089 消えかけた光の中で(1)
「はあ、はあ、はあ……」
薄暮れの町に風はなかった。落日を見送り、夜に向かおうとする場末の通りには、じっとりと肌に纏わりつく暑気がたゆたっていた。
その暑気を掻き分け、全身に流れる汗をそのままに俺はひた走った。
元より行く宛てなどなかった。どこへ向かっているかもわからずに走り続け、そのうちに自分がどこをどう走っているのか、それさえもわからなくなった。
「くっ……はあ。はあ、はあ……」
その間、祭囃子はずっと途絶えることなく響いていた。走り続ける俺の耳にその調べは次第に大きくなってゆき、やがてどこから聞こえてくるものなのかその場所がはっきりとわかるまでになった。
表通りを折れ、アーケードの商店街に差しかかったところで、ふと強い既視感を覚えた。
どの店のシャッターも閉ざされ、すべての照明が落ちた半透明のドームの下。がらんどうのそこに反響する自分の靴音を聞きながら、俺はこの場所を過去に訪れたことがあると思った。
そう、いつか確かに俺はここに来たことがある。――いや、間違いなくこの夜に、ちょうど今の俺と同じような成り行きで迷いこんだことがある。
そうしてすぐ、俺はその夜のことを思い出した。
それは忘れもしない高校二年の夏、演劇コンクールの地区予選で負けた失意のうちに一人町を彷徨ったときのことだった。
ぐちゃぐちゃの頭を抱え、夕暮れの町を闇雲に歩き続けていた俺の耳に届いた遠い祭囃子の音。その音に引き寄せられ迷いこんだ裏通りの芝居小屋で俺は、まったくの偶然に、人目を避けるようにして催されていたヒステリカの舞台に出会ったのだ。
今、自分がいるのは確かにそこだと思った。間違いなくその三年前の夜に今、自分はいるのだと思った。
何の疑問なくそう信じられるほど目に映るもの、耳に届く音すべてがそのときと同じだった。宵初めの熱を孕んだ空気の匂いも、薄汚れたかさの下に蛾の群れが飛び交う今にもきれてしまいそうな電灯の光も。
そこでふと、自分を取り巻く世界がさっきまでとはまったく別のものになっていることに気づいた。
そこはもう現実から乖離したもどきの町ではなかった。目に映る情景、鼓膜に届く音、風の止まった夏の夜の大気――そのひとつひとつをあの夜とまったく同じように俺は感じていた。揺らぐことのない現実の世界の一部としてその感覚を受け容れ、逆にその世界の一部として受け容れられている自分をはっきりと感じることができた。
ここまで抑圧されてきた反動のためだろうか、その感覚は三年前のあの夜よりも強いほどだった。いや……確かにあのときより生々しく、妖しいまでの情念があとからあとから湧きあがってくるのを覚えた。
荒い息の合間に感嘆の呻きをもらさずにはいられないほどの、それは圧倒的な現実感だった。その感覚に抗う
「はあ、はあ、はあ……」
この角を曲がれば祭囃子の元に出る――進むごとに確かなものとなっていった記憶の行き着く先、その寸前で俺は足を止めた。
笛の
それを確かめようとして……だがなぜかそうするのを止めた。静まらない息の下で自分がなぜ踏みとどまったのか考え、ほどなくしてその理由に思い当たった。
そうして俺はその角を曲がることなく元の路地裏に引き返した。
これがあの夜と同じなら、自分の向かうべき先はあの縁日の通りではないと思った。楽しげな笑顔と浮かれ声のひしめくその人混みの中にペーターはいない……何の根拠もなく、だが確信を持ってそう思った。
そう、もしこの夜に彼女がいるのだとしたら、その場所はたぶんあそこしかない――
縁日の賑わいから離れた裏通りの奥。電柱にかけられた粗末な段ボールの吊り看板が案内する先に、その芝居小屋はひっそりと俺を待ち受けていた。
中からの光がわずかに洩れる建てつけの悪い扉はあの夜と何も変わらない。色とりどりのビラが鈴なりになった古いフェルト張りの掲示板と、入口とは別の場所を虚ろに照らす大振りの野外電灯。
……何もかもがあの夜と同じだった。
記憶の底に眠っていた三年前の夜と寸分違わない情景を目の前にして、けれども俺の中にそのことを訝しむ気持ちはまったく湧きあがってはこない。
ただあの夜と同じ、得体の知れない場所に迷いこんでしまったという感覚だけがあった。
この扉の向こうに何が待っているのか、今の俺にはそれがわかっている。それでも三年前のあの夜、この扉を前に感じた胸騒ぎは少しの衰えもなく俺の中に蘇っていた。
――そこにもうひとつ、俺がこの夜に捜し求めるあいつが何らかの形でその舞台に絡んでいるに違いないという思いが重なるのを感じた。
そのふたつの思いに衝き動かされて、ずっと走ってきた酸欠のためかわずかに震える指先で、あの夜に倣ってそっと音を立てないようにその小屋の中へと続く扉のノブを回した。
「……」
そこには誰もいなかった。
狭いホールの床に箱馬を並べただけの客席。ホリゾントがぼんやり浮かびあがる舞台にはあのときの舞台装置――空き缶用のゴミ箱と自動販売機が記憶の中にあるそのままに据え置かれている。
だが、そこには誰もいなかった。舞台にも客席にも、三年前のあの夜にこの場所で芝居を共有していたはずの人々の姿が、そこにはなかった。
自分の目にしているものが信じられない気持ちで、しばらく呆然と立ち尽くした。
そんなはずはないと思った。これが三年前のあの夜だとしたら、彼らはここにいなければならない。現に客席はこうして
けれどもその客席にはやはり一人の観客もいない。どれだけじっと眺めていても、舞台の上にあのときの役者たちが姿を見せることはない。
「……」
