254 泣かなかった、泣けなかった(6)

 ――雨の音が聞こえる。窓の外には折からの雨が勢いを弱めることなく降り続いている。


 にわか雨かと思ったがどうやらそうではなかったようだ。湿気とともに部屋に浸みこんでくる空気は朝のそれが嘘だったかのように肌寒く、寒冷前線が通過したことを思わせる。もしそうだとすればこの雨は少なくとも今夜遅く……あるいは明日までも長引くのだろう。


 ずぶ濡れのまま小屋に帰り着いたときには既に二時だった。すぐに熱いシャワーを浴び、それが終わると新しいシャツに袖を通して寝台に寝転がった。


 部屋の中は薄暗いというよりほとんど真っ暗に近かった。明かりをつけようとして――やはり止めた。天井に吊された電灯のわびしい光に照らされる部屋を思うと、陰鬱な暗闇の方が幾分ましに思えたからだ。


「……くそ」


 頭蓋骨の裏、ちょうど眼球の後ろの辺に、どす黒いタールのような感情がべったり貼りついて消えない。


 ……聞かなければよかった。あんな話など聞くべきではなかった。


 クララとの会話でやめておけばよかった。DJとの話にしてもせめて本題に入る前に切りあげておけば――あそこでブービートラップにかからなければ――沈んでいた俺にとっていい気分転換になったに違いないのだ。


 昨日さんざん考えて解答に辿り着けなかった難解な問題。月曜日、カラスに絡んでああ言った俺に、なぜアイネがいつになく激しい怒りを見せたか。


 その問題の答えとしてにわかに有力な解釈が浮かびあがってきた……想像だにしなかった新たな解釈が。


 。あいつの前で俺があんなことを言ったから、アイネはあれほど俺に反発した――そんな思ってもみなかった解釈が、今は最も確からしい解釈として俺の意識にカビのような菌糸を張り巡らせている。


「……」


 ……だが考えてみれば思い当たる節がないわけではない。俺がリカとカラスの関係を話題にのぼらすとき、アイネはきまってそれを流そうとしていた。リカはあれで幸せなのだと、自分に言い聞かせるように話していたこともある。


 俺がカラスについて否定的なことを言うと、同意を示さないばかりかたいていはそれを咎めた。それに改めて思い返してみれば、アイネがカラスのことを悪く言ったことはこれまでに一度もないのだ。


「……」


 考え出せばきりがない。そういう目で見れば今まで何気なく見過ごしていたすべてが憶測を裏づける証拠のように思えてくる。


 ……そうしてまた脳から粘りのある黒い液体が染みだしてくるのがわかる。やり場のない苛立ちがまたわずかにその濃さを増す。


「……」


 ――DJあいつに言われるまでもなく、アイネがいい女だなんてことはよく知っている。


 ……そんなことは間近で見ている俺が一番よく知っている。むしろなぜ今日まで恋人がいないのか不思議に思っていたくらいだ。


 いや……俺はそれさえも知っている。アイネみたいないい女になぜ恋人ができないか、その理由を俺はよく知っている。


 簡単なことだ、朝から晩までずっとヒステリカに関わっていてそんな暇などあるはずがない。劇団の外で恋人をつくったところで所詮長続きはしないだろう。かと言って団内に恋人を求めるわけにはいかない。そこには厳然とした規則が存在する。


 ……何のことはない、俺とまったく同じ立場なのだ。


 そう、同じ立場だと思っていた。あいつも俺と同じなのだと――ずっとそう思っていた。


「……」


 ……それにしてもなぜカラスなのだろう。


 あいつに惚れる女の心理が俺にはどうしてもよくわからない。いや、今まではそれについて深く考えないようにしていた。


 カラスの女遍歴は高校の頃から目まぐるしいものだったが、どういうわけか演劇部の人間には手をのばさなかった。だからカラスに惚れる女というのは俺にとって関係のない人間で、彼女たちがいくら傷つき涙を流していたとしても、それは見知らぬ人が犬に噛まれて苦しんでいるのと同じく、同情的な痛ましさこそあれ、俺に直接関わってくる問題ではなかった。


