237 すべてが終わったあとに(11)
そんなキリコさんの台詞にふと、またあの夜のことが脳裏に甦った。……現実とも夢想ともつかない劇のあとにキリコさんとぶつかり合い、やがて分かり合えたあの嵐の夜。
自暴自棄になり、嵐の中へ一人出てゆこうとしたキリコさんを部屋の中へ引き戻した俺は乱暴に彼女の身体を組み伏せ、我に返り一頻りその胸で泣いたあと、いま彼女が口にしたのとそっくりの想いを
あの夜の裏返しだと思った。俺たちは今、あの夜を裏返した関係の中にお互いの姿を見ている……。
「……嫌かい?」
「嫌じゃないです。けど――」
「けど?」
「俺はまだ、契約の義務を果たしてない」
咄嗟に口を衝いて出た一言だった。だが口に出してはじめて、それが自分の掛け値なしの本音なのだとわかった。
すべてが終わったあとに二人が無事だったら――これはそういう契約だったはずだ。だとすれば、俺はまだ契約の義務を果たし終えていない。逆にここでキリコさんを抱いてしまえば、俺自身、すべてが終わったのだと自分でそれを認めることになる――
「義務? 義務ならハイジは立派に果たしてくれたじゃないか」
けれどもそんな俺の思いをよそに、キリコさんはまたひとつそっと触れるだけのキスをしたあと、俺の耳元で囁くように言った。
「あたしのために何度も身体張って……そのたびにあたしがどんな思いであんたを見ていたかわかるかい? 自分から言い出したことなのに、あたしはもう申し訳ないやら苦しいやらで……」
「……」
「こんな形になっちまったけど、ハイジがそう望むならあたしは、あたしをぜんぶハイジにあげたいのさ。あたしにはもう女としての自分しかハイジに差し出せるものはないんだ」
『――壊れてもいい』
キリコさんの最後の言葉に、あのときの自分の言葉が重なった。
……やはりそうだ。あのとき、ヒステリカが壊れてもいいと俺が無意識に返していたように、キリコさんは今、これでもうすべてを終わりにしていいと思っている。本能の求めるところに従ってか、あるいは不安を紛らわせるためか、刹那的な行為に身を沈め、ここで朽ち果てる運命を甘受しようと俺に提案している。
だが俺は、その提案に乗ることはできない。
あの夜、キリコさんが俺の求めをやわらかく拒んであの屋上へと
『可能性は高くないものと思われますがL305室で
「あ――」
そのとき、俺はようやくベロニカの言葉を思い出した。
コーヒーカップのようにくるくると回る歯車の上で彼女から託された預言めいた言葉……崩潰だの何だのと妙に物騒だったあの言葉が、このときのことを言っていたのだということが、今はっきりとわかった。
L102室付近の暗証番号が82062、L773室のデスクには青酸の結晶……不思議な話だが、その言葉のひとつひとつを俺はまだはっきりと覚えている。ただ破滅までの時計を早める手段や姑息的な延命に関する情報は引き出しても意味がない。
あのときベロニカがくれたものの中でただひとつ、ここで思い出す価値を持つ情報があるとすればそれは――
「……どうしたんだい?」
「キリコさん、ひとつ聞きたいんですけど」
「え?」
「ここって何号室ですか?」
「何号室? ああ……R107室だけど、どうしてそんなこと聞くんだい?」
「L305室に地上への抜け道があるって聞いてたんで」
「……そんなの誰から聞いたんだい?」
「あの『歯車の館』で会った隊長――じゃなくて、ジャック博士の関係者から」
「ああ……そういやそんなことも言ってたね。残念だけど違うよ。L305室はマリオの部屋だ」
「え? ああ……そうなんですか」
「地上への抜け道ねえ。いかにもマリオのやりそうなこった。それなら、ちょっと見てみるかい?」
キリコさんがそう言うや、闇の中にぱっと
ペンライトの光に照らし出される部屋の中は滅茶苦茶だった。壁に並んでいた計器は軒並み倒壊し、壁にも盛大な亀裂が入っている。それでも部屋自体は奇跡的に原型を保っていた。
キリコさんのあとについて廊下に出た。部屋に飛び込む直前の光景から予想はしていたのだが、廊下は部屋の中に輪をかけて惨憺たる有様だった。部屋の前の天井だけはかろうじて残っているものの、どちらを向いても瓦礫の山で、人が通れるほどの隙間はなさそうに見える。
