081 水面(4)
ぴちょん
――闇の中だった。
ついさっきまで周囲に溢れかえっていた光は消え失せ、今はただ漆黒の暗闇だけが見える。それ以外は何もない。
ぴちょん
どこからか水滴の音が聞こえる。
その音に今朝方の夢を思い出して、これはあの夢の続きなのだろうかと思った。だが、いま自分が見ているものが夢ではないことが俺にはわかった。
そう……これは夢ではない。今朝の夢を焼き直したようなこれは、けれども夢とは明らかに違うもので――
ぴちょん
虚空から水滴がしたたり落ち、
その光景に強い既視感を覚えた。……何もかも今朝の夢と一緒だった。暗闇に忽然と現れた水面も、その
それでも、夢ではなかった。これが夢の中でないことは、ベタな試し方をするまでもなく疑いようのないレベルで認識できた。
ぴちょん
ここが夢の中でないことはわかった。だがその一方でここがどこなのか、それが俺にはわからなかった。
ウルスラと出会ったあの歯車だらけの空間とは違う。俺が元いた町――変わり果てて崩壊に向かっているあの世界とも違う気がする。
ぴちょん
どこまでも果てしなく暗闇が広がっている。その暗闇の中に落ちては消える水滴と、弱々しい波紋を伝えてゆく
喉の渇きはもうない。かすかに残っていた空腹も消え、意識は霧が晴れたようにはっきりしている。その意識に、自分が目にしているものが水でないことがわかる。虚空からしたたり落ちるこれは水滴ではなく、波紋に揺らいでいるこれは
ぴちょん
それでも俺は限界を超えていた渇望の記憶をなぞるように水へと向かった。水滴が落ちるのを認め、水面に立つ波紋の源にひとすくいの水を求めて歩いた。
けれども俺がたどり着いたとき、そこにもう波紋はなかった。その波紋を伝える水面もなく、その場所に再び水滴が落ちてくることもない。
ぴちょん
別の場所に水滴が落ち、俺はそちらへと向かった。だがさっきと同じように、俺の到着を待たずに波も水面も消えた。
また別の場所に水滴が落ちて、たどり着く前に何もなくなる。それが虚しいことだとも思わないまま、目隠し鬼をするように俺は闇の中を徘徊し続けた。
ぴちょん
そこでふと、俺は自分の手を見た。それが自分の目に映らないことに気づいて、そこで初めて、俺がここに存在しないことを
この空虚な暗闇の中に、俺という人間はどこにも存在しない。
渇きを覚えなくなったわけがよくわかった。渇きを覚えていた俺はここには存在しないのだから、それを俺が覚えるわけがない。
だがそれならば、今こうしてこの光景を目にし、物思っている俺はいったいどこに存在するのだろう――
ぴちょん
その見えない手をすり抜けて水滴が落ちた。見えない足下に波紋が立ち、水ならぬ
――と、その水面にぼんやりした色が浮かんだ。写し取るまえのマーブリング模様に似たその曖昧な色は、波が減衰するにつれ次第に明瞭な映像に変化してゆく。
朝、夢に見たものと同じだった。あの夢の中に見たものとまったく同じそれを、夢ではないこの暗闇の中に見ていた。
それに疑問を感じることなく俺は、じっと目を凝らして像が結ばれるのを待った。そうするうちに波が消え
知覚と感覚とがその映像とひとつになるのを感じながら、その二人の掛け合いが始まるのを見ていた。
「……ゲリラ部隊?」
「そ、ゲリラ部隊。
「その部隊が独立して、今のヒステリカになったんですか」
「まあそういうことだね。あいつが隊長なんて呼ばれ方されてんのはそういうわけで、コードはコードで別にあるんだよ」
――それはアイネとキリコさんだった。
会話の内容と、最近見かけなくなったアイネの服装から察するに一年前、俺と彼女がヒステリカに入ったばかりの頃だろうか。
