082 水面(5)
「具合はどうだい?」
「ああ……悪かねえ」
「嘘お言い。まだ痛いんだろ? 昨日あんなにうなされていたじゃないか」
「……わかってんなら聞くなよ婆さん」
白い部屋だった。窓から射す午後の白い光と、白いシーツに覆われたベッド。
そのベッドの上には白い包帯に全身を包まれたDJがいて、傍らに白髪の老婆が洗面器に酌まれた水に布巾を絞っている。
ぼんやりと壁を眺めるDJの顔には生気が感じられない。老婆の問いかけに皮肉を返す声にも力はなく、俺のよく知るあいつを思えばまるで別人か何かのようだ。
「わかってたって聞くのが年寄りってもんだ。素直に具合が悪いって答えりゃいいんだよ、そういうときにゃ」
「……」
「そんでもまあ、だいぶマシになったのは確かなんだろ。あんたがここに運びこまれてきたときは、いっそ司祭様を呼びにやろうかと思ったくらいだ」
「……そうすりゃよかったじゃねえか」
「やろうとしたさ。そしたらあんたが私の腕を掴んだんじゃないか。その丸太ん棒のような太い腕で、この枯れ枝をだ」
「……」
「そうなりゃとても見捨てられやしないよ。神様はいつも見ていらっしゃるんだ」
「……敬虔なこった」
「その通りさ。あんたは神様を信じていないのかい?」
「……信じるも信じねえも、そんなもんいやしねえよ」
「そうかい、可哀想に」
「……」
「神様が信じられなけりゃ、一日だって生きちゃいけないよ私は」
「……」
「神様を信じてないからって軽蔑なんかしやしないさ。あんたは遠い国から来たわけだし、そこにはそこの考え方があるんだろ」
「……」
「けどまあ、いいもんだよ。神様を信じて、その教えに従って生きてくっていうもんはね」
「……そうかよ」
「困った人を見たら手を差し伸べるってのもその教えのひとつさ。こうしてあんたがあたしに介抱されてんのも、煎じ詰めりゃ神様の恩恵なんだよ」
「……婆さんにはすまねえと思ってるよ」
「いいんだよ、そんなのは。いいかい? ここはあんたの家だ」
「……」
「だからいつまでいてくれたって構やしないんだ。そう思っといとくれ」
「ああ……すまねえな婆さん」
老婆とDJは見つめ合ったまま動きを止める。それからまた同じ、二人の周囲に時間だけが駆け足に流れる。
次に二人が動き始めたとき、DJの身体からは半分の包帯がとれている。布巾を絞る老婆に向けられる血色も見違えるほどで、ただ魂が抜かれたような暗い眼差しだけが、俺のよく知っているDJのそれとは違う。
「おや、ライラックの香りがここまで届く」
「……」
「裏庭のライラックが綺麗な花を咲かせてねえ。匂わないかい?」
「……消毒液の臭いしかしねえよ」
「そうかい。なら、今から一緒に見に行くかい?」
「……気が進まねえな。花瓶に活けて飾ってくれ」
「馬鹿お言いでないよ。ライラックを家ん中、まして病人の部屋になんぞ持ちこめるもんかね」
「……なんでだ?」
「不吉を呼びこむんだよ。だから病人に死ねって言ってんのと同じさ」
「そりゃいい。ぜひ飾ってくれよ」
「そんな罰あたりなことできるもんかね。それにライラックの花は切っちゃならないんだよ。一本でも切っちまうと、残った木は悲しんで次の年に花をつけてくれないって言ってね」
「……面倒臭え花だな」
「またあの連中と会ってたんだね」
「……」
「あんな胡散臭い連中と
「……世界をぶっ壊すための作戦会議ってとこさ」
「また戦争に行くのかい?」
「……」
「こんな酷い目に遭って、それでもまた戦争に行くってのかい?」
「……ああ」
「私にゃわからないね。戦争の何がそんなに楽しいってんだい?」
「……楽しくなんかねえよ」
「だったら、もうおやめ」
「……」
「戦争に行くのはもうおやめ。そんなもんはもう忘れちまえばいいのさ」