そんな廊下の様子をしばらく眺めていたあと、キリコさんは無言で部屋の中に戻った。俺もそのあとに続く。床に転がる雑多なものを踏み分けてカーテンを引き開けると、その先にはベッドが無事に残っていた。シーツの埃を払って敷き直し、キリコさんはそのベッドに腰かける。一瞬、躊躇ったあと、俺もその隣に座った。
キリコさんがペンライトを消すと、周囲はまた完全な闇に戻った。
「完全に潰れちゃいないようだが、あいつの部屋まで行くのは難しそうだ」
「……そうですね」
「ただ、一年かそこらは
「何がですか?」
「あたしたちだよ」
「俺たち……?」
「こんなこともあろうかと水と食糧はしこたま備蓄してあるんだよ。だからあとは酸素がいつまで続くかって話だ」
「……」
「通路が完全に塞がっちまってりゃ酸素なんてあっという間になくなっちまう。けどあれだけすかすかなら、あたしたち二人がしばらく生きてくのに支障はないはずだ」
「なるほど」
「こりゃさっきのディスカッションであたしが開示した意見を訂正する必要が出てきたね」
「え?」
「あたしたちがこれからやるのが疑義のない『普通のセックス』になるかも知れないってことさ」
「……どういうことですか?」
「子供産んで育てられるかも知れないってことだよ。ここで」
何でもないことのようにそう言うキリコさんに、俺はまたしても愕然とした。
だが少し考えてみると、それは十分に起こり得る未来――と言うより、考慮に入れておかなければならない要素だった。それ以外することがないここでキリコさんと年単位で暮らしていれば、俺たちの間に子供ができてしまう可能性は、おそらく決して低くない。
「……けど、それって問題じゃないですか?」
「問題だね。妊娠、出産、子育て……どれとってみてもリスクしか見当たらないよ」
「だったら……」
「けど、あたしはハイジとの子供だったら産みたい」
「……」
「ここまでの人生、女らしいこと何ひとつできてないからねえ。ぜんぶやって、悔いのないように死んでいきたいってのもあるのかも知れない」
暗闇の中にそう言うキリコさんの声はどこか嬉しそうに華やいでいた。まるでこちらに向けられるはにかんだ笑顔が見えるようだ。
彼女が語る未来予想図に、俺は文字通り戦慄を覚えた。この人は恐怖のあまり頭がおかしくなってしまったのではないかと一瞬、真剣にそう考え――だが同時に浮かんできたもうひとつの考えにそれは掻き消された。
あのときキリコさんが俺に銃を向けたわけがわかった。俺が彼女の中に感じている狂気……それはおそらくあの別れ際にキリコさんが俺に銃を向けたとき、彼女が俺の中に感じていたであろう狂気と同種のものだ。
あのとき俺は行く先の見えない状況にあってせめて前向きな道を模索しようとし、けれどもそんな俺はキリコさんの目に異常なものに映った。彼女は俺をからかっているわけでも、気が触れてしまったわけでもない。いまキリコさんが俺に差し出して見せたその未来は、あまりにも悲観的なこの状況にあって彼女が俺に提示できる最大限に楽観的な未来なのだ。
そんなキリコさんの心を俺は理解した……戦慄とともに理解した。確かにそれは現状考え得る最も前向きな未来予想図なのかも知れない。けれどもそれは――
「……なんか、ゴミ袋の中の蠅みたいですね」
「え?」
「キリコさんたちがやってた劇に出てきたんですよ」
「あたしたちがやってた劇?」
「あっちのキリコさんたちがやってた」
「……ああ、あっちの」
「ゴミ収集用のポリ袋に生ゴミと一緒に閉じこめられた蠅たちは、やがて焼き尽くされる運命も知らずにその中で繁殖して増える……って」
「ふうん、なかなか興味深いモチーフじゃないか。……けどそんなら、この星に生きてるやつはみんなそうなんじゃないかい?」
どこか
「ハイジも知ってるだろ。いずれこの星は膨張した太陽に呑みこまれて蒸発しちまうんだよ。あたしたちがその蠅なら、この星に生けとし生けるものはみんなポリ袋の中の蠅だ。その運命を知らずに、あるいは知りながら目つぶって、飯食ってセックスして子供産んで……みんなそんなもんさ」
そう――そんな筋の劇だった。キリコさんがいま語ったのとほとんど同じ内容の台詞を、あの劇の中で隊長が口にしていたのだ。
「あたしは蠅で構わないよ」
「……」
