなつまらない場面で泣いていることを思った。それをひどく滑稽なものに感じて……また涙がこみあげてくるのを覚えた。
「うっ、うっ……」
誰もいないホールに両手で顔を覆い、肩を震わせて俺は泣き続けた。必死に声を殺し、鼻水が垂れるのも拒んだ。誰も見ていない舞台に、既に誇りを失ってなおそれにしがみつく哀れな男を演じた。
涙を流すごとに頭は醒めていった。そうして醒めていく頭に、自分が涙を流している理由を問いかけた。
その理由がわからなかった。劇団がばらばらなのを思ってのものか、優しい言葉をかけてくれた後輩を冷たくあしらったことへの後悔か、それとも別の理由なのか、俺にはわからなかった。
「っ……っ……」
――いや、わかっていた。
自分が流している涙の理由はわかっていた。なぜ泣いているのか、ぐちゃぐちゃに心が乱れている原因がどこにあるのか、俺にはわかっていた。
……冷静に考えればすぐにわかる。なぜなら俺はもう今しがたぼろぼろで終わった最後の練習のことを考えていない。
練習に来なかったキリコさんのことも、その練習を滅茶苦茶にした隊長のことも考えていない。二人でもやろうと言ってくれた……すげなく追い返した後輩のことも、俺はもう考えていない。
「っ……っ……!」
アイネのことを考えている。
俺はただ、アイネのことだけを考えている。
そんな自分を堪らなく薄汚いものに感じた。どうして今あいつのことなど考えている! 考えなければいけないことは山ほどあるのに、嘆き悲しむべきことは他にいくらでもあるのに! なぜ俺は今ここでアイネのことを考えている!
「っ……っ……!」
歯噛みをして自分を叱りつけても無駄だった。目を瞑っても瞼の裏に彼女の面影が浮かんだ。耳を塞いでも鼓膜にアイネの声が響いた。最後に聞いた彼女の声が繰り返し頭に響いた。
『少し頭冷やして。こんなときハイジが頭冷やさなくてどうするの』
……わかっている。そんなことはよくわかっている。だからそんな顔で見ないでくれ。おまえが――アイネがそんな顔をしないでくれ!
「っ……っ……!」
今からでも追いかけたかった。追いかけて肩を掴み、振り向かせたかった。雨に濡れた身体を抱き締めたかった。そうして笑い合って……互いの心が離れていないことを確かめたかった!
――こんな感情がどういう名前で呼ばれるかくらい、いくら俺でも知っている。
はじめて気づいたなんて陳腐なことを言うつもりはない。心に嘘をついていただけだ。俺はただ認めたくなかっただけだ。
「っ……っ……!」
もっと早く認めればよかったのだ。もっと早く認めていればここまでひどくはならなかった。
胸が締めつけられるように苦しい、雨の降りしきる夜の町をどこまでも走っていきたい。こんな感情がどういう名前で呼ばれるかくらい、いくら俺でも知っている。
――これは恋だ。
そう……これは恋だ。はじめて気づいたなんて言うつもりはない、ずっと前から知っていた。
もうずっと前から、たぶん最後の大会で初めて言葉を交わしたあの日から、俺はアイネという女に恋をしていたのだ。
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