253 泣かなかった、泣けなかった(5)

「DJかよ。何の用だ?」


 と、俺は言ったが、DJはそれには応えず、それまで繋がれていた俺の手をむしりとるようにしてクララの手を握った。


「はじめまして……ではありませんね。ですがお言葉を交わすのはこれが初めて。どうかお見知りおきを。私はDJという者です。わけあって本名は申せませんがお兄さんなどはそう呼んでくれています。ラジオのDJをやっているんです。小さな局ですが、やる気と生き甲斐を感じています」


「え……? あ、は……はい」


「そういうのは秘密にしておくのが粋だとか言ってなかったか、おまえ」


 そんな俺の指摘を無視し、DJはクララの手を握ったままいよいよ光り輝く目で彼女を見つめた。


「お嬢さん、御名前は?」


「ク……クララです」


「クララ! 素晴らしい名前だ……。可憐で、それでいて気品がある。花のように美しいあなたのすべてを、その名前が表しているようだ」


 聞いているこっちが赤面するような台詞を大真面目な顔でDJは口にする。だいたいこいつはクララという名前に何の疑問も感じないのだろうか。


「そ……そうですか」


「ええそうですとも! クララ……美しい響きだ。清楚で、品格に満ち、懐かしくさえある。クララさんとお呼びしてよろしいでしょうか? それともクーちゃん?」


 ……何の疑問も感じていないのだろう。こいつにとって名前などどうでもいいのだ。たとえ彼女がウメと名乗ろうがホザンナと名乗ろうが、きっと同じ歯の浮くような台詞をそのあとに連ねるのだろう。


「ク……クララと」


「クララ! わかりましたクララ。これからはあなたのことをそうお呼びしましょう。それにしても何という偶然だ……。今日こうしてまたあなたにお会いできたのは神の導きたもうた運命のようだ」


「は……はぁ」


「そう、運命。私たちはきっと結ばれる運命なのです。……いや、失敬。これは少し話を急ぎましたね。差し当たってどうでしょう。この再会を確かなものにするために、どこかで一緒にお茶でも」


「わ……私、もう帰ります! 済みません、失礼します!」


 クララはDJの手を振り払いベンチから立ちあがった。そのまま走り出しかけて、あのときそうしたように一度だけこちらを振り返った。


「それではまた。今日はお話できて嬉しかったです」


 俺に向かい笑顔でそう言って、クララは小走りに行ってしまった。


「あーあ、行っちまった。……何か機嫌損ねるようなことしたかな、おれ」


「あほか。おまえは」


「ん? どういうことだ?」


 あまりのばからしさに返事を返す気にもならなかった。DJは俺の隣、さっきまでクララが座っていた場所に腰をおろした。そして真剣な目でじっと俺を見つめてきた。


「なあハイジ、ひとつ深刻な質問があるんだ」


「……何だ?」


「どうやったらそんなに女にモテるんだ?」


「モテる? 誰が?」


「おまえに決まってるだろ」


「あのな……。俺のどこをどう見たらそんな台詞が出てくるんだ?」


「そうか、おまえ自覚ないのな」


 自覚いかんの問題ではなく、確実にDJの事実誤認だった。若干一名、あからさまな好意を向けてくれる女がいることにはいるが、彼女はそもそもケースが特殊だから参考にはならない。それ以外に思いあたる節はこれといってない。第一、もしDJの言葉が真実だとしたら、なぜ夏を迎えようとするこの時期に、俺の隣には恋人の一人もいないのだろう。


「俺がモテるモテないは別にして、さっきのあれはどうかと思うぞ、正直」


「どこらへんがまずかった?」


「最初から最後まで」


「マジか! しかしあれは、キリコ先生から受けたアドバイスをもとに、必死で編みだしたアプローチ方法なんだが」


「……参考までに、どんなアドバイスを受けたんだ?」


「最初はとにかく徹底的に誉めろ、と。名前でも容姿でも何でもいいから」


「それ自体はあながち間違いでもない。が、さっきのは駄目だ。大袈裟すぎる」


「それもキリコ先生に言われたことだ! 口説くときの文句は少しくらい大袈裟な方がいい、と」


「……いや、それも別に間違ってないから。というか、どう考えても『少し』じゃないだろ、さっきのは」


「ああ! おれはあの女狐に担がれたのか! 畜生め覚えてやがれ、今度会ったときには!」


「聞けよな……人の話」


 DJは動物的なうなり声を発しながら、目の前のものを揉みくちゃにするジェスチャーをして見せた。空想の中の相手がキリコさんだとしたら八つ当たりにもほどがある。そのあたりをわからせてやりたい気もしたが、面倒くさいのでやはり止めておいた。口ではどう言ってもDJがキリコさんに手をあげるわけなどないし、いざ議論となれば返り討ちに遭うのがオチだ。あるいはそれでDJの誤った認識が正されるかも知れないし、あえて俺がここで可能性の芽を摘むこともないだろう。


