256 泣かなかった、泣けなかった(8)

 まるで揃いのばね人形のように二人の顔がこちらに向けられた。どちらの表情にも虚を突かれた驚きの色が浮かんでいる。


 男からの返事はない。俺はもう一度その質問を繰り返した。


「それで、キリコさんは?」


「彼女は、もう向こうへ行ってもらった」


「向こう?」


「説明した通りだ。一足先に『もうひとつの世界』へ入ってもらった」


 静かな回答だった。その静かな回答に頭の中が真っ白になっていくのがわかった。


 やはりそうだ……この男は隊長ではない。


 今日の練習に来ないままキリコさんはその『もうひとつの世界』へ行ったと真面目な顔で告げる、そんな男が隊長であるはずはない。この男は隊長ではない。……俺がずっと尊敬してきた隊長ではない。


 推測は確信に変わった。この男は隊長ではない。……ではいったい、俺の目の前に立つこの男は何者なのだろう?


「それが今回の舞台の仕様なのだ。これより君たちにも順次そちらに向かってもらう。細かなところで予定は大幅に変わるが、本質的な変更はないからこれまで通り進めてくれていい。日曜の本番までに準備を終える手はずは、すべてこちらで調える」


 ……何者なのかまではわからない。だがひとつだけ確かなのは、この男が偽物ニセモノだということだ。


 咽がからからに渇き、指先には痺れさえ覚え始めた。そんな自分を鼓舞するために、俺はこぶしを固く握り締めた。


 この男は隊長などではない、真っ赤な偽物ニセモノだ。


 今はそれだけしかわからない。この偽物ニセモノがなぜ本物の隊長と入れ替わったのか、何のために俺たちの前に現れたのかわからない。


 ……だが、もしそうだとしたならば、俺がやるべきことはひとつだ。


 今この場で、俺はこの偽物ニセモノの正体を暴かなければならない――


 そう思って俺は頭をあげ、隊長の姿をしたその男を真っ向から睨みつけた。


「俺には、あんたが、何を言ってるのか、わからない」


 たどたどしい口調で俺はどうにかそれだけ言った。かすかに震えて耳に届くその声が自分の声ではないような、ひどい違和感があった。


「ならもう一度最初から説明しようか」


「そんな説明はいい。俺が聞きたいのは――」


 だが、その先が出てこない。口を開けたまま俺は固まった。


 俺が聞きたいのは……何だ?


 いったい俺は何を聞こうとしていたというのだろう。隊長ではないこの男に。どこかへキリコさんを連れて行ったと言い、そして俺たちもそこへ連れて行くと宣言したこの隊長の偽物ニセモノに――


「あんたの言うような場所には、行かない」


 俺の宣言に、微動だにしないまま男はこちらを凝視した。


 サングラスの下の眼差しはわからない。だがさっきとは逆にこの男が俺を睨みつけていることは、はっきりとわかる。


「そんな場所には行かない。こいつらも連れていかせない。俺は騙されない……! あんたの言いなりにはならない!」


 そうして俺は、目の前に立つその男に逆らった。


 絶対だったその男……ずっと尊敬してきたその男に、はじめて俺は真っ向から逆らった。


 全身が震えているのがわかった。熱病にかかったようにぶるぶると俺は震えていた。


 怖じ気づいたのではなかった。それは恐怖の震えではなかった。その震えは爆発寸前の衝動を押しとどめる、壊れかけ火花を散らすブレーカーの振動にも似て――


「ハイジ」


 横あいから声がかかった。見なくても誰の声かわかる。


「落ち着いて、ハイジ」


 その一言を聞いたとき、俺の中で何かが弾けた。


 何をしようとしているのか自分でもわからないまま舞台に駆けあがろうとし――だがそれは舞台の前に立ち塞がるアイネによって妨げられた。


「そこどけ!」


 大声で叫んでもアイネは動かない。大股に立ち両腕をいっぱいに広げて、激しい怒りの目で俺を見ている。


 ――なぜだ? なぜアイネがそんな目で俺を見る?


「邪魔するな!」


「ハイジ……お願い落ち着いて」


 逆の側から回りこもうとした。けれどもアイネはまたそこに立ち塞がった。


 ――なぜだ? なぜアイネがそんなやつを守ろうとする?


