255 泣かなかった、泣けなかった(7)

 二人は時間ぎりぎりになるまで現れなかった。


 隊長が時間きっかりに来るのはいつものことだが、その時間までキリコさんが姿を見せないのは珍しい。


 朝練のことを思い出して少し心配になりはしたが、隊長と一緒に来るものと信じて疑わなかった。朝練のあとの隊長の命令はそういう意味だと思いこんでいたのだ。


 だから隊長が一人でホールに入ってきたとき、俺は思わず眉をひそめた。


「では、早速はじめようか」


 そんな俺にはお構いなしに、隊長は平然と練習開始の言葉を告げた。さすがにこれにはアイネたちも面食らったらしく、返事をすることも立ちあがることもできないでいた。


「……まだキリコさんが来てないんだけど」


 訝しむ気持ちを抑えて俺はどうにかそれだけ言った。けれども隊長は平然とした表情を崩さず、「何の問題もない」と静かに呟いた。


「問題なくはないだろ。……と言うか、キリコさんは隊長が連れてくるんじゃなかったの?」


「? そんなことを言った覚えはないが」


「……朝練のあとに言ってたことない?」


「その件を午後の練習まで保留するようにと言いはした。けれども私が彼女を連れてくると言った覚えはない」


「それは……まあ、そうだったかも知れないけど」


 ……確かにそうだった。隊長はキリコさんの件を午後の練習まで保留しておけとは言ったが、自分が連れてくるとは一言も言っていなかった。


 だがそれで俺は一層わけがわからなくなった。


 キリコさんは来ない。隊長が連れてくるわけでもない。それでこの最後の練習をいったいどうしようと言うのだろう……?


「……キリコさんがいなきゃ練習にならないじゃないか。それなのに練習開始って……どういうことか説明してくれよ、隊長」


「説明しよう。キリコ君がいなければ練習にならないというのはその通りだ。だから本日の練習は予定を変更してその説明にあてることにする。反対があるようなら今のうちに言ってほしい」


 そう言って隊長は俺たちを見まわした。


 反対の声はあがらない……そんなものがあがるはずはない。隊長の言葉はあまりに唐突で、何を言っているのかさえよく理解できない。


 今日の練習を潰して説明にあてる……そう隊長は言ったのだろうか? ……では何を? この最後の練習の時間を使って隊長は何を説明しようというのか……?


 そんな声にならない俺の声が届いたのかはわからない。隊長は舞台の方へ歩きながら、抑揚のない口調でその説明を語り出した。


「今まで黙っていたのは申し訳ないが、今回我々が行おうとする舞台は、ひとつの遠大なる演劇理念に基づいたものだ。私は今日までその理念を実現するためにあらゆる努力を払ってきた。知っての通り私は今回の舞台を最後にヒステリカを退団する。その最後の舞台に、私の演劇生活の集大成としての理想の現出を求めている。これからする説明は、その私の理想とする演劇を君たちに理解してもらうためのものになる」


 さながら独演劇のように朗々と淀みなく語りながら隊長は通路を下り、舞台への短い階段に足をかけた。そして階段の一段目に右足を置いた姿勢で俺たちを顧みた。


「さて、ここでひとつ尋ねておきたいのだが、君たちは『残酷演劇』という言葉を耳にしたことがあるかな?」


 質問に答える者はいなかった。俺もそんな言葉は聞いたことがない。それを確認して隊長はまた前に向きなおると、こつこつと靴音を響かせて舞台への階段をのぼっていった。


「では説明しよう。『残酷演劇』とは二十世紀中葉の欧州において、詩人でもあったさる演出家によって提唱された演劇理念だ。その理念は実現をみることなく歴史の中に埋没していった。当時の観衆に受け容れられなかったというのがその主な原因とされているが、実のところもっと単純で、興行的失敗は必然ともいうべきものであった。そもそもの前提からして、それはおよそ実現が不可能な演劇だったのだ」


 舞台にのぼった隊長は客席に向かい、胸の前に腕を組んで壁に背もたれた。


「つまり、理論的には見るべきところが多く、事実、後続する前衛劇の隆盛はその流れを汲むものであるが、その具現化は極めて困難な、文字通りの理想論だったのだ。その理念は原点に立ち返ることを意図したものだった。演劇の原点が何かは君たちも知っているだろう。演劇の原点は聖なるまつりの要素であった。洋の東西を問わず、演劇は常に神聖なるものとの対話の場であり、呪術的あるいは魔術的な、実存しないものを実存に導くための儀礼であり祭祀であった。『残酷演劇』とは、そうした演劇の本来的な機能を回復させ、その実現に迫ろうという試みなのだ」