 その構図が崩れはじめたのはリカと友だちになってからのことだ。リカの口からカラスの話を聞かされるたびに俺は嫌な気分になるのを抑えられなかった。リカという女を知るごとに――馴れ馴れしい態度の裏に隠された純情で女らしい顔を見るごとに、その嫌な気分は徐々に増していった。


 けれども俺にはどうすることもできなかった。そのことを、アイネに教えられた。


 二人のことに関して何をする権利も俺にはない。そもそも何かをしようと考えることさえ間違っている――俺がリカたちのことを話題にのぼらせるたびに、アイネはそう言って俺をたしなめたのだ。


 『親友のことが気にならないのか』と俺はいつかアイネに問い返した。『親友だから気にしないの』だと、にこりともしないで彼女はそう言っていた。だから、俺もカラスとリカの関係についてとやかく考えるのをやめた。アイネの言う通り、友だちだから気にせず無視することにしたのだ。


「……」


 ……どうしてカラスなのだろう。けれども、俺はまたそのことを考える。


 改めて確認するまでもない、その男はリカの恋人なのだ。俺がそうした可能性をはなから除外していた理由のひとつにはそれがある。


 アイネにとってリカはほとんど唯一人の親友で、その間にあるのは女子校特有の『休み時間に一緒にトイレに行く』ような浅薄な友情ではない。相手のためを思って一日中町を走り回れるような……あるいはそれ以上の関係なのだ。


 そんな親友の恋人になぜ――そこまで考えて、俺はまたつまらないことに思いあたる。


 親友の恋人に恋をする……それは何も珍しい話ではない。小説に、映画に、漫画に、そしてドラマに、古典と言っていいほど使い古されてきたそれはステレオタイプだ。演劇においてさえそう。禁忌とされているからこそ生じる葛藤は実に使い勝手のいいギミックで、誰の身にも起こりうる普遍的な苦しみだからこそ観客の心に響く……。


 そう、まったくその通り。それは何も珍しい話ではなく、誰の身にも起こりうる――


『後悔ってのは、ぜんぶ終わっちまってからするもんだぜ』


「……くそ」


 DJが最後に残していった台詞を思い出して俺はまたひとつ悪態をつく。


 ……だがいったい俺に何ができるというのだろう? 他人ひとの恋愛について何をする権利もありはしない。そもそも何かをしようと考えることさえ間違っている。繰り返しそう言って俺をたしなめたのは他ならぬアイネだ。


 ……第一、俺はもう拒絶されている。月曜のあの茶番劇で。騎士ナイトめかしてしゃしゃり出て、助けたはずのアイネから平手打ちを食らい、もう二度とこういうことはするなと手痛い釘を刺されているのだ。


「……くっ」


 ずきり、と胸が痛んだ。どうやらあのときの釘は心臓に突き刺さっているようだ。そんな下らないことを考えて、またずきりと胸に痛みが走る。


 ……何がこんなに苦しいのだろう。


 自分がいつの間にか道化に成り下がっていたことか。信頼していた相棒がどこにでもあるような恋愛の枠組みに捕らえられたことか。ずっと気にくわないと思っていた男にまた一人の女が引っかかったことに対する憤りか。それとも別の何かか……。


「……くそ」


 泣きたい気持ちだった。泣けば少しは楽になる、そう思った。


 けれども目の奥はからからに乾いて涙は一滴も出てこない。泣きたいのに泣けない――まるであのときと同じだ。


 不意に閃光のように、二年前の苦い記憶が蘇ってきた。アイネたちを下して勝ち進んだ最後の予選会でのこと。思い出すだけで全身の力を奪われるような、あの日かけられた呪い――


◇ ◇ ◇


『銀賞、……北高校』


 ホールのスピーカからその名が告げられたとき、前の方に座っていた仲間たちの間に小さなざわめきが起こった。


 後ろから眺める彼らに落胆の色はなかった。それはある意味、自然なことだった。並み居る強豪を抑えての次点。それは学院に勝つことすら危ぶまれていた頃からは考えられない快挙で、大いに喜んでいい結果に違いなかった。……ただ、全国大会に進めないことを除けば。


