084 水面(7)

「お兄さま……ですか?」


「そうだ。私の手によりお前たちより先に作り出された個体であるから、お前にとっては兄にあたる」


「何を目的とする仕事なのでしょうか?」


「体機能の維持だ。設備のないここでは筋肉の衰えは避けられない。何よりこの生活が長期にわたることになれば関節が固まってしまう。そうさせないための運動をこの身体にさせる、それがこの仕事の目的になる」


「わかりました」


「期間がいつまでになるか、現時点では確定できない。状況によっては彼にすぐもらわねばならない。そのときがこの仕事の終わるとき――彼が我々の手を離れるときだ。……それまで彼の世話をよろしく頼む」


「はい。かしこまりました、お父さま」


 それだけ言うと隊長は周囲に張り巡らされた布をたくしあげ、そのまま宵闇の外に出て行く。残されたウルスラは最初不思議なものを見るような目でまじまじと俺に似た男を見つめ、それからおもむろにその上半身を抱き起こす。背中に回り、まるで二人羽織のようにその両腕を持ち上げる。そうしてゆっくりと、その俺に似た男の腕を曲げたり伸ばしたりし始める。


「……そういうわけで、あたしがお兄さまのお世話を仰せつかりました。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」


「……」


「あ……申し遅れましたが、あたしはウルスラと言います。お父さまにはウルスと呼ばれています」


「……」


「お兄さまのお名前は……聞きそびれてしまいました。ですので、お兄さまと呼ばせていただきますね……お兄さま」


「……」


「……こうしてお兄さまにお会いできたのはすごく嬉しいです。ずっとあたしたちだけだと思ってましたから」


「……」


「……あたしたちっていうのはお父さまと、姉と妹です。姉の名前はベロニカっていって、お父さまはロニカって呼んでます。とても冷静で頭がよくて、頼りになる自慢の姉さんです」


「……」


「妹の名前はクララ。やんちゃで向こう見ずなところがあって、いつも心配の種なんです。でもいざというときは頼りになりますから、やっぱり自慢の妹ですね」


「……」


「……お兄さまにとっては三人とも妹にあたります。三つ子なんです、あたしたち。あたしたち三人で、お父さまのために働いています。あの中にいた頃も、これからもずっと……」


「……」


「……お父さまのお話では、これからお兄さまがずっとあたしたちと一緒にいてくださるわけではないんですね」


「……」


「いつかどこかへ行ってしまわれる……そう思うと寂しいですけど、それまでのお世話は任せてください。こんなあたしですけどよろしくお願いしますね、お兄さま――」


 ぼんやりしたランプの灯りに照らされる天幕の内に、取り留めなく話しかけながらウルスラは丹念に俺に似た男の身体を動かし続ける。やがてその動きが止まり、乖離した時間がその周囲に流れる。


 次にウルスラが動き始めたとき、その傍らにはもう一人のウルスラがいる。そのもう一人のウルスラはさっきと同じように俺に似た男の身体を繰り動かすウルスラを興味津々といった目で眺め、それから男の顔に視線を移して食い入るようにじっと見つめる。


