086 水面(9)

「だからぜんぶすてちゃったんだよ? ひとりでしぬのなんてこわいから」


「……」


「ひとりでしぬのなんてこわいから、だからハイジもいっしょにとおもって、それでぜんぶすてちゃったんだよ?」


 平坦でたどたどしい少女の声だった。これまでに聞いたどのペーターの声とも違っていた。


 虚ろだった表情も今は叱られるのを恐れるような怯えた子供の顔になっている。その目から一筋の涙が頬を伝い落ちてゆくのを、どう反応していいのかわからないまま呆然として俺は見つめた。


「ハイジと……ハイジといっしょ……いっしょにしにたかったんだよ。だから……だからぜんぶ……ぜんぶすてちゃったんだ……よ」


「……」


「けど……けどやっぱり……やっぱりハイジは……」


「……」


「やっぱりハイジはしんで……しんでほしくないから……ないから……わたしひとりで……ひとりで」


「……」


「だから……これはハイジが……ハイジがたべて……わたしは……たべないから……ハイジが……たべて」


 止めどなく涙を流しながらとぎれとぎれにペーターは言った。


 ……言いたいことは何となくわかった。あの暴挙がそういった目的でなされたものだとしたら、一応筋は通っている。


 だがわからないのはなぜペーターが死ななければならないのか、ということだ。あの時点では水も食糧も豊富にあったのだからそこまで絶望する必要はなかった。それに今にしてみたところで、すべての道を閉ざして死に急ぐのはどう考えても早すぎる。


「……だから、お前が死ななくてもいいだろ」


「……」


「そんなら、半分でいいからそれ食えよ。残りの半分は俺が食べるから」


「……」


 俺がそう言うとペーターは大きく首を横に振った。そして反論するようになおも何かを言ってこようとした。


 けれどもそこからは言葉にならなかった。しゃくりあげる嗚咽の中に、さっきの言葉の羅列とは別の理由で意味のわからない単語が混じるのを、内心げんなりした思いで俺は聞き続けた。


 再び声をかけようとして……やめた。この状態でどんな声をかけてもまともな結果は期待できない。


 そこまで考えて、どんなに言葉を尽くしたところでペーターがナツメヤシの実を口に入れてくれないだろうという結論に至った。理由はよくわからないが、ペーターは絶対にそれを食べないと思い詰めている。


 基本的には素直で人の話をよく聞くが、一度これと決めたことは誰が何と言おうと変えない頑固さを彼女が持っていることは、長いつきあいの中で俺はよくわかっている……。


 ナツメヤシの実を食べてくれないのなら、せめて水だけでも――そう言い出そうとして、自分がさっき『中庭』でそれを飲まないと決意したことを思い出した。……そして、ああそうか、と思った。


 俺も結局、こいつと同じなのだと思った。


 理由は違うのかも知れない。だがやっていることを見れば似たようなものだ。明日死ぬかも知れないとわかっていても飲んではならない水は飲まない。それだけみれば俺がやっていることは一見不可解なペーターのそれと何も変わらない……。


 どんなに渇いていようと、この城にはもうあの泉の水以外飲める水はない。俺が飲まないと決意したその水をペーターに飲ませるのはお門違いもいいところだ。けれどもその水を飲まなければ俺たちは明日にも死ぬ。もとより俺は覚悟の上だ……けれども俺と同じその道をペーターにも歩ませていいのだろうか。


 目を向けるといつの間にかペーターは泣きやんでいた。涙のあとの残る顔にまたさっきと同じ虚ろな表情を浮かべ、何もない部屋の闇を見つめている。その様子に、まともな返事は返ってこない気がした。それでも俺は望みをこめてその言葉をかけた。


「なら、俺と一緒に死ぬか?」


「……」


「俺はもう覚悟決めたよ。毒の入った水を飲むくらいなら死ぬ。お前も一緒に死ぬか?」


「……」


 どうしようもなく重い言葉がなぜかやすやすと口をついて出た。水がきれているせいで頭がおかしくなっているのかも知れない。


 そんな俺の提案にペーターはこちらを向き、無言で首を横に振った。そうしてさっき見せていた真剣な表情をつくり、充分に時間を置いてゆっくりと唇を開いた。


「死んだ・恋人・だから・泣いて・います」


「……」


「今も・ずっと・初めて・私が・なんです」


「……」


 訴えるような顔で一言一言はっきりとペーターは告げた。またさっきと同じ意味不明な単語の羅列に、俺は彼女に聞かれるのも構わず大きく深い溜息をついた。


 何を言いたいのかわからなかった。こいつが何を考えているのか俺にはまるでわからない。


 ……結局、そういうことなのだと思った。どんなに心を砕いてみても、俺にはこいつの考えていることがわからない。こんな世界の果てに二人、明日をも知れぬ悲劇の中に身を寄せ合っているというのに、俺たちはほんのかけらほども心を通い合わせることができない。