「……それができりゃ苦労しねえよ」
「ところであんた女はいるのかい?」
「あ?」
「女はいるか、って聞いてんだよ。国に残してきた」
「……いやしねえよ」
「だったらちょうどいい。私にはあんたとちょうど同じくらいの孫娘がいてね」
「……」
「ちょっと離れた町に稼ぎに出てるんだが、あんたさえその気なら引き合わせてやってもいい」
「なあ婆さん、あんたも知ってんだろ。オレはもう……」
「それがついてないくらい何だってんだい」
「……」
「それがついてなけりゃ女を口説いちゃならないなんて法はないよ」
「……」
「あの子はとにかく背が高い
「……婆さんの孫じゃ知れたもんだろ」
「美人だって評判は山の向こうまで響いてるよ。この町を出て行くときにゃ男どもの涙で川の水かさが増したってね。そいつを引き合わせてやろうってんだからありがたく思いな」
「そりゃ楽しみだ」
「だからもう戦争に行くのはおやめ」
「……」
「戦争に行くのはもうおやめ。人と人とが殺し合うなんてことは、神様が決してお許しにならないよ」
「……すまねえ婆さん。そればっかりは聞けねえ」
「私がこんだけ言ってもかい?」
「……ああ、すまねえ。本当にすまねえな婆さん」
虚ろな目を窓の外に向けてそう答えるDJと、哀れむようにそれを見つめる老婆。静止した二人を残して時だけが流れ、ほどなくしてまた時間軸が重なる。
すっかり包帯の取れたDJが寝台を降り、いかにも旅立ちを思わせる身支度を調え始める。老婆は部屋にひとつだけある扉の前に立ち、そんなDJをただじっと見ている。
「やっぱり行くのかい?」
「……ああ、すまねえな」
「来月には孫娘が帰ってくるんだがね。そこまで待ってはいられないのかい?」
「……言ったろ。今日迎えが来るんだよ」
「待っとくれ、って言やいいじゃないか」
「そういうわけにもいかねえんだ」
「もう一度だけ言うよ。行くのはおやめ」
「……」
「戦争なんかに行くのはおやめ。あんたの面倒くらい私が見てやるから」
「……すまねえな婆さん。そればっかりは聞けねえよ」
「そうかい。じゃあ仕方ないね」
「……」
「そんなら私はあんたの無事を毎日神様に祈るとするよ」
「……婆さんには本当に感謝してるよ。短え間だったが、あんたに拾われてよかった」
「何これが最後みたいなこと言ってんだ。ここがあんたの家だってこと忘れちまったのかい?」
「……そうだったな」
「いつ戻ってきてくれたっていいんだよ。こんな粗末な家でよけりゃね」
「……」
「戦争が終わったらまた戻ってくりゃいい。そしたら今度こそ自慢の孫娘を紹介してやる」
「……」
「そんときまで私が神様に召されずにいりゃの話だがね。孝行したいときに親は亡し……ってのとは違うか」
「……してやりたかったよ」
「ん?」
「孝行ってもんができるなら、オレはそいつを婆さんにしてやりたかった」
「今からでも間に合うさ。戦争が終わっちまってからでも」
「……」
「いつだってこれからだよ。あんたみたいな若いもんは、いつも未来を見ていなけりゃ」
「……」
「おや、誰か来たようだね。ああ、これがあんたのお迎えってやつかい」
「……すまねえな婆さん。こんだけ世話になって、何ひとつ返せなかった」
「よしとくれよ、そんなこれで最後みたいな台詞――」
銃声。
「……すまねえ。本当にすまねえよ婆さん」
扉が閉まる音と共に、ちょうど時が止まったように情景から一切の動きが消えた。くぐもったエンジンの音が遠ざかり、窓から射す午後の光の中にもう動かない老婆の身体だけが残った。
ぴちょん
そこにまた水滴が落ちた。ひとしきり波紋に揺らぎ混沌の模様と化したあと、
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