「……これが私たちのお兄さまですか」


「ほら、そんなに顔を近づけない! ちゃんとご挨拶なさい」


「あ、はい。私はクララと申します。以後お見知りおきを、お兄さま」


「わかった、とお兄さまが言ってらっしゃいます」


「わかるんですか? お兄さま眠ってらっしゃるのに」


「わかるんです。あたしはもうこうしてずっと一緒にいますから」


「そうやってお兄さまを動かしていればわかるようになるんですか? ねえ、ウルスお姉さま、それ私にもやらせてもらえませんか?」


「……駄目です」


「え~どうしてですか? 私にもやらせてくださいよ~」


「これはあたしがお父さまから仰せつかった大切な仕事です。だから駄目です」


「ふん、だ。ウルスお姉さまの


で結構です……ほら、そうやって触らない!」


「だって……」


「それよりこんな所で油を売っていていいんですか? 姉さんのお手伝いはどうしたんです?」


「行きたくないなあ……ロニカお姉さまってば、難しいことばかりおっしゃるんですもの」


「クララの聞き方が悪いんです。ちゃんとお話を聞いていれば難しくなんてありません」


「ねえ、ウルスお姉さま。私たちのお兄さまって、なんてお名前なんですか?」


「……ハイジというお名前だそうです」


「ハイジですか。ふうん、ハイジお兄さま……」


「名前をつけなくてもいいと思いますよ。お兄さまは一人きりなんですから」


「あ、そうか……そうですね。お姉さまは二人いるけど、お兄さまはお一人なんだ」


「そういうことです」


「ねえねえ、お兄さまはいつ目をお覚ましになるんですか?」


「……それはあたしにもわかりません」


「だってお喋りできないとつまらないじゃないですか。早く目をお覚ましになればいいのに」


「……」


「そしたら一緒に遊んだり、いっぱいお喋りしたりできるようになりますよ? ウルスお姉さまはそうしたくないんですか?」


「……あたしもそうしたいです」


「だったらすぐ起こしましょう! その方が楽しいに決まってます! ほら、こうして腋の下をくすぐってあげれば――」


「クララ! いい加減にしないとお父さまに言いつけますよ!」


「え~いいじゃないですか……ウルスお姉さまの


 クララはそう言って頬を膨らませるとしばらくでウルスラを見つめ、それから諦めたように天幕をたくしあげて出てゆく。それを見てウルスラが小さく溜息をつき、また俺に似た男の身体を動かし始める。……そこでまた彼女の動きが止まる。


 一頻り時間が早送りされたあと、ウルスラは何事もなかったかのように作業を再開する。だがランプの灯りに照らされるその顔はどこか寂しげな笑顔で、目を閉じたままの男の身体をゆっくりと愛おしむように繰り動かす。


「……明日はいよいよお目覚めですよ、お兄さま」


「……」


「今日、お父さまからお話がありました。決行は明日の夜で、お兄さまはそこでお目覚めになるって」


「……」


「……あんな所に独りぼっちでお目覚めになるなんて寂しいですよね。お父さまも酷いです」


「……」


「掛け合ってみたんですが、お目覚めまでご一緒に、というのは難しいようです。……せめて一言、お兄さまのお声をお聞きしたかった」


「……」


「……お兄さまがお目覚めになる所は、とっても危険な場所なんですよ?」


「……」


「誰も彼も銃器で武装していますし、わずかな水と食べ物のために毎日のように殺し合っています。……そんな所にお兄さまを独りぼっちで置き去りにするだなんて、あたしにはとてもえられません」


「……」


「もしお目覚めの前に誰かに見つかったら……撃たれても目をお覚ましにならないで、そこに誰もいなかったら……」


「……」


「……けど、大丈夫ですね。あたしたちのお兄さまですもの、心配いりませんよね」


「……」


「……それよりもちゃんとお世話できていたのかが心配。お目覚めになったお兄さまが不自由なさらないか……ちゃんとお兄さまのお身体をいたわってこられたのか、それが心配です」


「……」


「……こうしてお兄さまのお世話をするのも、これが最後ですね」


「……」


「……あたしだけのお兄さまは、明日になればもういなくなってしまう。そう思うと堪らなく寂しいです」


「……」


「……けど、お兄さまだっていつまでも眠っていらっしゃるわけにはいきませんよね。お目覚めになる時が来たなら、それはきっとお兄さまにとって素晴らしいことなんですよね」


「……」


「こうやってお兄さまのお世話をすることができて、あたしは幸せでした」


「……」


「よそへ行ってしまわれても、あたしのことちゃんと覚えていてくださいね」


「……」


「それに……これでお別れじゃありませんよね。きっとまたお会いできますよ。そうです、またいつかどこかで――」


 ぴちょん


 そしてまた水滴。波紋に揺らぐ水面みなもと、瞬く間に輪郭を失ってぼんやりした染みと化す映像。やがて波の静まった水面に映し出されたのは、高校の頃の制服を着たカラスだった。


 ――それは今朝、寝覚めの浅い眠りの中に見た映像だった。胸の前に腕を組み、見下すような目をこちらに向けるカラスは今朝の夢に見たそれと何も変わらない。


 ただひとつ、あの夢の中では聞こえなかった声がはっきりと聞こえてくることだけが違う。


「何度でも言いますよ。なぜ台本通りの台詞を喋っている僕が責められなければならないんですか? 台本通りの台詞を喋って責められるのなら、なぜ台本などというものがあるんですか? それとも僕たちがやっているのはですか? この部活はいつからになったんですか?


「僕は台本は拠り所だと信じています。劇を成り立たせる世界を記述する唯一にして絶対の基準です。それがあるから僕たちは自由になれる。世界が事細かに定められているからこそ、その中で自由な演技をすることができる。演劇って本来、そういうものじゃありませんか? 僕の言ってること間違ってますか?


「その基準が揺らいでしまったら、いったいどうすればいいのか僕にはわからない。確かなものだと信じていた世界が手の平を返して、曖昧で混沌としたものに成り代わってしまうことを想像してください。最低限の秩序さえ失われた、何ひとつ信じられるもののない世界です。そんな中でいったい僕は、何をどうやって演じればいいんですか?」


 今朝の夢で思った通り、それはやはり俺たちが高校三年の頃、演出としての俺をこいつが糾弾する構図だった。


 役に入りこんでしまって自由に台詞を語り始めると、それに相対しながら頑なに台本の台詞を守り通そうとするこいつ。


 噛み合わなくなった芝居が空中分解したあとに、きまって持ち上がった不毛そのもののやりとり。あの頃、三日にあげず俺たちの間に繰り返されたたちの悪い挨拶のようなものだ。


