088 水面(11)

「こんにちは」


 気安い老人の挨拶にうまく返事が返せなかった。今日ここへ来て初めて会ったな人間を前に呆然としている俺に老人は訝しそうな顔をし、それからちらりと空に目をやって「ああ、もうそんな時間か」と小さく呟いた。


「こんばんはにも少し早い気がするが」


「……」


「まあいいだろ。こんばんは」


「……こんばんは」


 そこでようやく言葉が出た。そんな俺に老人はパイプをふかしながらどこか呆れたような薄笑みを浮かべた。


 ……俺としては別にこんにちはとこんばんはの時間的な使い分けに異議を唱えたわけではない。おそらく老人が抱いただろう勘違いを訂正できないまま、俺は何となく老人に近づきその隣に立った。


 それきり老人は喋らなかった。俺が隣に来たことについても何も言わない。


 花と果物を煮詰めたような甘ったるこいパイプの煙が鼻孔をくすぐるのを少し不快に感じながら、そのまま言葉もなく立ち尽くした。……パイプ煙草の煙というのはこんなに甘いものなのかと興味をそそられる思いもあったが、あえてそれについて尋ねようとは思わなかった。


 夕映えの西の空に、景色はそのおぞましいカタストロフを迎えていた。一面の赤でありながらうろこのように分離された無数の色の切片がひとつ、またひとつと剥がれ落ちてゆくのが見える。


 ……この異様な光景を目の当たりにしながら悠然とパイプをふかしていられる老人に疑問を覚えた。半ば反発に近いその疑問に促されて、しばらく続いた沈黙を破る一言を俺は口にした。


「……何をしているんですか?」


「ん? 見ての通りパイプをいているんだが」


「……いいんですか? そんなことしていて」


「いらんお世話だ。何と言われてもやめるつもりはないな。酒が飲めん儂にはこれだけが楽しみなんだ」


「そうじゃありません。そんなこと言いたかったんじゃなくて……」


「ここ以外ではやらん、誰にも迷惑をかけとらんよ。おまえさんも嫌ならよそへ行っとくれ」


 にべもなくそう言って老人は沈黙した。またしても生じた誤解をとく代わりに、俺は心の中で小さく溜息をついた。声をかけ合う程度には親しくなったものの、愛想がなく気むずかしい老人の物腰はいつも通りだ。


 ……そう、老人の態度はいつもと変わらない。こんな非現実的な光景を前にしてなぜそれほどまで平然としていられるのか、それが俺にはわからない。


 そこでふと、俺が目にしているこの光景が老人の目にも見えているのかという疑問につきあたった。


 もしが俺の精神的な異常による、俺の目にだけ見える幻覚のようなものだとしたら、いつも通り悠々とした老人の態度も簡単に説明がつく。


 反射的に浮かんだその疑問を老人にぶつけようとして――言葉につまった。もしが老人の目に見えていないのだとしたら、俺の質問は老人にまったく理解されないばかりか、文字通り気狂いのたわごとと取られかねない……。


「……おかしいとは思わないんですか?」


 それでもしばらくの逡巡のあとに、俺はその質問を口に出した。曖昧にぼやかした質問には違いなかったが、もし老人の目に俺と同じものが見えているのだとしたら、それ相応の答えが返ってくるはずだと思った。


 けれども老人がぶっきらぼうに口にのぼらせたのは「何が?」という返事だった。


 ……その返事で俺には、この光景が俺の目にだけ映る、ある種の精神的な疾患に起因するものなのだとわかった。


「……」


 そうして俺は、自分がここまで思い悩んできたことが根底から覆されたことを思った。


 この景色を含めて俺が目の当たりにしてきた異常の原因は、この世界がおかしくなったのではなく俺自身の頭がおかしくなっただけということのようだ。その発見にどこかほっとするような気持ちを覚え、同時に言いようのない不安が胸にこみあげてくるのを感じた。


 けれどもそんな俺の感慨に構わず、老人はおもむろにパイプを口から離すと西の空を見上げて言った。


「おかしいというのは、この空のことか?」


「……! そうです」


「眼鏡を買い換えようとも思ったんだが、その必要はなかったのか」


「……」


「おかしいにはおかしいが、それほど気にはならなかった」


「……」


「この年になると、眼鏡をかけてもあまりよく見えなくなるもんでな」


「景色だけの話じゃないです」


 とぼけた老人の返事に、思わず語気が強くなった。老人は少し驚いたような顔で俺を一瞥したあと、再び黙ってパイプをふかし始めた。


 それからまたしばらくの沈黙があった。何と言っていいかわからないでいる俺の隣で煙をくゆらせていた老人は、やがて思い出したように「そう言われれば」と呟いた。


「確かに昨日あたりから色々と様子がおかしかったな」


「……」


「今朝は新聞も届かなかった。店に電話したんだが繋がらんし」


「そんな次元の話じゃなくて……」


「なら、どんな次元の話なんだ?」


「……」


 老人の質問に俺は応えることができなかった。


 いくらこの景色を老人が見ていることがわかったとはいえ、世界が崩壊しようとしているなどと口にできるはずもなかった。第一、そんなことを言ったところで信じてもらえないのは目に見えている。