「これでさっきの話に繋がったじゃないか。幸いあたしたちの入ってる袋はゴミ収集車の回収にあぶれたようだ。すぐに焼かれることはない。だったら難しいこと何も考えないで、二匹の蠅みたいにここで生きてゆくのはどうだい?」
俺の肩にキリコさんが頭をのせるのがわかった。……もう彼女は俺に迫らない。彼女の方からキスをしてくることもない。
『けど、もうあたしから迫るようなことはしないから。もしその気なら、今度はちゃんとハイジの方から、ね』
……なるほど最後はここに繋がるのか、と奇妙な感動に打たれながら、それもいいのかも知れないと俺は思った。彼女の言う通りもう何も考えず、ここで死ぬまでの日々を送るのもいいのかも知れない。ポリ袋の中で生殖に励む知性のない虫けらのように――この星に生けとし生けるものすべてがそうであるように。
ただやはり俺の中には何かが引っかかっていた。
ベロニカのくれた情報がこことは別の部屋に関するものであることはわかった。そこへ辿り着くことが物理的に困難であること、それも理解できた。けれども、ならもうこれですべてが終わったか……という自問に対して、俺は素直にイエスの返事を返せない。
すべて終わったと断言してしまう前に、俺にはまだやるべきことがある。俺にできること――いや、俺にしかできないことが。だが、それは何か――
『蠅たちにできることはなんでしょう? 答えはひとつ、どうにかしてポリ袋を食い破ることです。もちろん蠅にはその能力がない。だからそこに進化が必要なのです――』
「あ――」
そこで、ようやく俺の中ですべての糸が繋がった。
もしこの劇があの舞台前の一週間をなぞらえたものであるなら――そしてさっきのキリコさんの提案がそのプロットに沿ったものであるなら、あの隊長の台詞が何の意味もなく吐き出されたものであるはずがない。
ポリ袋に入れられた蠅たちが為すべきことは焼却炉で燃やされるまでの束の間の生命を謳歌することではない。蠅たちはポリ袋を食い破って外へ出なければならない。必ずしも安全とは言いきれない、だが確実に滅びの未来が待つポリ袋の中ではない、外へ。けれども蠅たちにはポリ袋を食い破る能力がない。だから蠅たちは進化しなければならない。だが、どうやってその進化を――
「……そっか」
そこで唐突に結論は出た。そのための進化を俺はもう終えていたのだ。そのことに気づいて、俺は暗闇の中、キリコさんに向き直った。
「――キリコさん」
「なんだい?」
「少しだけ芝居につきあってもらえませんか」
「芝居?」
「演劇です。簡単な即興劇」
「いいけど、なんでまた――」
「キリコさん、さっきこの部屋がRなんとか室だって言いましたよね」
「ああ、言ったけど……」
「それってL305室の間違いだった、ってことありませんか?」
「え? だから言ったじゃないか。L305室はマリオの――」
「マリオ博士の部屋を、キリコさんが自分の部屋と間違えた可能性ですよ」
「あたしがかい? さすがにそれはいくらなんでも……」
「あのとき、すごく取り乱してたじゃないですか」
「……」
「あそこで俺と別れたとき、キリコさんすごく取り乱してました。そうですよね?」
「……ああ、そうだよ」
「そのうえ俺と
「確かにね。ないとは言いきれない」
「だったらこの部屋がL305室である可能性はゼロではないと思うんですよ」
「そりゃまあ、どんな可能性だってゼロじゃない」
「そういうことならとりあえずガスペルト計数管ってのがどこにあるか教えてくれませんか? その右にあるチャンバーの裏に銅板があって、それを取り除けるとハッチがあるはずなんです」
ペンライトが点いて、小さな照明の中に訝しむようなキリコさんの顔が浮かんだ。
そんな彼女の表情を受け止めながら、俺はどこから飛び出してきたのかわからないこの即興劇の成功を確信していた。
中心のダイヤルを時計回りに半周、反時計回りに四半周、再び時計回りに一周。それでハッチは開く――
か細い明かりを頼りにキリコさんのあとについて歩く間、船の甲板にあるようなステレオタイプな形のハッチをイメージしながら、俺はただ頭の中にそのハッチの開け方だけを何度も繰り返していた。
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