 ペーターの口から出る言葉から、俺は彼女の感情を何ひとつ読み取ることができない。どうにかして中に入りでもしなければ、こいつの考えていることはわからないのかも知れない。


「……」


 そこで不意に――なら中に入ってみようか、と思った。


 ペーターの口から出る言葉の意味がわからないのならば、彼女の中に入って直接その声を聞いてみようと思った。晴れた日にふと散歩に行くことを思いつくように自然と頭に浮かんできたその異常な発想を、俺はもう否定しなかった。


 ……正直、へ戻ったところでペーターの考えていることなど何もわからないという確信がある。それでも、一度頭にのぼった思いを消すことはできず、俺はどうしても彼女の中に――壊れかけたあの町に戻りたくなった。


「……」


 ペーターはもうこちらを見ていなかった。うすく唇を開いた虚ろな顔で、ただぼんやりと闇を眺めていた。


 寝台の上をすり足に近づいても、その顔がこちらに向けられることはなかった。充分に近づいてその頬を手で挟む……そこまでしても、ちょうどさっきそうだったようにペーターの目は俺を見なかった。


「……」


 そのまま口づけようとして、だがあまりに薄汚れた顔にそうするのをやめた。シャツの袖口で砂まみれの顔を拭い、ぼさぼさの髪をくしけずった。


 ……だが、そんなことをしたところでたいして変わらなかった。小さく溜息をついて、その唇についた砂を指で落とした。それからまた頬に手を添え、その顔を正面から見た。


「……」


 ペーターの表情は変わらなかった。虚ろな光を宿した目は依然としてここではないどこかを見ていた。


 ……あるいは、その目は俺がこれから行こうとしている場所を見ているのかも知れないと思った。もしそうだとしたら――そこまで考え、けれどもその先は出てこなかった。


「……するぞ」


 一応、それだけ言って顔を近づけた。キスを乞うようにうすく開かれた唇は、何も言い返してきてはくれなかった。


 俺の手に頬を挟まれた頭は人形のように動かなかった。徐々に近づいてくるその目は、最後まで俺の目ではないどこか遠くを見ていた――


◇ ◇ ◇


 ――気がついたのは見慣れない部屋だった。


 スチールの棚に置かれた小さなテレビと、背の低いテーブルに背もたれのない椅子がひとつ。


 テーブルの上には花瓶と呼んでいいのかわからないガラスの花立てに、半分しおれた赤い薔薇が飾ってある。


 その部屋の中央にはベッドがあって、俺はそのベッドの上に、まるで怖い夢から飛び起きたかのように背を立てて座っている。


「……」


 と消毒液の臭いが鼻をついた。それでその部屋が病院の一室だということに気づいた。


 改めて見まわせば飾り気のない棚も真っ白なシーツに覆われたベッドも、部屋の調度はすべて病室に似つかわしいものに思えた。


 もっとも、さすがにどこの病院なのかまではわからない。それ以前に自分がなぜ病院などにいるのか……こちらでの俺があれからどうなったのか、まるでわからない。


「……」


 向かいの壁には白いカーテンが揺れていた。


 開け放たれた窓からは湿気を孕んだ風と、気の抜けた町の音が浸みこんでくる。


 壁に掛けられた時計の針は三時をまわろうとするところだった。それだけ確認してともあれ、自分が今いるのが暑い夏の午後だということがわかった。


「……いて」


 立ち上がろうとして太腿のあたりが引きるのを感じた。ガムテープか何かを無理矢理剥がしたような感覚と痛みだった。


 目をやるとジーンズの太腿には両方にひとつずつ穴が空き、その周りに乾ききった黒い血の痕が残っていた。


 ……それを認めて初めて、そういえばこの前ペーターの家であの家政婦の人に銃で撃たれ、何の抵抗もできないまま手酷い暴力を受けたのだということを思い出した。


「……」


 けれども血で貼りついたジーンズの下に、あそこで感じていたような激しい痛みを感じなかった。そればかりかそこに銃創などことは、ジーンズをおろしてみるまでもなくわかった。