「どきたまえアイネ君。彼がどうするか見てみようではないか」


 舞台の端にしゃがみ、後ろからアイネの肩に手をかけて男はそう言った。それで俺はもう何も考えられなくなった。


 夢中で舞台に駆けあがろうとした。俺の目には薄笑いを浮かべる隊長の偽物ニセモノの他に何も映っていなかった。


 その偽物ニセモノに向け真っ直ぐに駆け寄ろうとして――不意に身体が前に進まなくなった。


「……!」


 視線を降ろした。二本の細い腕が俺の腰をしっかりと掴んでいた。固く目をつぶり必死にしがみつくペーターの顔が脇の下にあった。


 ――ぱあん、と甲高く乾いた音がホールに響いた。


 音のした方に目を遣った。


 右腕をわずかにもたげたアイネの背中と、その向こうにしゃがんだまま、サングラスの外れた顔をしかめる男の姿があった。


 男はゆっくりと目を見開き、こちらを見た。……眇目すがめだった。その左目は大きく外を向き、右目だけがじっとこちらを見ていた。


 濃い沈黙が流れた。


 何をしようとしていたかも忘れ、俺はその場に立ち尽くした。ぎこちなく右腕をもたげたまま、アイネも動かない。


 そんな俺たちの前で隊長はおもむろに立ちあがると舞台に視線を巡らせた。そうして上手側の隅に歩いていき、アイネの平手打ちでそこまで飛ばされていたサングラスを拾いあげた。


 こつこつと小さな靴音が聞こえた。俺たちが見つめる中、隊長はゆっくりした足取りで舞台の階段を下り、そのまま通路を歩いていった。


 やがて隊長は扉の傍らに立ち、サングラスをかけないままの顔をこちらに向けた。


「本日はこれで散会する」


 扉の軋む音が響き、雨の音が大きくなった。そして扉の閉まる鈍重な音と共に、それはまた元通り小さくなった。


 ――隊長が出て行ってしまってからも、俺たちはしばらく動けなかった。舞台の前に立ち尽くすアイネも、おそらく俺のすぐ後ろに立っているペーターも。


 ……まるで時間の流れが止まったようだった。ただ重苦しい沈黙に満ちたホールに屋根を打つ雨の音は秒針のように規則正しく響き続け、その単調な調べは、こうしている間も時間は確実に流れているのだと、そんな当たり前のことを当たり前のように教えてくれた。


 どれほどそうして静止していたかわからない。最初に動いたのはアイネだった。彼女はふらりと舞台から離れると、扉に向かう短い通路をゆっくりした足どりで抜けていった。


「……どこ行くんだ?」


 俺の問いかけにアイネは答えず、立ち止まりも振り返りもせず扉に向かい歩いた。


「待てよ!」


 感情は抑えたつもりだった。それでも充分大きく出てしまった俺の声にアイネは動きを止め、顔をこちらに向けた。……薄闇にもはっきりわかるほど青ざめたその顔は怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。


「……何?」


「どこ行くんだ、って聞いてる」


「帰る」


「帰るなよ。まだ練習は終わってないだろ」


 俺がそう言うとアイネは露骨に眉をひそめた。彼女が何を思ってそんな表情をつくったのかわからなかった。けれどもすぐにその表情を消し、代わりにこれも理由のわからない皮肉めいた笑みを口元に浮かべて言った。


「隊長は散会だって言ってたけど?」


 一瞬、答えに窮した。たしかに隊長は去り際にそう言い残していった。今日の練習はこれで散会だ、と。……だがそれを認めることはできない。最後の練習をこんな形で終えることは……。


