087 水面(10)

 ――もはやそこは元の町ではなかった。


 一昨日のようにわかりやすい異常が認められたわけではない、むしろ一昨日のそれに比べれば景色はだいぶ正常に近かった。高く澄んだ空はいつも通りの青で、停滞する午後の大気はいつも通り澱んでいた。


 ……けれども、それは違っていた。空が銀色に染まるよりもっと確実なかたちで、その景色は元の町から隔たったものに変わり果ててしまっていた。


 憂鬱な薄曇りの空の下に、町はその動きを止めていた。


 実際に静止しているわけではない、目に映る人も車もその景色の中に動いていた。――けれども、町の動きは止まっていた。その動きを止めたまま動いていた。


 まるで動力を持たないフィギュアや模型が繰り動かされるように……人や車や、その他のあらゆるものがぎこちない所作で、どこからか与えられる命令通りに動いているように見えた。


「……」


 それはちょうど映画のコマ送りに似ていた。


 無数の齣が連続して映写されるとき、それは動きのある映像として我々の目に映る。けれどもその映写の速度が遅くなれば、複数の静止した齣が次々と目に入ってくるに過ぎない。


 もちろん、今ここで目の当たりにしている景色は、複数の齣がぱらぱらと入れ替えられるような単純なものでなない。だがそののニュアンスを伝えようとする場合、そのたとえが最も適当である気がする。


 あるいは――その景色は人の顔のパーツの位置を崩すことで人の顔ではなくなってしまったものを思わせる。


 目と鼻と口の位置をわずかずつずらして、普通の人の顔として認識できる範囲を逸脱してしまった顔のようなもの。目も鼻も口もちゃんとついているが、明らかに人の顔には見えないもの。なまじそっくりであるために異様な印象を抱かせるそれに、俺が目にしているこの感じはよく似ている。


 カマキリモドキという昆虫を図鑑で見たときの違和感を思い出した。


 カマキリによく似た、けれども系統も生態もまったく別の生き物であるその昆虫は、擬態としてその容姿を獲得したのだという。そうした昆虫学者の読み通り、他の昆虫をはじめとする生き物には区別がつかないのかも知れない。


 だが、カマキリを見慣れている人間にははっきりとその違いがわかる。そしてそれだけに、その姿は我々の目に奇異な印象を与える。子供の頃から慣れ親しんだカマキリの姿が頭にあるだけに、姿は、酷く異様で受け容れがたいものに感じられる。


「……」


 自分がいま見ているものがそれだと思った。


 子供の頃から見慣れている町にそっくりだが、これは明らかにあの町とはだ。そしてなまじその形状が似通っているだけに、正視に耐えがたいほどの違和感を俺に与える。


 そう……それは激しい違和感だった。具体的に何がどう違っていると指摘することは難しい、けれどもはっきりと何かが違っているという思わず叫び出したくなるほどの、それは違和感だった。


「……?」


 そんなことを思いながら眺める俺の目の前で、その町の風景はさらに別のものに変貌していった。


 正確には、もともと現実のものとは思えなかったその景色が、何かを諦めたようにそのかすかなリアリティさえも失ってゆくのを目にした。


「う……」


 その光景に思わず息を呑んだ。……どう言えばいいのだろう、景色を構成する個々の要素が周囲とのつながりを喪失してばらばらなものになってゆくのがわかった。


 実際には何も変わっていないのかも知れない。だが少なくとも俺の目に映るそれはリアルタイムできれぎれに分断され、それらが見かけ上は結合を保ったままコラージュのように元の町とは似ても似つかないものに再構成されていった。


 空とビルとの境界に見えない線が引かれ、その両者がはっきりと分断される。それらは景色を構成する有機的な要素ではなく、ひとつの視界におさめられたばらばらのビルと空に成り変わる。


 その空を見上げれば白い雲と空の青とが分け隔てられ、やがてそれらはただの白と青とに変化してゆく。視線を移すはしからその景色は変質し、しかも元通りにはならない。そればかりか眺めているうちにさらにもっと別の……何か得体の知れないものに成り果てていってしまう気さえする。


「……」


 ……崩壊は時間の問題だというウルスラの言葉を思い出した。こうしてこの景色を眺めていれば、その言葉が誇張でも何でもないことがたやすく信じられる。


 ただここが崩壊するというのが具体的にどういうことなのか、それが俺にはわからない。そしてそれがあいつにどう繋がるのか……ここの崩壊とあいつとの間にどういった関係があるのか、ウルスラの示唆したそのあたりの事情について、俺は何もわからない。


「……」


 ――嘘だ、と思った。


 俺はたぶん、それについてわかっている。


 ここが崩壊するというのがどういうことなのか……それがあいつにとってどんな意味を持つのか、そのあたりの事情を俺ははっきりと理解している。


 ただ俺はわからないふりをしているだけだ。それについて考えたくないから……考えるのが恐ろしいから。それについて深く考えることで今眺めているこの景色のように、俺の心も元通りではいられなくなってしまうかも知れないから――