 あのときは顔もさんざんに痛めつけられ、確か鼻が蹴り潰されたはずだが、手で触れてみるそこは元通りちゃんと潰れずに立っている鼻だった。


 もっとも、が幻でなかったことを証明するように、シャツの胸元にはジーンズと同じ黒く乾いた血痕がロールシャハテストの模様のようにくっきりとその跡を留めているのが見える。


 立ち上がってみると普通に立つことができた。ごわつくジーンズの感触を気にしなければ歩くのにも支障はないようだ。


 やはりあのとき受けた銃創がもうあとかたもないということをそれで確認した。長年はいてようやくいい感じに色褪せてきたジーンズはおしゃかになったが、あの傷があのままだった場合の不自由を思えばそれも問題にならない。


 そこでふと、自分がこの病院にいたのはそのためではないかと思った。あのあと誰かが救急車を呼んでくれて俺がここに運びこまれたのならば、それで一応の辻褄が合う。


 ……だがそう考えるにしても治りが早すぎる気がする。あるいは何日か眠っていたのかも知れないが、それにしてもあの傷がものの数日で完治するとはさすがに考えられない。


「……」


 ぼんやりと立ち尽くしたままカーテンが風に揺れるのを眺めていた。


 窓から射す午後の光を受けてゆっくりとはためく白いカーテンが……なぜだろう、まるで精巧なスライドショーを見ているように奇妙で現実感を欠いたものに映った。


 いずれにしろこの部屋でいつまでも物思いに耽っているわけにはいかない。そう思って最初からはいていた靴の紐を締め直し、開け放しの扉から廊下に出た。


◇ ◇ ◇


 窓から舞いこむ光に溢れていた部屋とは対照的に、病院らしいリノリウムの廊下は酷く薄暗かった。非常口と見える突き当たりの扉についた小さな窓から射す陽光が、真っ直ぐ伸びる廊下にどうにか足下が見える程度の明かりを与えているだけだ。


 開け放たれていたのは俺のいた病室の扉だけだったようで、他の扉はどれも固く閉ざされていた。


 廊下には誰もいなかった。診察室の前のベンチに腰かける病人の姿はなく、カルテを抱えて病室へと急ぐ看護師の姿も見あたらない。


 階段を下りたところで初めて人の姿を目にした。長い白衣を着た医者とおぼしき男が空の車椅子を押してゆっくりと歩いていた。


 薄暗い上に逆光のため、その顔は真っ黒に塗りつぶされて見えない。だがそれ以上に誰も乗っていない車椅子をことさらにゆっくりと押して歩く姿は奇妙で、風体から医者と判断したものの、眺めているうち本当にそうなのかと怪しむ気持ちがわきおこってくるのを覚えた。


「……」


 表情をよく確認できないまま、男と擦れ違った。


 きいきいと車椅子を押す音が遠ざかってゆくのを聞きながら、その男が俺の格好に何の関心も示さなかったことの異常を思った。胸と両腿に盛大に血の飛び散った跡を残すこの格好を、暗い廊下とはいえ医者が見過ごすはずがない。


 そう思って俺は振り向いた。けれども車椅子を引く医者とおぼしき男はこちらを振り返りもせず、さっきと同じ緩慢な足取りで廊下の端を右に曲がろうとするところだった。


「……」


 その男が壁の陰に消えるのを見送ってから、やはり何かがおかしいと思った。


 ……もちろん、この一週間あまりでおかしいこと自体にはめっきり慣れたし、それを今さらどうこう言うこともない。けれどもこのはこれまでのものとはどこか根本的に違っている気がした。何がどう違っているのかまではわからない……だが何となくそう思った。


 受付のガラス戸の中に人の姿はなかった。広いロビーの長椅子には誰も座っておらず、結局、病院の中で会ったのはあの車椅子を押す異様な男だけだった。もとより入院代を払うつもりなどなかったが、それで少し安心して俺はエントランスをくぐった。


 重厚な自動ドアが閉まる音を背中に聞きながらその外に広がる町の景色を目の当たりにして――さっき中で感じたがこれまでとどう違うものなのか、はっきりとわかった。

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