 けれどもそんな俺を見て老人は表情を変えないまま、その驚くべき言葉を口にした。


「この世の終わりが来たとでも言うのかい?」


「……!」


 愕然として老人を見た。気のない素振りで視線を外すと、老人はまた平然とパイプを口に含んだ。ゆっくりと煙草の煙を立ちのぼらせるその横顔を見つめる以外、俺には何もできなかった。


 充分に時間をかけて煙を呑んだあと、やがて老人はおもむろに語り始めた。


「昨日、おまえさんところの爺さんが夢枕に立ったんだよ」


「……」


「あいつを夢に見るのはそれこそ何十年ぶりだが、妙にはっきりした夢だったから起きたあとも覚えてた」


「……」


「夢の中であいつは、孫がそういうようなことを言いに来るがそれは本当のことだからちゃんと相手してやれ、とな」


「……」


「聞き返してもみたがやっぱりそう言うんだ。同じことばかり何回も」


「……」


 皺だらけの顔に懐かしむような表情を浮かべ、どこか嬉しそうにしみじみと老人は語った。俺はただ言葉もなくそんな老人の顔を見つめることしかできなかった。


 老人が思い起こしているだろう爺さんの声も顔も、俺にはもう思い出せなかった。そればかりか自分の祖父であるその人の名前も……そんな人が本当にいたのかということさえ、今の俺には曖昧な靄の中にはっきりと見えない。


「そうか。この世が終わってしまうか」


「……信じるんですか?」


「信じるも信じないも、本当のことなんだろ?」


「……」


「儂くらいの年になるとな、そういうのは割と楽に信じられるようになるもんだ」


「……」


「おまえさんの剣幕からするとは幻でもないようだし、ならどうあれ何か途方もないことが起こっていると信じるしかないだろ」


「……どうしてですか?」


「ん?」


「それで……どうしてそんな平気でいられるんですか?」


「なら逆におまえさんに聞くが、儂はどうすればいいんだね?」


「……」


「どこかへ逃げろというのなら聞かないでもないが、そういうわけでもないのだろう」


「……」


「なら儂は逃げも隠れもせんよ。この世に終わりが来るというなら、大人しくそれにつき合うまでさ」


 そう言って老人は渋く笑って見せた。口元に皺を刻んだその笑顔を、俺はうまく言葉にできない感動をもって眺めた。


 同時に、何だか目から鱗が落ちた気がした。自分は今まで何をくよくよと気に病んでいたのだろうと、わけもなく晴れやかで清々しい気持ちになるのを感じた。


「芝居をやりなおすんだってな」


「え?」


「昨日、嬢ちゃんが訪ねてきたよ。儂のところにこれを持って」


 老人はそう言ってポケットから一枚の紙片を取り出した。それは俺たちが先週の日曜日にやるはずだった舞台のチケット――その日時だけがマジックで書き換えられたものだった。大学で確認した今日の日付を思い出し、その日時が明後日であるとわかる。


 それを認めた瞬間、老人の言葉から受けた感動は消え、代わりに苛立ちとも憤りともつかない負の感情が胸の中を埋め尽くしてゆくのを覚えた。


「……できない」


「ん?」


「明後日にやり直すなんて、絶対に無理です」


「なんでまた?」


「人間が足りないからです。役者はあいつと、あとは俺だけ。二人しかいない」


 感情にまかせてまくし立てた。どう考えても不可能な舞台をペーターがやるとふれてまわっていることが無性に腹立たしかった。


 そんな俺を前に老人は表情を変えなかった。ゆっくりとパイプをくゆらせ、それからまた茫漠とした目で俺を見て言った。


「それでもどうにかなるのがおまえさんたちの芝居じゃないのかい?」


「そうかも知れません。けど、役者だけじゃ演劇にならない。裏方が一人もいなくて、それで舞台なんてできるわけがない」


「まあそうだろうな」


「即興劇だって演劇にはかわりないんです。流動する物語に合わせて照明や効果や、そういうものをちゃんと合わせていかないといけない。むしろ最初から決まってない分、普通の舞台よりずっと難しい」


「ふむ……」


「そうです。他はどうにかなるとしても、うちの舞台にオペレーターだけはどうしても必要なんです。話の流れに合わせて照明を作ってくれる裏方がいないとどうにもならない。それだけは、誰かにやってもらわないと芝居にならないんです」


