238 すべてが終わったあとに(12)

「……っせーの!」


 ――三度目の挑戦でようやく岩が動いた。


 結局、ところは見せられずキリコさんとの協同作業になったが、二人分の力をもってしてもその岩を押し退けるには渾身の力を振り絞らなければならなかった。だからようやく地上に立った俺が感じたのは歓喜ではなく、もうこれ以上は動けないという全身の筋肉の悲鳴だった。


 けれども溜息をついて頭をあげ、周囲を見渡したところで――予想もしなかったその光景に俺は息を飲んだ。


「うわ……」


 思わず感嘆の声がもれた。


 そこは確かに地上だった。さやかな月明かりの下にどこまでも続く荒野――ただ違うのは、その荒野がうっすらとした緑に覆われていることだった。丈の短い草か、あるいは苔のようなものなのか……荒涼とした砂漠に瑞々しい緑が萌えで、そしてその上には妖精のように無数の羽虫が飛び交っているのだった。


「――雨が降ったからだよ」


「え?」


「砂漠に棲む生き物はね、大地が乾いてるときはひたすら耐え忍んで、たまに雨が降るとこうやって一斉に咲き乱れるんだ」


 俺の後ろから隣へと進み出ながら、キリコさんはいかにも学者めかした調子で目の前の情景について解説した。……だが何だろう、台詞が棒読みに近い感じで、いつものようなキレがない。不思議に思って見つめていると、キリコさんは一瞬こちらに目を向け、けれどもすぐ恥ずかしそうに視線を逸らしてわざとらしくひとつ咳払いをした。


「……さすがにきまりが悪いね」


「え?」


「子供つくるだの何だのと……ああもう恥ずかしいったらありゃしない!」


 そう言ってキリコさんは乱暴に髪を掻きむしった。そんな彼女の様子に俺は思わず吹き出してしまった。


「……何がおかしいんだい」


「いや、俺の知ってるキリコさんは元々そんなことばっか言ってる人なんで」


「あっちのあたしがかい?」


「どっちもです」


 俺の返答にキリコさんは不満げに鼻を鳴らし、それからまたこちらに目を向けた。そうしてどこか呆れたような表情で感にえたように「あんたには参ったよ」と呟いた。


「火事場の何とやらとは言え、空間までねじ曲げちまうとはね。古典力学の大枠からして見直す必要がありそうだよ」


「トンネル効果ってやつじゃないですか?」


「……それ間違っても物理屋の前で口にするんじゃないよ。だと思われちまうから」


「冗談ですって。知ってますよトンネル効果くらい」


「まあいずれにしても今後の自然科学においてあんたの能力自体がひとつの学問のテーマになりそうだってのは間違いない。こりゃ今のうちにツバつけといた方がいいかも知れないね」


「キリコさんのツバならもう俺の口のまわりにたっぷりとついてますけど?」


 高揚もあってか、彼女のお株を奪うようなあけすけな言葉が口を衝いて出た。もっとも、暗闇の中で交わした濃厚なキスの余韻はまだ唇に残っていたから、まったくの戯言ざれごとだったわけでもない。その証拠にキリコさんは少し驚いた目で俺を見たあと、「言うようになったじゃないか」と呟いてまたそっぽを向いた。俺は緑とその上に舞い遊ぶ羽虫の群れに目を戻し、それからまた空を見上げた。