 三分もしないうちにDJの錯乱は治まった。同じ状態が長続きしないというのがこの男の良いところでもあり、悪いところでもある。


「まあいい、おれは諦めないぞ」


「ん?」


「メイクの裏方って話だったな。ならこれからも話す機会はある」


「……立ち聞きしてたのかよ」


「立ち聞きじゃない。あの木の裏に座って隠れてた」


「そういうのを立ち聞きと言うんだが……」


「おれは戦うぞ! 人生とは不断の闘争だ! あの偏狭な兄の呪縛からクララを解放し、二人での新しい生活を樹立するその日を夢見て!」


「……隊長は関係ないだろ。と言うか、おまえひょっとして本気なの?」


「おれはいつだって本気だ!」


「そうか。まあ、うまくいくといいな」


 割と率直に俺はそう思った。こいつがどこまで本気かわからないが、そういうことならうまくいけばいい。


 ヒステリカの規則に抵触するかも知れないが、助っ人にまでそんなことを求めていてはそのうち裏方のなり手がなくなる。大学のサークル活動にそういう機会を求めるのは自然だろうし、むしろそのためにやっているやつらの方が多い。DJがその手合いでないことはよくわかっている。仕事に支障が出ない範囲で淡いロマンスを夢見るくらい許してやってもいいはずだ。


「へっ、さすがに余裕の台詞だな。モテるやつはこれだから」


「だから、俺のどこがどうモテるって言うんだよ」


「言わなきゃわからねえのか、このスケコマシ野郎が! 夜の町を女と手繋いで歩いてるってだけで、おれにとっては呪い殺したくなるくらいモテるってことなんだよ!」


「夜だろうが昼だろうが、女と手を繋いで歩いた記憶なんてないが……」


シラを切るとはハイジも落ちたもんだな! おれはたしかに見たぞ! おまえが昨日の夜、コケティッシュなソバージュヘアのモガとラブラブなランデブーをエンジョイしていたのをな!」


「……してないっつーの。だいたい誰だよ、その死語で固めた十年前のアイドルみたいな女は」


「聞くまでもなかろうよ! てめえの胸に手を当てて考えてみるんだな!」


 わけのわからない話に、俺は内心やれやれと思った。昨日の夜はモガとランデブーするどころか、深海のように真っ暗な部屋に混乱する頭を抱え、いつまでも寝つかれず悶々とした時を過ごしていたのだ。


 だいたいその女というのは誰だ? 男たらしコケティッシュで無造作な波形ソバージュヘア髪の今モガ女なんて俺の周りには――


 そこでふと、俺の脳裏に思い浮かぶ顔があった。


「……その女って、もしかしてキリコさん?」


「他に誰がいるよ、このスケコマシ野郎が!」


「お前、昨日の夜、俺がキリコさんといるところを見たのか……?」


「ああ見たさ、この目でばっちりとな。夜の闇に紛れていちゃいちゃしやがって。厳格な規則が聞いて呆れるな、え?」


「いや、違う。それは違うんだけどな……」


 口にしかけた弁明の台詞は、湧きおこる疑問によって中断された。


 ……昨日の夜、俺がキリコさんと歩いていた? それはいったいどういうことだろう。DJの物言いは実に普段通りで、俺を担ごうとしているようには思えない。見間違いではないだろうか……普通はそう考えるべきだろう。


