085 水面(8)
気がついたとき、寝台に仰向けになってぼんやりと天井を見ていた。
いつからそうして見ていたのかわからない、たったいま目が覚めたばかりなのかも知れない。
虚ろな意識にさっきまでのことを思った。あれはいったい何だったのだろうと少しだけ考え……答えの出ないまますぐに考えるのをやめた。
いつの間にか太陽は沈んでいたようだ。乾燥した砂漠の夜気が裸の上半身に冷たい。
寝台の上にペーターはいなかった。身を起こし、部屋の中を見まわしてもいない。
……と、頭の奥に鈍い頭痛が生まれ、それは徐々に脳を締めつけるようなものに変わっていった。それと共に吐き気がおこった。思えば
そうした不調が幾重にも重なり合った俺の中に、激しい渇きが蘇ったのはそのときだった。
「……う……ああ」
細胞ひとつひとつがひび割れて軋みをあげるような、それは渇きだった。いや……もう渇きとは別の、純粋で混じりけのない欲情だと感じた。
生きようとする生物の本能が枯渇した身体に一滴の水を求めている。曖昧に混濁した意識の中に、その剥き出しの本能だけがはっきりした熱と質量とをもって俺をどこかへ導こうとしている。
「……ぐっ!」
衝き動かされるままに俺は寝台から転がり落ちた。立ち上がろうとすると脚が震え、ようやく立っても二歩、三歩進んだところで膝から崩れ落ちてしまう。
……それでも、身体は動いた。そのまま俺は這うようにして廊下へ抜け、真っ暗な廃墟に何度も膝をつきながら憑かれたようにその場所を目指した。
やがて月明かりの中庭に
風はなかった。黒々としたナツメヤシの林の奥に、泉はさんざめく星々を映す本物の
一歩、また一歩とその泉に近づきながら、俺は涙が出るような思いに駆られた。その思いの正体が何であるかわからないまま、前のめりに一歩、また一歩とそこへ近づいていった。
もう少しのところで石に足をとられ、転んだ。そのあとは両手両足で文字通り這うようにして――俺は遂に泉へとたどり着いた。四ツ這いの姿勢で犬のように
……だが、そこに口が触れる寸前に俺は頭を引いた。そしてなぜそうしているのか理由もわからずに、黒い水面に映る自分の顔をただじっと見つめた。
生温い水のにおいが鼻の奥にまで届いていた。
そのにおいをいっぱいに吸いこんで、もう一度水面に口をつけようとした。
……けれども、できなかった。鼻先に触れた水に浮かぶ顔をまたしばらく眺めたあと、俺は返りをうって地面に仰向けに寝転んだ。
「……」
漆黒の天穹には夥しい星の群れがあった。月は城の陰に隠れている、それだけに星の瞬きが少し妖しいまでによく見えた。
裸の背中を刺す小石の痛みに構わず、じっとその星の瞬きに見入った。そうして自分がなぜここまで来てこの泉の水を飲まないのか、その
「……」
すぐに答えは出なかった。
耐え難い渇きはこうしている今も俺の身体を激しく責め苛んでいる。その渇きに衝き動かされてここまで来た……そのことに間違いはなかった。
けれども這いずるようにしてようやくたどり着いたこの泉で、水を眼下に眺めながらそれを口にすることができない。……その理由が自分でもわからなかった。
このまま水を飲まなければ俺は確実に死ぬ。それがわかっていながら飲める水を口にしない、その理由は――
「ああ……そっか」
――人間だからだ、と思った。
この泉の水を飲まないのは、俺が人間だからだとわかった。
俺は人間だから、その誇りにかけてこの水は飲まない。虫でも動物でもない人間だから、たとえこのままでは明日死ぬのだとしても、飲むことができないとわかっているこの泉の水は飲まない。
「よ……っと」
それだけ思って、俺は立ち上がった。身の内にいっそう激しく軋みをあげる渇きを無視して、敢然と泉に背を向けた。
来たときと同じ覚束ない足取りでナツメヤシの間を抜けるうち、口元に力のない笑みが浮かんでくるのがわかった。それが何の笑みであるかわからないまま俺は、何ひとつ変わらない状況にあって妙に清々しい気持ちで中庭をあとにした。
◇ ◇ ◇
『王の間』に戻るその足で、ふと思いつくところがあってその隣の部屋――昨日ペーターが隠れていた瓦礫だらけの部屋を覗いてみた。
……思った通り、そこにペーターはいた。昨日と同じように部屋の隅の壁のくぼみにすっぽりと身を納め、憔悴しきった顔でぼんやりと薄暗い部屋を眺めていた。
「ペーター」
呼びかけても返事はなかった。虚ろな目でどこかを見つめたまま俺の方を見ないのも昨日と一緒だった。
正面にしゃがみこんでその顔を見る……汗はかいていないし、震えているわけでもない。一瞬、またあの恐慌に陥っているのかと思ったが、それについては杞憂だったようだ。
「ペーター」
もう一度呼びかけて反応がないことを確かめ、その背中に手を回した。抱きかかえるだけの体力はなかったので脇に腕を通し、引きずるようにして『王の間』に運んだ。