誰もいない舞台にあの夜の芝居を思い描いた。キリコさんと隊長、それから俺の知らないもう一人の男が演じていた、まだ即興劇団になる前だったというヒステリカの劇。
照明の変化も場面転換もなく、その三人が延々掛け合いを行うだけの単調な劇。まるで噛み合わないその掛け合いの中に不条理な観念だけがどこまでも広がってゆく――狐につままれたような思いでのめりこんだ一夜限りの劇。
三年の歳月を経た今も、その芝居の精細をありありと思い出すことができる。飛び交う台詞はもちろん、それを口にするキリコさんたちの表情に至るまで。
……そう、俺にとってあれはただの芝居ではなかった。あの夜、思いがけず迷いこんだこの小屋であの芝居を観ることがなければ、高校を卒業した俺がヒステリカに入ることはなかった。
そればかりか最後の大会――俺が演出をつとめた高校最後の演劇コンクールに向けての噛むような日々と、その結果として悲願だったアイネたちの演劇部に勝つという目的の達成は、間違いなくありえなかった――
「……っ!」
不意に俺の中で何かが弾け、思わずシャツの胸元を掴んだ。
三年前のあの夜、この場所で偶然出会った舞台に触発されて挑んだ高校最後の演劇大会。ペーターを軸に据えてカラスたちとの
「う……うう」
その激しい意識の流れに、ただ呻くことしかできなかった。正確には俺の中で意識は流れてさえいなかった。
決意をもって臨んだ演出就任の挨拶。すぐに持ち上がった対立と苛立ちの日々。辛苦の果てにもたらされた勝利と、思い描いていたものとはまったく違った曖昧で虚ろな歓喜……そのひとつひとつの場面と感情とがぐちゃぐちゃに混ざり合い、複数の映像が同じ画面で同時に再生されるような、それでいてそのすべてが生々しく観照できるような――感情という言葉を超えた別の何かとなって俺の頭を、心を、存在そのものを激しく揺さぶった。
シャツの胸を掴んだ手をそのままにしばらく息をつくこともできなかった。だがそうして必死に
あの一年間に向き合ってきた無数の場面、その時々に感じてきた幾つもの思い……そのすべてが溶け合って出来あがったその感情は、大きく深い海のような憧憬だった。
ただひたすら演劇に懸けた高校最後の一年間、もう二度と戻れないその日々を懐かしく思う気持ち――混じりけのないその思いだけが、穏やかに暖かく、包みこむように俺の心を充たしていった。
やがてその憧憬が容易には逃れがたいほどに深く、俺という存在の隅々に至るまでその根を張り巡らせたのを感じた。
――そうして俺は、自分がまったく無警戒のままその罠に足を踏み入れていたことに気づいた。
逃れがたいのではない、逃れられなかった。二度と戻れないあの一年間をもう一度繰り返したいという思い――さっきまで感じていた無数の感情の氾濫の、そのすべてを合わせたよりも遙かに大きなひとつの思いの中に、気がつけば俺は完全に囚われ、そこからどこへも逃れることができなくなっていた。
全身を包むその大きな感覚の中に身動きひとつできなかった。
頬を伝っている熱いものは汗か……それとも別の何かだろうか。苦しくはなかった。その感覚は暖かで心地よく、この状態がどれだけ長く続いても構わないと思った。
……いや、むしろこの状態にずっとあり続けたいとすら思った。もう戻れないあの日々を思い、そこに戻ることを願いながらずっとこのままこの憧憬の中に溺れていたい。そんな思いの中に身体が震え始めるのを感じながら――そこで初めて、俺はその事実に気づいた。
「……」
その願いが不可能ではなく、実現可能なものであることに気づいた。俺がそう願いさえすればそれは間違いなく実現される――そのことをはっきりと理解した。
そう……それは荒唐無稽な絵空事ではなかった。この憧憬の彼方にあるかけがえのない日々を、俺は現実にもう一度繰り返すことができる。俺がそう願えば。今ここで俺が心の底からそう願いさえすれば。
――そんなことを耳元でそっと囁く声ならぬ声があった。その声が誰のものであるか、それは考えるまでもなかった。
心を引き裂かれるほどの誘惑だった。その誘惑に流されないように、俺は自分の前にある目に見えない何かに渾身の力でしがみついた。
……そんなことのためにここに来たわけではない、俺がここに来たのはあの日々に戻るためなんかではない。
必死になって自分自身に呼びかけた、だが圧倒的な情動の前にそんな小さな声は何の意味も持たなかった。何に抗っているかもわからないまま抗い続け、遂に抗しきれず見えない何かから手を離しかけたとき――
頭の片隅にふっと、あの日々に戻った俺はいったい何をするのだろうという疑問が浮かんだ。
『あの日々をもう一度やり直せるとしても俺はきっと同じことをする』
そう思った瞬間、俺をどこかへ連れて行こうとしていたその憧憬は消失した。
まるでそんな思いなど最初からなかったように、かけらも残さずきれいに俺の中から消えてしまった。
顔をあげた。舞台に照明はなかった。周囲を見まわした。箱馬を並べただけの客席にはさっきまでと同じく、ただ鈍い熱を孕んだ青い闇だけがあった。
「……」
開け放たれた扉からは路地の薄明かりがぼんやりと洩れこんでいた。
その薄明かりの中にもう一度周囲を見まわした。そこには何もなかった。それからまた舞台を見た。やはり何もなかった。静寂に充たされた無人の芝居小屋に、三年前のあの夜は、もうどこにもなかった。
ここにペーターはいなかった。それだけ確認して、俺はその小屋を出た。
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