 だが、DJの話にはどこか引っかかるところがある。そう、あの電話だ――


「ま、おれには関係ねえけどさ、おまえらがどこで何してようが」


「何もしてない。してないんだけど、ただな……」


「ただ舞台関係者としちゃ少しばかり興醒めしたぜ。舞台は日曜だってのにそんな浮かれたことしてて大丈夫なのかよ。……ったく、おまえといいアイネといい」


「アイネ?」


 唐突に出てきた名前を思わず問い返した。けれども返事はない。DJは白々しく目を逸らして、「ん? 何か言ったか?」と呟いた。


「アイネがどうしたって?」


「ああ、しまったな。聞こえちまったか」


「聞こえるように言ったんだろうが」


「別に聞こえなきゃ聞こえないで良かったんだがな。知らぬが花って言うしよ」


 奥歯にものが挟まったような言い方だった。DJらしくもない態度だ。俺はその態度に苛立ちを覚え、「言いたいことがあるなら言え」と強い調子で言った。


 するとDJは少しとぼけたような表情のまま、目ばかり真剣に俺の顔をまじまじと見つめた。


「ぶっちゃけさ、おまえとアイネってどうなのよ?」


「どうって……どういうことだよ」


「いいから答えろ。実際のとこどうなんだ?」


 短い遣り取りで立場が逆転した。言い逃れは許さないとDJの声が言っている。質問の意味はわかる。……なぜかここ数日、この質問ばかりされている気がする。


「……前から言ってる通りだ。友情――というか、仲間意識の他は何もねえよ」


「はっ! そうか、ならいい」


 吐き捨てるようにそう言うとDJはベンチから立ちあがり、そのまま歩き出そうとした。


「いい加減にしろよ。おまえらしくないぞ」


 俺の呼びかけにDJは立ち止まり、おもむろにこちらを振り返った。そして大仰にひとつ溜息をついたあと、見慣れたいつもの表情に戻って、言った。


「アイネは上物じょうもんの女だ。つきのな」


 それだけ言ってDJは少し間を置いた。こちらの反応を見ているようだった。だが俺はどんな返事を返していいのかわからなかった。そんな俺を認めてDJはなおも続けた。


「取っつきは悪いが根は情に厚いし、嘘のつけない不器用さもいい。気が強くて女の武器リーサルウェポン使わないとこもまたいいな。見てくれも悪くない。あいつの身体つきのエロさが抜群だってのはおまえも認めるだろ。あれだけ出るとこ出てて引っこむとこは引っこんでる女はそういやしねえ。好みは分かれるだろうが、おれの基準じゃ顔だってだいぶイケてる。あんまりはっきり言葉にしたかねえが、美人と言っていいんだろうよ」


 少しとぼけたようないつもの顔つきで、いつもの口調でDJはそう語った。……だがそれはいつもの軽口ではなかった。淡々と語られるその内容が真剣すぎるほど真剣なものであるのを、俺はひしひしと感じた。


「この際だからはっきり言っとくがな、おれがあいつに言い寄らないのはおまえに義理立てしてるからなんだぜ? おまえらはじめっから気持ちわりいほど仲良かったし、表向きはどうあれつき合ってるもんとばっか思ってたからな。そうでなきゃ誰があんないい女ほっとくかよ。おまえがいなきゃとっくの昔におれは勝負を挑んでたさ。たとえまるで勝ち目のない勝負だとしてもな」


「……そうか」


 ようやく、そんな気の抜けた返事を返した。


 それが精一杯だった。たった今、DJから聞かされた話はそれほど重かった。……DJがそんなことを思っていたとは考えもしなかった。


 話の内容はいちいち納得がいくものだった。こいつが言いたいことはよくわかる。アイネがいい女だということくらい俺もよく知っている。だが――DJはなぜ今ここでそんな話を?


「昨日の夜、あいつが男と歩いてるのを見た」


「……!」


 俺の心の声が届いたかのようなタイミングでの一言だった。弾かれたようにDJの顔を見た。そんな俺にDJはさっきと変わらぬまま、いつも通りの表情で応えた。


「ハイジも知ってるだろ、『夜笛』のやつだよ。おまえと高校のとき一緒だったっていう……ええと、何て言ったっけな。そう、カラスってやつだ。夜中にそいつと歩いてたよ。ちょうどおまえとキリコ姉さんがそうしてたみたいにな」


 ……血の気が引くのがわかった。身体中の力が抜けた。ベンチに座っていてよかったと思った。もし立っていたら、貧血をおこした女子学生のように情けなくよろめいていただろう。


「さっきはああ言ったが、おまえとキリコ姉さんについてとやかく言うつもりはねえよ。昨日のあれにしたっていつもの馴れ合いの延長なんだろ、わかるさ。……けど、アイネがおまえ以外の男と二人で歩いてるとこなんか見たことなかったからな。お節介かと思ったが、こうしてわざわざ告げ口にきてやったわけよ」


「そっか……ありがとう」


 またこんな気の抜けた返事しか返せない。そんな俺を前にDJは「ふう」と声つきの溜息を吐いたあと、ふと何かに気づいたように空を見上げた。


「ん? 雨か」


 つられて俺も空を見上げた。さっきまで抜けるような青だったそこは、一条の光も通さない厚い黒々とした雲に覆われていた。……その雲から一滴、また一滴と雨粒が落ちてくる。


「繰り返すけどな、あいつはとびきり上物じょうもんの女だ。そういう女は放っとけばどこかの男がかっさらってくのがこの世界の掟だ。何千年も昔から決まってんだよ、そんなのは。……ま、せいぜいうまくやるんだな。後悔ってのは、ぜんぶ終わっちまってからするもんだぜ」


 それだけ言うとDJは両手を頭の上にかざし、「うわ、こりゃ本降りになるぞ」と独り言ちながら交流会館の方へ走り去っていった。


 その言葉にたがわず、雨はすぐ本降りになった。生温かい大きな雨粒が髪に注ぎ、頬を伝い顎から喉元へ伝い落ちてゆく。


 ……前方がかすんで見えなくなるほどの激しい雨。置き忘れられた木偶でく人形のようにただそんな雨に打たれながら、俺はしばらくの間、ベンチを立つことができなかった。

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