 夜空には、月が煌々と輝いていた。……あの夜もちょうどこんな月をキリコさんと見ていた。そのことを、俺は思い出した。


「満月――とは違うか」


十六夜いざよいだね」


「……」


「満月は昨日だよ。雨が降ってたからわからなかった」


「月に叢雲むらくもってやつですね」


「おや、なかなか古風な格言を持ち出してくるじゃないか。意外に学があるね」


「……前から思ってたんですけどキリコさん、ひょっとして俺のこと頭悪いとか思ってます?」


「あはは、そんなこと思ってやしないよ。机上きじょうの学問だけが頭の良し悪しを決めるわけじゃないし」


「いや、俺は机上の学問もそれなりに……まあいいですけど」


 釈然としないものを感じながらもう一度、月を見上げた。限りなく満月に近い――だが決して満月ではない月。あの夜の屋上でキリコさんに対していだいた想いが甦ってくる。


 俺たちは、きっと満月のようにぴたりとひとつにはなれない。


 ときにぶつかり合って、深刻に擦れ違って、何もかも忘れてひとつになろうと願っても、やはりひとつにはなれない。


 いずれ身体を合わせて、これまでとは違う特別な絆を結ぶ日が来ても、きっと満月のように満ち足りることはない。


 俺とこの人は、結局そういう運命なのかも知れない。


 だが俺はもう、それを寂しいとはこれっぽっちも思わない――


「……さて、どうしますか」


「どうしようかねえ本当ほんとに」


 地下からは脱出できたものの、楽観には程遠い状況にあることは間違いない。夜が明けて日が昇れば灼熱の炎天に晒されることになる。どこかへ逃げようにもジープはない。客観的にみれば、絶望の度合いは地下に閉じ込められていたのとたいして変わらないのかも知れない。


「出口は確保できたわけですし、しばらく地下に籠って助けを待つってのはどうです?」


「駄目だね。リスクがでかすぎる。いずれ誰かがここに来る可能性は低くないが、それがあたしたちにとって味方とは限らない。むしろ『本部』もマリオが言ってた『外部』の組織ってのもあたしたちにとっては敵だ。核実験の黒幕が誰かわからない以上、いつまでもここに留まってるのは自殺行為でしかないよ」


「なるほど」


 ……確かにその通りだと思った。結局、誰かはわからずじまいになったが、この一連の事件の黒幕が核実験などという大それた手段を用いて施設ごとここを葬り去ろうとしたことを思えば、こんな場所は一刻も早く離れた方がいい。俺たちはのだ。そのことを忘れてはいけない。


「だったら、あの廃墟に隠れてるってのは?」


「同じ理由で駄目だ。それに、あそこに隠れるのはいいとして、ここに来たやつがあたしたちを見つけてくれるとは限らないよ? 海の真ん中で無人島にいるのと同じなんだ。船に見つけてもらわなけりゃ意味がない。そしてその船に乗ってるのは血も涙もない海賊かも知れないってことさ」


「まあ確かに」


「さっきから聞いてりゃ、ちょっと考えが短絡的すぎやしないかい? こんな状況だからこそ深慮遠謀ってものが必要になってくるとあたしは思うね」


「……そうですねえ」


 とぼけた返事を返しながらも、俺は彼女の回答に安堵を覚えていた。俺の知っているキリコさんが帰ってきた、そう思った。


 やはりキリコさんはこうでないといけない。ただそうなると、ここはひとつ懸案となっている事項について彼女の言う深慮遠謀とやらをお聞かせ願いたいところではある。


「けど、だったら本当にどうするんですか?」


「そうだね……ちょっと待っといで」


 そう言ってキリコさんはどこかへ行ってしまう。


 仕方なく待っていると、やかてキリコさんは初めて廃墟を探訪したとき俺が漕がされた自転車を引いて帰ってきた。その荷台には食糧と思しき袋とペットボトルが山のように積まれている。


 俺の隣まで自転車を引っ張ってくると、キリコさんはふうと小さく息をき、両手を腰に当てて自慢げに言い放った。


「連中も詰めが甘いね。ジープが一台残ってたよ」


「ジープ……って、どこにあるんですか?」


「なに言ってんだい、にあるじゃないか」


「……あ?」


 ……何となくキリコさんの言いたいことがわかった。だが俺としては頷けるわけがない。さっき見せたを当て込んでいるのだとしたらとんだ見当違いだ。どうやらこの人は俺を魔法使いか何かだと勘違いしている。