砂まみれの寝台にその身体を横たえると、俺の方でもそこで限界だった。目眩にぐるぐると回る部屋から振り落とされるように、そのままペーターの隣に力なく倒れ伏した。
寝台に横たわってからも目眩は長く続いた。ちょうど見境なしに酒を飲んだあとか、酷い船酔いにかかったときのようだ。頭の芯に鈍い痛みがくすぶっているところもよく似ている。吐き気もある。……ただ喉の奥に指を突っこんだところで胃液さえまともに出てこないことは、実際にそうしてみるまでもなくわかる。
「……何してんだよ」
ようやく目眩が治まって顔をあげると、ペーターは何のためか寝台から降りようとしていた。
ふらつきながら立ち上がり、けれどもまともに立つことができずその場に座りこんでしまう。それでも再び立ち上がろうとする彼女に「何してるんだ」ともう一度声をかけた。
返事はなかった。生まれたての仔馬のように立ち上がろうとして立ち上がれない、こちらに背を向けたままそんな弱々しい姿を晒すだけだ。
「……ったく」
悪態をついて俺は寝台を降り、健気に立ち上がろうとする身体を抱えて寝台の上に戻した。途端にまた襲いかかってくる目眩に堪えながら、今度はペーターから目を離さなかった。
案の定、また寝台から降りようとする彼女の腕を掴み、自分の傍に引き寄せた。こちらを見ないままなおも動こうとする身体を抑え、苦しい声で語りかけた。
「動くな……ここにいろ、いいから」
それでもペーターはしばらく寝台から降りようとするのをやめなかったが、そのうち諦めたように動かなくなった。女の子座りで背を小さく丸め、俺に掴まれたままの腕を身体の脇にだらりと垂らして。
そうしてペーターは隣部屋にいたときのように、何もない部屋の闇を眺め始めた。うすく唇を開いた虚ろな表情で、瞬きもせずただぼんやりと。
その顔に浮かぶ憔悴の色は疑いもなかった。死相というものがあるとすれば、自分がいま目にしているのがそれかも知れないと思った。放心した子供のようなあどけない表情がいっそう激しくその印象をかき立てる。
そこでふと寝台の上、彼女のまわりに何か小さな赤いものが散らばっているのに気づいた。――すっかり頭から消えていた、それはナツメヤシの実だった。
「……それ、食べろ」
彼女のまわりの赤い実を指差して言った。だが、反応はなかった。俺の指差す先に目を向けることも……それ以前にこちらを見ることさえしない。
仕方なく俺は寝台の上を這いずって近づき、ナツメヤシの実を拾いあげた。そしてそれをペーターの目の前に突きつけ、もう一度その言葉を口にした。
「ほら、食べろ」
それでもペーターは応えなかった。半開きの唇に実を押しつけてみても、置物にでもなったかのように少しも動かない。
俺は大きく溜息をついてナツメヤシの実を寝台に戻した。それから両手でペーターの頬を挟みこみ、正面から間近にその顔を見据えて言った。
「見えるか?」
「……」
「俺の顔が見えるか? 見えたら返事しろ」
「……」
そこまでしても反応はなかった。虚ろな視線は俺の頭を素通りして、相変わらずどこか別の場所を見ている。
息がかかるほどの距離でその目をじっと見つめながら、しばらくそのままで待った。それでもかなり長い時間があってペーターの唇が動くのを見たとき、内心にほっと安堵を覚えずにはいられなかった。
渇きのためか一言目はなかなか出てこなかった。苦労して言葉を紡ごうとしている彼女を前に、今度こそ落ち着いてその言葉が出てくるのを待った。
「月・赤い・終わり」
「……?」
けれどもその唇からこぼれたのは、よく意味のわからない言葉だった。かすれた声だったが一言ずつはっきりと、発声練習をするときのように正確な滑舌で彼女は告げた。
ただ俺の方では、ペーターが何を言おうとしているのかまるでわからなかった。それきりまた黙ってしまった彼女を促すために、顔を挟む手でその頬を軽く叩いてから尋ねた。
「赤い月?」
「黒い・水・壊れて」
「……何のことだよ」
「あれから・死んで・空が・だから・明日・来ないで」
「……」
いつの間にかペーターの目は真っ直ぐに俺を見ていた。
今朝、この寝台で起き抜けに見つめ合ったときと同じ真摯に光る目で俺を見据え、訴えるように一言一言その不明瞭な言葉を続けた。
俺は俺で必死に頭を回して意味を汲みとろうとしてみたが、その内容は皆目見当がつかなかった。出来の悪い散文詩か、何かの暗号としか思えない。彼女と入れ替わりに何も言えなくなってしまった俺に構わず、ペーターはなおもそのまとまりのない言葉を連ねた。
「早く・窓に・生きて・ください・夜の・歌声が・私は・痛くて」
「……」
「鳥が・先輩の・殺して・あの時・真っ赤な・頭が・早く・早く」