 目の前のカラスは俺からの反論を待たず、ただ一方的に非難の言葉を並べ立てる。そんなカラスに対して今朝の夢に感じた友情や、それにまつわる感動といったものは蘇らない。


 だがその一方で、やはりあの夢の中と同じようにそのカラスの糾弾が不快ではなかった。逆にそれが的を射たものである気がして、妙に素直な気持ちでそのカラスの言葉に聞き入った。


「それを受け容れろ、なんて呑気なことが言えるのは、信じていた世界が目の前で歪められるさまをあなたが目の当たりにしていないからです。実際にそれが自分の身に降りかかったら、とても演技をするどころじゃないということがわかっていただけると思います。それはちょうど落ちてくるはずのない空が落ちてくるようなものです。そんな中で平然と演技を続けられる人の、僕は気が知れません。


「たったひとつ確かだと信じていたものが、実はそうではなかったと否定された人間の気持ちがわかりますか? しかも僕はそれをこれっぽっちも認めることができない。僕たちの世界には決して変わらないもの、変えてはならないものが存在するという確信があります。それはあなたに何を言われようとも絶対に覆されるものではありません。


「あなたは世界のルールを曲げ、いびつに歪めていい気になっているのでしょうが、それはあくまであなたに属するあなただけの世界をそうしているに過ぎません。なるほど演劇とはそういったものに成り果てていたのでしょう、。ですが、そのあなたの中で勝手に成長した独りよがりなルールを受け容れろと言われても、僕はそんなのはごめんです。と言うより、はっきり言って


「今期が始まる前、あなたは僕たちがやってきた舞台を子供の思い上がりと呼びましたね。今、その言葉をそっくりそのままあなたにお返ししますよ。あなたがやっていること、やろうとしていることは子供の思い上がり以外の何ものでもない。世界の秩序をぐちゃぐちゃに歪めて、それを強引に僕たちに受け容れさせようとしている。それが子供の思い上がりでなくて何ですか? 僕の言ってること、間違っていますか?


「そんな我が儘で子供じみた妄想が学院に勝つための唯一の方法だなんて、つき合わされる僕たちの身にもなってください。打倒学院が我々の悲願であることを否定する気はありませんが、僕にはあなたがそのためにやっているようにはどうしても思えないんですよ。まして僕たちの演劇を高いレベルに引きあげようとしているとは到底考えられない。だってそうでしょう、あなたは舞台を成功させようとしていない。口ではもっともらしいことを言いながらあなたは、――


 暗転。


 一瞬で映像が掻き消え、目に映っていたものは元の暗闇に戻った。


 そこにはもう何もなかった。色彩も音も、それらを感受していた俺という存在さえもなかった。


 虚空に結ばれたしずくが水面みなもに滴下することも、その水面に減衰しながらどこまでも広がってゆく波紋も――


 ふと頭をあげると、そこにはペーターが立っていた。一糸まとわぬ生白い身体が、闇の中にぼんやりと光って見える。


 その顔に曖昧な笑みを浮かべて、存在しないはずの俺を見つめていた。唇が動いた。そしてゆっくりと言い聞かせるような声で、ペーターは俺に語りかけた。


「ここへ来てはいけません」


「……」


「もうここへ来てはいけませんよ」


 落ち着いた静かな声で、けれどもはっきりとペーターはそう繰り返した。


 俺は言葉を返せなかった……そうするための口はどこにも存在しなかった。


 ペーターはそんな俺の前に屈みこむと、両手でそっと俺の頬に触れた。存在しないはずの俺の頬を、彼女の両手が確かに挟みこんだ。間近に真摯な目で俺を見据え、そうして噛んで含めるように優しく言葉を続けた。


「苦しい思いをさせて本当にごめんなさい。ぜんぶ私が馬鹿なことをしたせいです」


「……」


「助けは呼びました。たぶん、もう少ししたら来てくれると思います」


「……」


「もう少しですから。もう少し我慢すれば、きっと助けが来てくれますから」


「……」


「だから、もうここへ来てはいけません」


「……」


「もう二度とここへ来てはいけません。絶対に来ては駄目です」


「……」


「わかりました? もう絶対にここに来たら駄目ですからね」


「……」


「ですから、これでお別れです。先輩」


「……」


「さようならです、先輩。私もずっとあなたのことが好きでした――」


 言葉を紡ぐのをやめた唇が近づき、存在しない俺の唇に触れた。刹那、暗闇に真っ白な光が広がり、瞬く間にすべてを覆い尽くしていった。


 俺に口づけたままペーターは最後までその光の中にあった。その唇に吸いこまれるように……逆にどこかへ押し戻されるように、もともと存在しなかった俺という存在は、今度こそきれいにその場から消失した――

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