 敗因は簡単だった。俺たちはただだけを目標にしてきた。


 その目的が達せられたあと、部の活動はひどくスムーズなものになった。中地区大会が終わるや反対派はみな手を返したように協力的になり、その筆頭だったカラスさえも表だっては何も批判めいたことを口にしなくなった。


 ……だが、そこまでだった。そこではじめて俺は部長としての自分の失策に気づいた。


 学院に勝つための方法は頭が痛くなるほど考えてきた。けれども俺は全国大会に勝ち進むための方法を、何ひとつ考えていなかったのだ……。


「……終わった」


 仲間たちの誰にも聞こえないように、俺は静かに独り言ちた。


 おそらく全国には行けない。中地区大会からの長くて短い期間そう思い続けた俺にとっても、銀賞は望外の結果のはずだった。


 ……あいつらのように喜んでもいい、むしろそうすべきだ。そんなことを考え――だがそう思う心の裏にやはりどこかで全国へ行けることを信じていた自分を見つけて……うつむき溜息をひとつ吐き、その溜息に促されるように、涙が目の奥からじわりと湧いてくるのを感じた。


『金賞、……高校』


 全国への切符を手にした高校の名が読み上げられたとき、背後でがたんと音がした。


 反射的に振り向いた。すぐ後ろで一人の男が席を立ち、信じられないものを見るような目で審査員の並ぶステージを見つめていた。俺の見ている前で、その男の目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。


「うわああぁぁぁ……」


 じっとステージを凝視したまま、人目もはばからずに男は声をあげて泣きはじめた。


 隣の席に座っていた男が席を立ち、同じように泣きはじめる。たちまち涙は伝染していった。真後ろに座っていた一塊りの生徒たちは抱き合い、互いに肩を叩き合いながら、声に出して泣いていた。


 ……俺はそこでようやく彼らがなぜ泣いているのかわかった。彼らが流しているのが混じりけのない歓喜の涙だということを、喪心とともに理解した。


 ――そうして俺は、自分が泣く機会を失ったことを知った。


 今にもこぼれようとしていた涙はきれいに消え失せ、新しい涙は目の奥から一滴も湧いてきはしなかった。


 ……泣きたいのに泣けなかった。喜びにむせび泣く彼らを見つめながら、俺はただ身体から魂が抜けていくような激しい脱力を感じていた。


 帰りのバスの中は賑やかだった。仲間たちの誰もが銀賞という結果を喜び、浮かれさえしていた。


 そんな中にあって俺と、その隣に座ったペーターだけは通夜のように押し黙っていた。彼女は俺を慰めるように何度も話しかけてきたが、俺が無視しているとそのうち何も喋らなくなった。


 瞼を閉じ、冷たい窓に頭をもたれて、俺はただじっと彼らのことを考えていた。


 真後ろで立ち上がり、大粒の涙を流して喜びを分かち合っていた彼らのことを。俺が遂に流すことができなかった、彼らの涙のことを……。



 ――あのとき流せなかった涙はまだ目の奥に溜まっている。流すことができなかった涙は呪いのようにいつまでも心を縛る。


 あのとき俺は泣かなかったのではない、泣けなかったのだ。


 そのことを思い出すたびに、中地区大会でのアイネのことを考える。仲間たちがみな泣く中たった一人涙を見せず、凛然とした笑顔で握手を求めてきた彼女のことを考える。


 ……そうして俺はまたアイネのことを考える。信頼する相棒としての、三年間をともに戦ってきた戦友としての彼女のことを考える。


 深い溜息をつき、乾ききって痛みさえ覚える目の奥に涙を求めて……ふと考える。


 あのとき俺は泣かなかったのではない、泣けなかった。


 ならば、彼女はどうだったのだろう。


 あのときアイネは泣かなかったのだろうか、それとも泣けなかったのだろうか――


◇ ◇ ◇


 練習開始の一時間前にペーターは来た。入ってきて挨拶するなり彼女は舞台にあがり、てきぱきと練習の準備を進めていった。


 最後の練習といっても常会なのだからそれほど大袈裟に準備をする必要などない。そう思いはしたが、大張り切りのペーターにそれを告げることもできず、結局は俺もその準備につき合わされた。