「……っ!」


 そこまで考えて、俺は堪らずその景色から目を逸らした。こんな景色を眺めるために……こんなことを考えるためにここに来たのではないと思った。


 そんなものはみんな最初からわかっていたことだ。ここがどういう場所であるかも、壊れるのが時間の問題であることも。


 今、それについて深く考える必要などどこにもない。ここで俺がしなければならないことはそれとはまったく別のことなのだ。


 そして俺は今さらのように、ここに来た目的を思い出した。俺はあいつに会うために――会って話をするためにここに来たのだ。


 今の俺にとってそれ以外のことは取るに足りないに過ぎない。たとえ景色がどれほどグロテスクに変貌しようと、今ここでこの空が音を立てて落ちてこようと。


『遠くない未来、統御は完全に崩壊し、この世界のあらゆるものがそれと運命を共にすることになります。こうしてここに存在するあたしたちも。それが、あの警告の理由です。ここに居続けるということは、そういうことなのです』


 頭の中にウルスラの忠告が響いた。その言葉で、ぐずぐずしている場合ではないということを認識した。


 病院を出て初めて、自分がどこにいるかを知るために周囲を見まわした。そうしてすぐ、何のことはない、そこが俺たちの通う大学にほど近い場所に建つ医学部の付属病院であることに気づいた。


 それだけ確認して俺は駆け出した。まずはとりあえず、大学行きのバスに乗るために――


◇ ◇ ◇


「……で、結局こうなるのかよ」


 そんな悪態をついて道ばたに座りこんだのは、もう夕暮れにさしかかろうとする時間だった。


 赤く色づいた町並みは眺めるそばから継ぎ接ぎの色模様に変化してゆく。だが、それももう気にならない。それよりも汗だくで疲れ切った身体の方がよほど大きな問題だった。


 ここへ来る前のあの渇きに比べれば屁でもない、と自分に言い聞かせてみても立ち上がれない。


 こんな浮世離れした姿になり果てても、夏はその午後にふさわしい暑さと夕立あがりの湿気をもって俺を迎えてくれたのだ。


 ……ただ立ち上がれない理由の半分は、どこをどう捜してもペーターが見つからないことだった。この手の展開を舞台前のあの日からいったい何回繰り返してきたのだろう。誰かがいなくなる。あてもないまま町中を捜しまわる。だが、当然のように見つからない。ひとまわりするのに一日かからないこの小さな町はその実、人ひとり捜し出すには充分すぎるほど広い……。


「どこいるんだよ……ったく」


 最初に足を運んだ大学は休みなのかもぬけのからで、人気のない構内には調子の外れた蝉の声だけが響いていた。


 交流会館にはどこのサークルの人間かわからない一団が小声で会議らしきものをしている以外に人影はなく、庭園にも文学部の校舎にも面識のない学生がまばらにいるだけだった。


 もちろん、その中にペーターはいなかった。


 空虚を絵に描いたような大学の構内で目についたものといえば、図書館のあった場所に大きな水たまりができていたことと、共通教育棟前のベンチで昼寝する学生の顔がどう見てもだったことくらいだ。


 その次に向かったペーターの屋敷は、ちょうどあの夜のように門も玄関も開け放しだった。遠慮なく踏み入ったその中には、血にまみれた家政婦の死体がそのまま残されていた。


 夏場のことで既に臭いが立ち始めていたが、俺としてはどうすることもできなかった。広大な屋敷を一通り見てまわって、ペーターがいないことを確認してからそこをあとにした。


 そのあとも思いつく場所を思いつくままあたり、その場所場所で明らかに光景を目にした。そういったものにいちいち驚かずペーターを捜すことだけに集中してこられたのは、我ながら固い意志のたまものだと思う。


 ただそれもこれも、あいつを捜し出せなければ何の意味もない。


 闇雲にまわって見つかるのならいくらでもまわるが、あいつの方で姿を見せる気がなければいくら捜したところで見つからない……ウルスラの言うここの成り立ちを考えれば、それがこの秩序を失った世界におけるたったひとつのルールのように思える。


「……」


 はや夕暮れだった。


 とても現実のものとは思えない不出来な寄木細工のような夕暮れを眺めながら、とりあえずいったん小屋に帰ろうと思った。そこにペーターがいるとも思えないが、簡単に食事をして着替えて……夜通し町を駆けまわる前にせめてそれくらいのことは許してほしい。


 小屋へ向かう道すがら、犬をつれた女がゆっくりと通り過ぎていった。光の加減かわからないが俺にはその女の顔が犬のそれに、犬の顔が女のものに入れ替わって見えた。


 ほとんど気にもとめないでその犬と女をやり過ごしたあと、自分の感情が完全に麻痺していることを何の感動もないままに悟った。


 もうこの町に信じられるものは何もない……ここまで見てきてそれがわかりすぎるほどよくわかった。


 だから模型屋の前にパイプをくゆらせる老人の姿を認めたとき、驚きのあまり声が出なかったのは、皮肉というよりほとんど笑い話に近い。

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