「いや、できませんてそんなの! できるわけないじゃないですか!」


「どうしてできないんだい?」


「どう見てもジープじゃないでしょこれ! 中学校の演劇部だってもう少しな大道具つくりますよ!?」


「へえ、だったらあんたの言うジープの定義ってのはなんなのさ」


「え? ……そりゃまあ、ごついタイヤ履いてて、車高が高くて……」


「ごついタイヤ履いてるし、車高も高いじゃないか」


「それは確かにタイヤも太いしサドルも高い位置についてますけど、それは普通のと比べての話ですよね!? だいたいエンジンがないじゃないですか!」


「エンジンって言葉の意味知ってるかい? 語源的には『機関』って意味合いが強いんだよ。『機関』だったらそいつにもあるんじゃないかい? ほら、所定の駆動源により発生させられた駆動力を伝達する『機関』がさ」


「いや、だから俺が言いたいのはですね――」


「ああもう細かいこたどうだっていいよ! いずれにしたってあたしはあんたにぜんぶ預けるしかないんだ」


 そう言いながらキリコさんは荷台によじ登り、食糧の袋をクッションがわりに寝転がった。そうして頭の裏に手を組み、ちょっと散歩にでも出かけるような口調で「さ、出発だ」と呟いた。


「そう言われてもですね……」


「ここでもたもたしてるべきじゃないってのはわかったろ? だったらこの砂漠を踏み越えていくしかないじゃないか」


「いや、だからどうやって」


「こいつがジープじゃないってんなら、いつかみたいに脚で漕いでくしかないだろうね」


「……俺がですか?」


「他に誰がいるんだよ」


「死ぬでしょ、普通に考えて」


「《蟻》の服着てきゃ大丈夫だよ。こいつには最新鋭の温度調節テクノロジーが備わってるんだ。一度着てるからわかるだろ?」


「まあ確かに少しはましだったけど……」


 キリコさんの差し出す《蟻》の装束をしぶしぶ受け取った。頭からかぶろうとして、今はまだ着る必要がないのだということに気づいた。荷台には抜からずキリコさん自身の襤褸も用意されている。自分がその装束を身に纏い、荷台に同じ襤褸を着こんだ人を載せて炎天の下に自転車を漕いでいる姿を思い浮かべて、そのあまりのシュールさに軽い眩暈を覚えた。


 俺は溜息をき、月明りに照らされる大地を眺めた。たまさかの生を受けた虫たちが舞い遊ぶ幻のような光景に、しばらく見入った。


「あ……そうだ」


 そこで俺は大切なことを思い出した。


 ジーンズのポケットをまさぐり、指先に触れた硬く小さなものをそこから取り出した。そしてそれを、荷台に寝そべっている人の目の前に差し出した。


「なんだい? これ」


「たぶん、例のチップです。ジャック博士がここを出たときに持ち逃げしたっていう」


 俺のその一言にキリコさんはさすがに驚いた顔をし、荷台に身を起こした。しばらくの沈黙があって、キリコさんは俺からチップを受け取った。そのチップを親指と人差し指の間に挟み、月明りにかざして矯めつ眇めつ眺めた。


「……どこで手に入れたんだい?」


「DJがくれたんです」


「DJ? いつの話さ」


「最初に尋問したときに」


 言いながら、俺にはキリコさんの次の台詞が予想できた。――どうして今まで黙っていた? そんな台詞が飛んでくることを思って、俺は内心に身構えた。けれども、その台詞はこなかった。


「あ――」


 キリコさんの指の間で、チップはぱきりと乾いた音を立てて割れた。


 彼女の指でも力を入れれば割れるほど脆弱なものを俺は無造作にポケットに突っ込んでいたのだという狼狽ろうばいがまず来て、キリコさんがチップを事もなげに破壊したことへの驚きがすぐそれに取って代わった。


 俺が言葉もなく見守る中、キリコさんはチップだったものの欠片かけらを残す親指の先を人差し指で弾いた。月明りを受けくるくると回りながら、チップだったものの欠片かけらは夜の静寂しじまへと吸い込まれていった。


「……よかったんですか?」


「あたしには手に余る代物だよ」


「……」


「売れば金にはなるだろうけどね。どこぞの組織に一生追いかけられるリスクと引き換えに。あたしはそんなのは願い下げさ」


 つまらなそうにそう言うと、キリコさんはまた荷台に寝そべり、大きくひとつ欠伸をした。さっきと同じように頭の裏に手を組み、十字に脚を組んだ気楽そのものの姿勢でちらりと俺を、それから夜空を見上げた。