交流会館から庭園に向かう道を、まだお互いの表情を窺いながら二人は歩いている。どこかぎこちないアイネの態度と、思えば最初からこうだったキリコさんの余裕とが、そんな俺の推測を裏付けているように見える。
「大学にはもう慣れたかい?」
「まだ全然。シラバスとの睨めっこがようやく終わった、って感じで」
「ああ、あの電話帳ね。最初はみんなあれで手こずるんだ。大学ってとこが、受験の能率主義からかけ離れたものだってことを知らしめようって、そういう意図の現れなんだよあれは」
「そうなんですか?」
「間違いないさ。そうでなけりゃあんな出鱈目にわかりにくいものわざわざ新入生に読ませる連中の気が知れないね」
「……確かに」
「それはそうと、アイネちゃんは何でヒステリカに入ったんだい?」
「え?」
「ほら、劇団ならいっぱいあるじゃないか他にも。文サ連公認のやつだけでひのふのへの。外に手を広げてるとこも含めりゃ足の指使ったって足りやしない」
「……」
「その中でよりによってうちみたいな特殊なとこ選んでくれた理由ってのを、そういや聞いてなかったと思ってね」
「ヒステリカのことは、ずっと前から知ってました。高校に入ったばかりの頃から、そういう劇団があるって」
「へえ、思ったより有名だったんだねうちも」
「それがきっかけでコメディア・デラルテについて勉強して、演劇の歴史の中でその果たしてきた役割みたいなものを知って」
「ふうん」
「それで即興劇に興味持ったんです」
「なるほどね」
「他の劇団にも興味はあったんだけど、ここでしかできないことをやってみたかった、ていうのもあって」
「ふうん……しかし何というか、お手本みたいな回答だね」
「お手本?」
「いや、うちみたいなとこへ入ってくれる奇特な人のための模範解答があるとすりゃ、そんな感じになるのかと思ってさ」
「……」
「ま、そのへんはちょっと聞いてみたかったんだよ。何となく気になる部分があったんでね」
「気になる部分……って何ですか?」
「ああいや、まあこっちの話さ――」
と、そこで唐突に二人は動きを止める。そして静止した二人の周りに時間だけが加速し、目まぐるしい速度で進められてゆくのがわかる。……これとよく似たものを、いつかどこかで見たことがあると思った。だがいつどこで見たのか思い出せないうちに……ちょうどそのときのように止まっていた二人とその周囲とで時の流れがぴったりと同期するのを目にした。
「それで、こないだ言ってた『夜笛』の券はぜんぶさばけたのかい?」
「うん。そんな大した枚数じゃなかったし」
「そうかい。余ってるようなら研究室の連中にでも押しつけようと思ったんだけどね」
「印刷所の方はどうだったの?」
「ああ、やっぱ潰れてたよ。……次のビラはどうしようかねえ。また頭の痛い問題が増えちまったよまったく」
「いつもはどのくらい前から折り込み頼んでるの?」
「決まっちゃいないが、そろそろ始めないと意味がないよ。うちの劇を観に来るやつらなんざ、半分以上があそこの住人なんだし」
「確かに」
「やれやれ、公演が終わったばかりだってのにやることがいっぱいだねえ」
「うん」
「初めてヒステリカの舞台を踏んで、一週間経った感想はどうだい?」
「……」
「そろそろ落ち着いて眺められるようになっただろ。そのへんどうなのさ?」
「……次はもっとうまくやりたい、ってのが正直なところ」
「あはは! ハイジとまるっきり同じ答えだね」
「……」
「けど、そう卑下するもんでもないよ。初めてにしちゃ上出来だったさ、二人とも」
「……」
「本気でそう思ってるよ、あたしは。打ち上げではさんざ厳しいこと言ったけど、あんたたちはよくやってくれたって、
「……うん」
「しかし、あれだね。ようやくわかってきたけど、見た目よりずっと不器用だね、あんたたち」
「……器用に見えた?」
「ん? ああ……というか、ここまで不器用だとは思わなかったってところさ」