「……待ってくれ、隊長」


 混乱が高じて、俺はたまらず隊長の説明を遮った。隊長は黙ったまま顔をこちらに向けた。


「……それとキリコさんが来てないことと、いったいどういう関係があるんだ?」


「その説明はまだ先だ」


「まずそこから説明してくれないか。俺には隊長が何を言っているかさっぱり――」


「続きを聞かせて」


 隊長を追及する俺の言葉を、今度はアイネが遮った。反射的に視線を向けると、触れれば切れるような鋭い目でアイネはじっと隊長を見つめていた。


 ……誰にも聞こえないように小さく舌打ちして、俺は口を閉ざした。そんな俺を認めて隊長はおもむろに説明を再開した。


「かいつまんで説明すればその理念、『残酷演劇』とはつまり、ありえないものを現出するための演劇なのだ。ではここで言うありえないものとは何か。それは舞台をもって我々が表現しようとする世界であり、役に入った君たちが生きる『もうひとつの世界』だ。君たちは舞台に立ち、それぞれの役を演じる。それにより『もうひとつの世界』を舞台に現出する。そして観客もまたもろともにその世界への参入を果たす。私が現出したいものとはそれだ。それを――それこそを君たちにもよく理解してほしいのだ」


 ――朗々と語られるその説明を聞きながら、隊長がなぜそんなことを口にしているのかわからなかった。


 だが隊長の言っていることは理解できた。小難しい単語と遠回しな表現で彩られてはいるが、隊長の言うその『残酷演劇』というのはつまり、俺たちがヒステリカで掲げてきた即興劇の理想に近かった。


 いや……その理想そのものと言えた。役に入りきることで現実と虚構の垣根を跳び越え、『もうひとつの世界』への参入を果たす。それは俺たちが目指している即興劇の理想で――とりもなおさず俺自身が夢に見る演劇の到達点でもある。


 だが隊長はそんな俺の心を見透かしたように表情を改め、「しかし間違ってもらっては困る」と言った。


「くれぐれも間違ってもらっては困る。ここまでの説明を聞いて、君たちはこう思ったかも知れない。『それは今までずっとヒステリカが理想としてきたものを別の言葉で言い替えているだけだ』と。その誤解は払拭しなければならない。それは――私が説明している『残酷演劇』とは、我々が今までおこなってきた娯楽や芸術としての舞台ではない。我々がこれからおこなおうとするものは、その範疇を逸脱したものだ。今回の舞台をもって我々が現出しようとするものは、思いこみや錯覚、そうした疑念の一切挟まれる余地のない、真の意味で実存する世界なのだ」


 ……その説明で俺にはまたわからなくなった。


 思いこみや錯覚によって成立する世界――それなら理解できる。演劇の世界に観客を引きこむということは、俺たち役者が純粋なにより架空の世界を作り上げ、あたかもそれが現実の世界であるかのように観客にことによって成立する。


 俺が夢見てきたものを有り体に言えばそうなる。そして俺の理解に間違いがなければ、それは演劇に携わるすべての人間が一度は夢見る演劇の理想像なのだ。


 ――そう、それさえも難しいのだ。


 思いこみや錯覚の力を借りて架空の世界を作り出すことさえ、ほとんど不可能に近い夢物語なのだ。……それは役者としての俺が抱き続けた夢には違いない。だが俺はそれを子供じみた夢だとはっきり自覚しているし、そう言って笑われても仕方がないといつも思っている。


 ……それなのに隊長は何と言っている? 本当の意味で実存する世界を演劇の力で作り出す? それこそ笑い話だ。それではまるで魔法か奇蹟ではないか。


「繰り返すが演劇とは本来そういうものであった。神聖なるものとの対話の場であり、実存しないものを実存に導くための呪術であり魔術であった。我々が現出しようとするものは原始的な演劇の所産である世界そのものだ。善意の目をもって受け容れ、ある種の錯覚を経てやむなく感じる曖昧で不確実な手触りではない。個人の意思とは専ら関わりなく不可避的に、ちょうど今ここで自分の身体を抓ったときに生じるような文字通り現実的な手触りがそれなのだ」


 気がつけば隊長は裸電球に照らされる舞台の中央に立っていた。後ろに組んでいた手を下げ、おもむろにこちらに向きなおり、口元に真剣な表情を浮かべて、また続けた。


「私事になるが、私が即興劇というジャンルに懸けてきたのはただそのためだった。もとは普通の劇団であったヒステリカに即興という要素を導入し、根づかせたのもただそのためだ。不可能といわれた『残酷演劇』を完全な形で実現するのが私の悲願だった。ヒステリカはそのための戦場で、君たちはその戦場に身を投じてくれた戦士だ。騙していたつもりはない。君たちの求めるものと私の求めるものは根底において同じだと思っている。君たちならばそれを実現できるものと信じている。だから頼む、私を信じてどうか最後までつき合ってほしい。……私からの説明は以上だ」


 隊長の説明が終わり、雨の音が戻ってきた。


 舞台の中央に立ったまま隊長は動かない。三人の観客は黙りこくったまま、拍手もしなければ席を立とうともしない。濃い沈黙の中、ただ雨の音だけが聞こえた。雨粒が屋根を打つ単調な音がキャパ二十人のホールに存在するもののすべてだった。