 小道具の振り分けはもちろん、舞台に場ミリのビニールテープまで張った。このままリハーサルができそうな勢いだ。


 俺がそう言うとペーターはむしろ不思議そうな顔をして、「そのつもりでやってますよ?」と返してきた。それでようやく俺も本腰を入れてやる気になった。


 アイネが来たのはいつも通り開始三十分前だった。そのとき俺は客席に座り、舞台上のペーターの立ち位置を確認しているところだった。


 振り返って軽く声をかけると、アイネは曖昧な表情で「ん」と、返事とも何ともつかない声で返した。それから真っ直ぐ舞台に向かい、下手袖に鞄を降ろしたあと、「それで、わたしは何をすればいい?」と、俺ではなくペーターに指示を求めた。


 一瞬、ペーターはこちらを見たが、俺が何も反応しないでいるとアイネに向きなおり、さっき俺にそうしたように準備の詳しいことについてアイネに説明しはじめた。


 三人がかりでやったことで場ミリはすぐに片がついた。……そもそも場ミリの細かい指示は隊長でないと出せないから大まかなところしかできなかったということもある。そのあとは今日の練習で最も重要と言っていいの確認にめいめい残りの時間を費やした。


 アイネの俺に対する態度は相変わらずだった。準備の間もほとんど俺とは口を聞かず、二言、三言交わしたに過ぎない。


 このまま練習に入ってはいけない……荒みきった空気を感じながら俺は何度かそう思った。このままでは最後の練習が取り返しのつかないものになる。それは火を見るより明らかなことで、気がつけば俺とアイネの間にある溝はそこまで深く大きなものになっていた。


 ……けれどもその溝を決定的なものにしたのはアイネではなかった。そうなるに任せてしまったのが自分自身であることを、俺は誰よりもよくわかっていた。


 昨日も今朝の朝練でも、俺は自分からアイネに話しかけようとする姿勢をとり続けた。そうすることが関係を改善する唯一の方法だと信じていたし、不適切な発言で彼女の不興を買ったことへの贖罪の意味もあったからだ。


 だがここへきて俺はそうするのをやめた。俺の方でも扉を閉ざした――いや、扉を開けようとする努力を放棄したのだ。


 そんなことをすればどうなるのか結果はわかりきっていたが、そうせずにはいられなかった。


 DJの密告によって植えつけられたやり場のない感情は消えることなく胸に燻り続けていた。その感情をどうすることもできないまま、俺はアイネに声をかけることはおろか、まともに目を合わせることすらできなかった。


 そんな俺の変化に気づいているのか、アイネは時おり『虎の巻』から目を離してちらちら俺の様子を窺ってくる。あるいは俺が歩み寄るのを待っているのかも知れない。無表情を装った彼女の顔からは、無言で俺に助けを求めるような頼りないものが感じられた。


 そんなアイネの表情を垣間見るたびに胸が軋む思いがした。……そうすべきだと思った。俺の方から歩み寄って、せめてまともな演技ができるところまで持っていくべきだと思った。


 けれども俺は動けなかった。アイネの方から俺に歩み寄ってくることも、当然のようになかった。


 押し黙る俺たちの間で、ペーターの口だけが気忙しく動いた。しきりに構成の確認を促し、俺ばかりでなくアイネにもいつになく言葉をかけていた。俺とアイネの間に走る亀裂にペーターが気づかなかったはずはない。彼女は彼女なりにそれをどうにかしようと必死になっていたのだと思う。


 ……雨は降り続いていた。ペーターが舌を休めるたびに雨粒が屋根を叩く音がひとしきり響いた。


 そんないたたまれないホールの中にあって、俺は――俺たち三人は祈るような気持ちで残る二人の到着を待った。

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