「……」
「もちろん、それが悪いとは言わないけどね。ただもう少しどうにかならないもんかねえ、って話さ」
「そんなに不器用?」
「ああ、そりゃもう極めつきだね」
「……」
「間違いなく不器用だよ、あんたもあの子も。だからあたしとしちゃ、袖で指くわえて眺めてるのがもどかしくてしょうがない――」
そこでまた二人は動きを止め、時間軸だけが急速に先へと進められてゆく。二人の表情はどちらも変わらない。無理に感情を抑えるようなアイネの無表情と、いつも通りの笑みを浮かべたキリコさんの余裕顔。
時が流れ、お互いの言葉遣いが変わってもその構図は変わらない。……考えてみれば俺はこの二人が二人だけで話しているところを見たことがなかった。そんな当たり前のことを今さらのように思って、そしてまた二人が濃い緑の中に歩き始めるのを見た。
「まあ昨日の話でだいたいわかったよ。そのペー子ちゃんの『発作』ってのがどんなもんか」
「……」
「誰がどう見たってハイジの気い引いてるだけなんだろうけど、あんたたちの話聞く限りそう単純に片づけていいもんじゃない、ってとこまでは理解できた」
「……うん」
「期待の新人が来てくれたのはいいが、また厄介な事情が加わったもんだねえ。まあそのへん、ヒステリカらしいといえばらしいけどさ」
「……」
「しかしそうなると、大学でたまたま高校時代の先輩と再会して入団を決めたってわけじゃないようだねこれは。相当深い因縁というか、愛憎のもつれみたいなものがあると考えるべきだろ、二人の間に」
「……」
「アイネちゃんも内心複雑じゃないのかい?」
「……何が?」
「そういう要素が入ってきちまったことについてさ」
「新しい仲間が入ってくれたのが嬉しい。わたしが思うのはそれだけ」
「それにしちゃ喋らないじゃないか、あの子と。新しい仲間が入ってくれたのに、そんなんでいいのかい?」
「……」
「虐めようと思って言ってんじゃないよ。あたしはあたしで、昨日アイネちゃんたちに言われたこと真剣に考えてるまでさ」
「……ありがと」
「しかしねえ。あんだけ可愛らしくて一途な子が追っかけてきてるってのに、相変わらずハイジときたら」
「……」
「一番、内心複雑なのはあいつなんだろうね。情報を総合するに」
「……」
「露骨に嫌った態度みせちゃいるが、あたしの目からするとどうも裏返しに見えるんだねこれが」
「……」
「そのへん含めて難しいね。どこかでバランスが崩れること覚悟しとかなくちゃいけない」
「……」
「おや、気い悪くさせちまったかい?」
「……別にそんなことない」
「あたしはアイネちゃんのこと大好きだよ」
「……」
「うまくいけばいいと思ってる。本気でね」
「……」
「けど、ぺー子ちゃんのことも好きになっちまった」
「……」
「因果なもんでねえ、ヒステリカに入ってくれた子はみんな好きになっちまうんだよあたしは」
「……うん」
「やれやれ、そうなるとどうしたもんかね。今後のあたしの身の振りってやつを」
「したいようにすればいいと思う」
「ん?」
「わたしも本気でそう思う。キリコさんのしたいようにすればいいって」
「そっか……まあ、そうだね」
「……」
「気が向いたらそういうのもありってことにしとくよ」
「……」
「それにしてもこの暑さだよ。今年の春は短かったね」
「うん」
「すぐに梅雨が来て、そしたらもう舞台だ」
「うん――」
ぴちょん
不意に水滴が落ちた。
鮮明だった映像は一瞬で大きく揺らぎ、
けれどもそうして再び結ばれた映像は、さっきまで目にしていたそれとはまったく別のものだった。
――それは、DJだった。
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