「……」
わけのわからない言葉の羅列をしばらく黙って聞いていた。もうその意味を考えようとは思わなかった。語り続けるペーターの顔はあくまで真摯で、とりあえず最後まで聞いてやろうという気持ちでいた。
だがどれだけ待ってもその独白は終わらず、逆にペーターはいよいよ真剣に支離滅裂な何かを訴え続ける。
「大きな・雨が・冷たい・魚を・食べて・泣きながら・こっちへ・ました」
「……」
「お願い・でした・苦しい・一人で・誰かが・ずっと・私に・もう二度と」
「……」
そうやって聞いているうちに、段々と馬鹿にされているような気分になってくる自分を感じた。真剣なのは表情だけで、わざとこの手の狂態を演じて俺の反応を楽しんでいるのではないかとさえ思い始めた。
……結局、まともに相手をしては駄目なのだと気づいた。思い返せばここへ来てこの方、こいつにこうして振り回されることが俺の中でただひとつの現実だったのだ。
そこで初めて俺はペーターの頬から手を離した。その手首に彼女自身の手がやわらかく添えられているのを振り払い、寝台から一粒のナツメヤシを拾いあげた。そしてなおも意味不明なたわごとを言い連ねようとするペーターの眼前にその実を突きつけて、言った。
「食べろ」
自分でも驚くほどきつい声が出た。その一言にペーターは押し黙り、真摯な表情を崩さずにじっと俺を見つめた。
けれどもその唇は拒絶の意思をあらわすように固く結ばれた。そんな彼女の態度に俺ははっきりと苛立ちを覚え、ナツメヤシの実をその唇に強く押しつけてもう一度その言葉を繰り返した。
「食べろよ、ほら!」
俺の命令にペーターは首を振って拒み、挑むような目でナツメヤシを突きつける俺の手を掴んだ。それで俺は我を忘れ、無理にでも口を開かせようとその顔に手をかけた。
ぱぁん、と乾いた音が響いた。次いで頬に鈍い痛みがさした。
もう一撃を見舞おうとするペーターの腕を掴み、逆に空いている方の手で彼女を打とうと反射的に振りあげた。
だが一瞬恐怖の表情を見せたあと、びくっと身を竦めて目を閉じるペーターの姿に、俺は自分がしようとしたこと――実際にしてしまったことに気づいた。
「……ごめん」
「……」
「何してんだろうな俺、本当に」
「……」
それだけ言ってペーターの腕を掴んでいた手を離した。羞恥と後悔に苛まれる俺を前に、彼女の方からは何の反応もなかった。
さっき一瞬だけ見せた激情はどこかへ消え、ここへ連れてきたときと同じ虚ろな表情に戻ってしまった。声をかけてみても返事はない。その顔が真摯な目で俺を見ることも、唇から謎めいた言葉が紡ぎ出されることもない。
俺が口を閉ざしてしまうと、部屋からは一切の音が消えた。月明かりの寝台に身動きしないペーターは、屋根裏部屋に置き忘れられた古い人形のようだと思った。
気まずい思いはもうなかった。ただそんな彼女に改めて深い脱力を覚えるとともに、どうしてこうなってしまったのかというやるせない気持ちが残った。
しばらくそうしていたあと、もう一度ペーターに向き直った。
生気のないやつれた横顔が虚ろな目でぼんやりと暗闇を見ていた。危険な状態にあることは誰の目にも明らかだと、さっき思ったことを心の中に繰り返した。その肌が青白く見えるのはきっと月明かりのためばかりではない。このまま眠りにつき朝を迎えて、こいつがちゃんと目を開けてくれる保証はどこにもない。
こいつを死なせたくない――胸が締めつけられるように強くそう思った。
こいつを生かすためなら何でもする――思えばそれが今日、手首に今も疼く怪我を負ってまで俺がしようとしたことのすべてだった。
意味不明な言葉に苛立ったことも、思わず手をあげようとしたことも、こいつを失いたくないという一心から出たものだった。そのためにまわりに散らばるナツメヤシの実を彼女に食べさせること……それだけが俺のやりたいことなのだと、長い眠りから覚めたような思いでそう思った。
「……悪かったよ」
「……」
「さっきは俺が悪かった。本当に」
「……」
「けど、それお前に食べてほしいんだ。そう思って置いといたんだ」
「……」
「死にたくないんだろ?」
「……」
「なら食べろよ。そのままだとお前、本当に死ぬぞ」
精一杯の思いをこめてそれだけ言った。説得するというより、ほとんど祈るような気持ちで思いのたけを吐きだした。
その気持ちが通じたのか、そこでペーターはおもむろに顔をこちらに向けた。そして曖昧なとらえどころのない表情のまま「そうだよ?」と呟いた。
「え?」
「しにたくなんてないよ? わたし」
「何言って……」
「そんなのやだよ。ひとりでしぬのなんてこわいよ」
「……」
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