083 水面(6)

「先生はもうお帰りになられたんですか」


「つい先ほど」


「そうですか。お礼の方はどのように?」


「はい、いつもの通りに」


「お帰りになる前に何か言っておられました?」


「特に何も」


「この夜中にとんだご迷惑をかけてしまったですね。明日にでも改めてお詫びに伺わなければ……」


 固く閉ざされた扉の前に立つ二人。脱いだ帽子を手に憂わしげな面持ちでその扉の向こうの様子を窺うオハラさんと、その傍らに指示を待つかのように直立するエツミと呼ばれていた女性。


 長い廊下にぽつぽつとしつらえられた照明は遠く、二人の顔はどちらもその半分が濃い陰になっている。


 そこでふと、俺は彼らの会話が指し示しているものに気づいた。いま目にしているそれがあの夜のこと――庭園で手を撃ち抜かれた俺がペーターの家に運び込まれたあの時のことであるとわかった。


「それで、あの方の具合はどうですか?」


「よくお休みになっていらっしゃいます」


「お嬢様は」


「この中に」


「まさか……同衾どうきんしておられるようなことは」


「いえ、さきほど拝見しましたところ、あのまま椅子に腰かけて付き添っていらっしゃいました」


「……あの方を客間に移しませんと。看病はあたしどもがすればいい」


「私もそうしようと。ですが、お嬢様が」


「……そのままでいいとおっしゃったのですか」


「いえ、と」


「……保護者失格ですね、あたしどもは」


「申し訳ありません」


「ですが、それならば仕方ありませんですね」


「よろしいのですか?」


「お嬢様がそうおっしゃったのなら、何を言っても聞きませんでしょう」


「それはそうですが……」


「あのようにお嬢様が心をお開きになる方は、他にいませんですよ」


「……」


「お嬢様はあの方のことをお慕いしているのだと、あたしはそう思っています」


「はい、私もそのように」


「ですから、今夜はこのままにしておきましょう」


「本当にそれでよろしいのでしょうか?」


「……」


「お嬢様がお慕いしていらっしゃるのなら、なおのこと客間にお連れするべきではないでしょうか」


「そうかも知れません。ですが、ここはあたしに免じて納めていただけませんか」


「……」


「責任はすべてあたしが取ります。ですから、今夜はこのままにしておいてさしあげましょう」


「……そこまでおっしゃるのであれば」


「それからくれぐれも今夜のことは旦那様には内密に」


「はい、それは心得ております――」


 オハラさんは小さく俯き、エツミと呼ばれていた女性は直立のままその動きを止める。絨毯の敷き詰められた薄暗い夜の廊下を、早足に駆け抜けてゆく時間がはっきりと見える。ほどなくして同期があり、等時性を回復した二人はまた扉の前に立ち尽くす。


 細かい雨が窓を濡らしている。梅雨の名残の小糠こぬか雨……音もなくしめやかに降るその夜の雨を、俺はまだ生々しく覚えている気がする。


「お芝居を観ておりました」


「……」


「お嬢様のおやりになるお芝居を観ていたんです。電話に出られなかったのはそのせいでして」


「旦那様のご用件を優先すべきだったのではないでしょうか」


「携帯の電源を切っておりましたのはあたしの不手際です。……あの時間に旦那様のご用があるとは思いませんでしたから」


「旦那様はいたくご立腹のご様子でした」


「申し訳ありません。あなたにもご迷惑をおかけしましたですね」


「私のことは構いません。ただもうひとつ、このところお嬢様のお帰りが遅いことを旦那様は気にかけておいででした」


「それについては……」


「門限を徹底するようにとのことです。これ以上夜遊びが続くならお嬢様のご意志に背いてでも、という御指示をいただきました」


「……夜遊びではありませんのです」


「……」


「遊んでいるわけではないのです、お嬢様は」


「しかし、旦那様におかれましては――」


「あんな一生懸命になっておられるお嬢様を見るのは初めてです。それに水を差すなんてことは、とてもあたしにはできませんです」


「……」


「せめてこの週末までは……日曜日の舞台が終わるまではあの子の好きなように」


「……報告を仰せつかりました」


「え?」


「お嬢様の行状に関して逐一報告するようにと、私がその役目を仰せつかりました」


「……」


「私としましてはそうした形でしか旦那様のお役に立つことができません。本日も先ほど、門限を遅れたことを旦那様に報告いたしました」


「……なぜそれをあたしに」


「口外を禁止する旨の指示を受けてはおりません」


「……」


「それに、私としましてはこうした形でしかお嬢様に報いることができません」


「日曜までです……日曜日の舞台まで」


「……」


「日曜日の舞台が終わるまで、旦那様にどんなお叱りを受けようとも、あたしはあの子の好きなように……やりたいことをやりたいように」


 手にした帽子を強く握りしめるオハラさんを前に、女性は無表情のまま直立の姿勢を崩さない。急速な時の流れと、やがてふたつの時計が同じ時を刻み始めるような時間の同期。そうしてまた彼らが動き始めた夜の廊下には、がたがたと窓を揺さぶる強い風の音が響いている。


 時おり叩きつけるような雨の塊が降ってはやみ、やんでは降る。自分が目にしているそれがあの嵐の夜であることが、今度こそはっきりとわかった。


「今夜、お嬢様はお帰りになられません」


「……」


「どこにおいでかは存じております。そこはお嬢様にとって、この上なく安全な場所です」


「しかし、そのようなことを……」


「旦那様には、ありのままを報告してくれて構わんです」


「……」


「あたしがしでかしたことが、旦那様のご意思に背くものであることはわかっています。覚悟はできています」


「甘やかしすぎなのではないでしょうか」


「……」


「お嬢様が我が儘になられたのは、私たちが甘やかしすぎたせいであると、そのように旦那様は」


「……そうではありませんですよ」


「……」


「あの子がああなってしまったのは、あたしどものせいではありませんです」


「……そうでしょうか」


「かしずくのが定めの使用人があの子にしてあげられることなど、何もありませんです」


「……」


「あたしどもにはあの子を叱ることも、手放しに愛してあげることもできませんです。そうではないでしょうか」


「……はい」


「もしたったひとつできることがあるとすれば、それはあの子のやりたいようにやらせてあげること……その手助けをすることしかないと思うんです」


「……」


「子供を持たないあたしがこんなことを言うのもおかしな話ですが、あの子にとって今が一番大事なときで……ここで無理に縛ってしまうことはあの子の未来を損なうことになる……あたしにはそう思えてならんのです」


「……」


「ともかく、今夜お嬢様はお帰りになられませんです。それがあたしの判断によるものであると、旦那様にはそうお伝えください」


「……わかりました」


「あたしは間違ったことをしてしまったのでしょうかね」


「その質問にはお答えできかねます」


「……そうですか」


「ただ私としましては、お嬢様を思うそのお気持ちが旦那様にご理解いただけることをお祈りするだけです」


「……そうですね。ありがとう」


 ぴちょん


 また一滴のしずくが落ち、映像が揺らいだ。


 その次に浮かびあがってきた光景は何だろう……フェルトを思わせる布で壁と天井が覆われた大きなテントの中のようだ。


 火屋ほやのついたランプに照らされるその天幕の内には、あの時と同じ服を着たウルスラが隊長と向き合っている。二人の足下には毛皮の絨毯が敷かれ――俺によく似た男がその上に横たわっている。

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