「なら、儂がやろうか?」


 穏やかな声でぽつりと老人は言った。


 感情にまかせて吐き連ねていた俺はそれで黙り、けれども老人が何を言ったのかわからなかった。


「え?」


「その裏方を儂がやろうか、と言っとるんだ」


「……」


「あそこの機材なら前にことがある。期待通りにというわけにはいかんだろうが、そこそこの照明ならやれんこともない」


「……どうして」


「ん?」


「どうして、貴方がそんなこと」


「観たいからだよ」


「……」


「おまえさんたちがやるその舞台を、儂が観たいからだ」


 そう言って老人はまた口元に笑みを浮かべた。けれども、俺はもうさっきのような感動を覚えなかった。それほど俺にとってその老人の申し出は意外だった。


 またしても言葉が出ないでいる俺を前に、老人はやおら表情を引き締めて言った。


「ただし、ぶっつけ本番だ」


「……」


「何度もリハーサルにつき合うほど暇でもない。儂にしても、この世の終わりが来るなら片をつけておきたいことのひとつやふたつあるんでな」


「……」


「開演の一時間前には入る。機材の調整やら何やらもそれからだ」


「……」


「それでもよけりゃその裏方の役を儂が引き受けるが、どうする?」


「よろしくお願いします!」


 老人に向き直って深く頭を下げた。そうする以外に何も考えられなかった。


 再び頭をあげたとき、老人はさっきの笑顔よりやわらかな、それでいてどこかこちらを挑発するような笑みを浮かべ、ペーターが持ってきたというチケットを俺の方に差し出した。


「なら、このチケットはおまえさんに返すよ」


「え?」


「一緒に芝居をやろうって人間に、こんな紙切れは必要ないからな」


「はい!」


 老人が店の中に消えたあと、小屋に向かおうとして立ち止まり、暮れなずむ通りに佇んで老人から受け取ったチケットを眺めた。


 最初にそれを見せられたとき感じた苛立ちのようなものはもうなかった。とてもまともなものにはならない舞台……それを考えなしにやると宣言したペーターにまだ釈然としない思いはあったが、老人の厚意に対する感謝とその重みとが、俺の心からつまらない感情をきれいに吹き飛ばしてくれた。


 どうあってもその気持ちに応えたいと思った。老人が観たいと言ってくれた俺たちの舞台を、是が非でも明後日あのホールに持っていかなければならない。


 ただその思いで――ふつふつと湧きあがってくる舞台への思いでいっぱいだった。


「あ――」


 そこで初めて、俺はそのチケットにこめられたペーターの意思に気づいた。


 あいつは明後日、あのホールでもう一度ヒステリカの舞台をやろうと言っている。俺たちがやりたくてやれなかったあの舞台を、もう一度あそこでやり直そうと言っている。


 今さらのようにそれに気づき、その舞台にペーターが立ちたがっているという事実を思って――そこでふと、あの夕暮れの廃墟でウルスラが言っていたことを思い出した。


『ハイジさんがまだこの舞台に立ち、演じ続ける気持ちを捨てきれないのであれば。あの方をちゃんとこの舞台に立たせる。それが貴方の新しい役割ということでどうでしょう?』


 そうして俺は、自分がここまで向き合ってきた役に答えが出ようとしていることを知った。


 本来立つはずだった劇の枠組みから疎外され、ウルスラの提案で演じることになった新しい役。彼女とともに奇妙な劇中劇まで演じ、ほとんど無我夢中でやってきた不可思議な演技。


 その演技が今、一度は諦めかけたその本来の目的――ペーターを舞台に立たせるという呪術めいた使命を果たそうとしている。


「……」


 それに続いて思った。俺はこれから何をすべきなのだろう? 今まさに終局に向かおうとするこの舞台において、俺はこれからいったい何をすべきなのだろう? 


 あいつはみずから舞台に立つ意思を見せた。流れてしまった舞台をやり直そうと、このチケットではっきりと俺に伝えた。……俺にできるのはそれに乗ることだけか? あいつの敷いてくれたレールに乗って、ただそこにたどり着くことを待てばいいのか?


「……」


 違う――確信をもってそう思った。


 あいつは舞台に立つ意思を見せた。ならば俺は


 何としてもあいつを捜し出して、そして今度こそ一緒の舞台に立とうと、俺が自分の言葉で


「……っ!」


 そう思って俺は黄昏の町に駆け出した。


 乾いた血でごわついたジーンズも汗まみれのシャツも、もう気にならなかった。今にも落ちてきそうな空も死を迎えようとする太陽の赤も。コラージュの町に巨大な羽を広げようとする烏も。


 その町のどこかで俺を見ているに違いない拒絶と悲しみに凝り固まったふたつの目も。


 もう迷いはなかった。俺がここでなすべきことは、もうそれ以外になかった。


 蒸し暑い夏の夜の町――いつ崩れ落ちるとも知れない町。その町を当て所なく走る俺の耳に、いつからだろう、どこか遠くの方からかすかな祭囃子の音が聞こえ始めた。

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