 思わず笑いがこみあげて、だが笑いにならないまま立ち消えた。


 そうだ……ここは笑っていい場面ではない。隊長は冗談を言っているのではないのだ。


 ……その話が冗談ではなく真面目なものであることはわかった。隊長が何を思ってヒステリカでやってきたかもわかった。俺たちが知らないうちにその隊長の悲願につき合わされていたこともわかった。……そこまではわかった。


 ――別に裏切られたという思いはない。知らないうちにつき合わされていたこと自体に不服はない。他の二人――いや三人はどうあれ、俺は『もうひとつの世界』の現出を求めてヒステリカに入ったのだし、その点で『根底において同じ』だという隊長の指摘は間違っていない。けれども……。


「――つまり、その『もうひとつの世界』というのが、わたしたちや観客の頭の中じゃなくて、現実に存在するってこと?」


 張りつめた沈黙を破ってアイネがそんな質問を投げかけた。我が意をえたりというように大きく頷きながら隊長は、「その通り。まったくその通りだ」と言った。


「隊長の言ってるは、物理的な世界ということなんだよね?」


「その『物理的』という語が『観念的』の反意語であるとすればその通りだ」


「でもそうだとすると、その『もうひとつの世界』というのはわたしたちが今いるここの並行世界ということになるの?」


「それは次元に関する質問と受けとっていいだろうか」


「次元でも空間でもいいけど、こことは別にそういう世界があるってことなら――」


 ……アイネと隊長が何かを話している。だがもう俺はその話についていけない。


 次元がどうとか観念がどうとか、そんな話をしていったい何になるというのだろう。問題は隊長の言っているそれが荒唐無稽な絵空事だということだ。できるできないの話ではない、普通の人に話せば気が狂ったとも思われかねない常軌を逸した妄想なのだ。


 ……そんなわけのわからない話をどうして理解しろというのだろうか。


 隊長は何を考えてそんな話をしたのだろうか。アイネはなぜ真面目に質問などしているのだろうか。なぜ平気な顔をしてあんなにつき合っているのだろうか。これが最後の練習であることを二人は忘れてしまったのだろうか……。


「意識の問題じゃないってことはわかった。でもそうなるといよいよ形而上学になると思うんだけど」


「いや私の言わんとすることはあくまで形而下的なものだ。針の先端に何人の天使が立つことができるかといった問題を議論するつもりはない。そもそも中世をかけて結論の出なかった普遍論争をここに再現してみたところで――」


 ――最後の練習。そう……これが最後の練習なのだ。今日は半年の活動を締めくくる最後の練習で、それは夢でも幻でもない。それが現実だ……現実はただそれだけだ。


 舞台は夢見る子供たちの遊び場ではない。


 もちろん俺たちはそこに夢を見るし、その夢をどうにかして叶えようとする。その夢を叶えるために練習し、裏方を頼み、装置を組む。会場を押さえ、前売り券をさばき、効果を打ち合わせる。……それが演劇だ。


 演劇とはそういうものだ。夢を叶えるために悲しいほど地道な作業を必要とする。現実的過ぎるほど現実的な過程を経てはじめて成立する……それが演劇なのだ。


 ……隊長がそれを知らないはずはない。


 実際、隊長こそ口癖のようにそれを言い続けてきた。そうした地道な作業における隊長のこだわりは並々ならぬものがあった。そんな隊長の姿勢から俺は多くのことを学んだ。言葉遊びで舞台がどうこうなるわけはない。隊長がそれを知らないはずはない。だというのに……。


「そうなる仕組みはわたしたちの頭でも理解できるものなの?」


「実のところ簡単に理解できる。が、申し訳ないが今それを理解してもらうわけにはいかないのだ」


「どうして?」


「霊媒というものを知っているだろうか。いわゆる降霊実験において霊の仮宿となる人間のことだ。これはあくまで喩えに過ぎないが、霊媒にとって降霊実験そのものの理解は必要ないばかりか、むしろ有害となる」


「それは何となくわかる」


「つまりはそういうことだ。今回の舞台を降霊実験だとすれば、君たち役者は霊媒になぞらえることができ――」


 ……あれは隊長ではない。不意にそう思った。


 舞台に立っているあの男は隊長ではない。俺の知っている隊長という男ではない。


 突然降って湧いたその推測に、目が覚めた思いがした。


 ――そうだ、隊長ではない。あの男が隊長であるはずはない。そう考えれば何もかも辻褄が合う。あの男は俺の知らない誰かで、アイネはその口車にうまく乗せられているだけだ。


 確かめるべきだと思った。舞台に立つあの男が隊長でないことをはっきりさせるべきだと思った。


 少し考えて――俺はその方法を思いついた。その男とアイネの間にうち続く理解できない会話。その会話が滞るタイミングを見計らって、俺は置き去りにされていたその質問をぶつけた。


「それで、キリコさんは?」

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