「俺はもう……あの人を隊長とは認められない」


 血を吐くような思いでその一言を告げた。アイネの肩が小さく竦んだように見えた。


 彼女は憂わしげに床に視線を落とし、それからまた静かに俺を見据えた。身体ごとこちらに向け、そのまま立ち尽くす。そんなアイネに俺はもう一度さっきの言葉をかけた。


「まだ練習は終わってない。だから帰るな」


「それは、新隊長の命令ってこと?」


「そう思ってくれていい」


「……なら言うけど、わたしはまだハイジを隊長とは認められない」


 乾ききったその声は深々と俺の胸に突き刺さった。思わず呻き声をもらしたくなるほどの、それは痛みだった。


 ……だがそれはもっともな返答だった。


 俺ですらそうなのだ。俺自身ですら今ここで自分が隊長としてふるまうことは認められない。それをアイネが認められないのは当たり前のことだ。だが、たとえそれでも……。


「それでもいい。まだ認めてくれなくても。でもな、このまま今日の練習を終わりにしていいと思ってるのか? 本当にそれでいいと、アイネはそう思ってるのか?」


「思ってるわけない。これでいいなんて思ってない。けど――」


「先輩の言う通りですよ、アイネさん。このまま今日の練習を終えたら駄目です!」


 唐突に真後ろで響いたその声にぎょっとして振り返った。真剣そのものの顔をしたペーターが挑むようにアイネを見つめていた。


 ……驚くことは何もない、ペーターがそこにいるのはわかっていたはずだ。


 ただ俺はなぜか彼女がそうして俺の後ろに立っていたことに違和感を覚えた。その出し抜けな口添えにわずかな胸のざわめきを感じた。


「これが最後の練習じゃないですか。そのことはアイネさんもよくわかってるはずです。それをこんな嫌な雰囲気のまま終わりにしたら駄目です! まだ帰ったら駄目です!」


 返答を待たずにペーターは一気にそう捲し立てた。アイネが辛そうな表情をつくり、小さくうつむくのが見えた。彼女からは一言もなかった。そんなアイネに畳みかけるようにペーターはなおも続けた。


「三人でできることはいくらでもあります。朝練でうまくいかなかったとこ沢山あるじゃないですか。それに、ひょっとしたら私たち三人でることになるかも知れないし、時間はいくらあっても足りないくらいです。違いますか?」


 アイネをかき口説くペーターの言葉は止まらなかった。そんな彼女の言葉を聞きながら、胸の中のざわめきが徐々に大きくなっていくのを俺は感じた。


 ……この感覚は知っている。いや、俺はこの感覚を覚えている。今朝方も感じた懐かしい感覚。あの『地獄の季節』に俺を苦しめ続けたやり場のない苛立ちが、いま俺の中に蘇ろうとしている……。


 はっきり認識するのに時間はかからなかった。そう認識すると同時にアイネを責めるペーターの姿があの頃の彼女と重なった。


 たった一人の味方。俺のやることには何でも盲目的に協力してくれる少女。……そんな彼女に対して抱いていた複雑にねじ曲がった嫌悪を、あの頃さながらにありありと俺は思い出した。


「先輩と同じように、私はもうあの人のことを隊長とは認められません。でもアイネさんとは違いますよ、先輩を新しい隊長と認められます。私は先輩の命令に従います。だからまだ帰りません! アイネさんがまだ先輩を認められないならそれでもいいじゃないですか。大切なのは今日の練習です。それはアイネさんもわかってるはずです。だから先輩の言うように――」


「ペーター!」


 遂に声が出た。自分でも驚くほど大きな声だった。その声にペーターはびくっと身を震わせ、それからゆっくりとこちらに顔を向けた。


 縋りつくような表情と、その中にあって「どうしてですか?」とでも言いたげな反抗の色を覗かせる両の瞳。


 ……明確な嫌悪を覚えた。それはかつて毎日のように感じ続けた忘れることのできない嫌悪だった。


 きい、と扉の軋む音がした。


 反射的に目を遣ると、アイネは身体半分までもう外に出てしまっていた。


「アイネ!」


「ごめん。今日はもう帰らせて」


「待てよ! まだ話は半分だ!」


「……どっちにしたって、今日はもう練習にならないでしょ」


「アイネ!」


 必死の思いをこめて呼びかけた。その呼びかけにアイネは頭だけこちらに向けた。


「頭冷やさないと。……ハイジも少し頭冷やして。だからわたしは認められないの。こんなときハイジが冷静にならなくてどうするの」


「アイネ!」


 俺が最後にそう呼びかけるのと、音を立てて扉が閉まるのとが同時だった。


 あとを追おうとして……わずかな逡巡があった。だが俺はその迷いを振り切ると扉に向け駆け出した。


「先輩!? どこへ……」


「おまえはここで待ってろ!」


 追いかけて来ようとするペーターにそんな言葉を残して、俺は小屋を飛び出した。

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