「ひとつだけ言っとくよ」


「え?」


「地下ではあんな風に言ったけど、それはあんたに惚れてたからじゃない。そのへんはわかるかい?」


「ああ……まあわかるような」


「あたしはあんたに惚れてないし、これから惚れることも、多分ない」


「はい」


「ハイジは、そんなんでいいのかい?」


「いいですよ、そんなんで」


「なら、ここらで債務を履行しないといけないね」


「え?」


「はい、契約完了! ぜんぶ終わったから、はもうあんたのもんだ」


 キリコさんはそう言って目を閉じ、満足そうに微笑んだ。彼女の言うが何を意味するのか、さすがに俺にもわかった。すべてが終わったとき、俺もキリコさんも無事だったら……そういう契約だったのだ。


 ずっと昔から憧れていた女性ひと。その女性がやさしく微笑んでぜんぶあげると俺に言っている。ここは素直に喜ぶべき場面シーンだ。少なくとも俺の中に何かしら肯定的な心の動きはあってもいいはずである。


「……って言われてもですね」


 だが実際に俺が覚えたのは、思わずその場にへたりこみたくなるような深い脱力だった。


 ……ぜんぶあげるも何もない。別の状況で言われたのならならまだしも、今この状況においてキリコさんの宣言が意味するところは、俺への以外のなにものでもない。鼻歌のひとつでも歌い出しそうな彼女のお気楽な表情がそのあたりをよく物語っている。


 結局、そういうことだ。主従の立場は入れ替わっても、俺たちの関係はこれまでと何も変わらないのだ。


「何だい。いらないのかい?」


「いりますけど」


「だったらハイジの好きにしとくれ。どっかに連れ込んでしっぽりと楽しむのも干からびさせるのもあんたの自由だ」


「……」


「さ、どこへでも連れていっとくれ」


 ……やはりそういうことのようだ。そう思って、俺は大きくひとつ溜息をいた。


 改めて、周囲を見渡した。茫漠とした夜のとばりの下に、物言わぬ大地が横たわっていた。悠久の彼方まで続いているような岩くれのうみ……そこを踏み越えていかなければならないことを思って、俺は文字通り途方に暮れた。


「――南はどうだい」


「え?」


「聡明なるあたしのは、星で方角読むくらいのことはできるんだろ?」


「そりゃまあ、できますけど」


「だったらとりあえず南を目指してみようじゃないか。駄目なら駄目でそのときだ」


「そのときねえ……」


「何だい。は不満でもあるのかい?」


「別にありませんけども」


「よろしい。では、出発進行!」


「へいへい」


 聞こえよがしにもうひとつ溜息をいて、俺はサドルに跨がった。


 エンジンをかけようと試み――だがすぐにそれを断念した。エンジンをかけようにも鍵穴がない。クラッチレバーもなければアクセルペダルもない。


 ……だいたいこれがジープだといって舞台に上げたとして、いったい何人の観客が納得してくれるというのだろう。自分も騙せないような演技は誰も騙せない――いつも口を酸っぱくして俺に言い聞かせていたのをキリコさんは覚えていないのだろうか。


 夜空を仰ぎ見て星をたどり、南の方角を確認した。そうして俺はペダルに足をかけ、いっぱいの力をこめて自転車を漕ぎ出した。


 後ろから鼻歌が聞こえはじめた。曲名のわからない、どこか懐かしい感じのする旋律。……いい気なものだという軽い苛立ちに、結局、俺はこれからもこうやってでこぼこだらけの道をこの人と踏み越えてゆくのだろうという自嘲めいた思いがじる。


 ――彼女が俺に惚れていないように、俺ももう彼女に惚れてはいない。ただポリ袋から抜け出した二匹の蠅のように、束の間の命が尽きるまで共に飛び続けるだけだ。


 いつの間にか鼻歌が消え、小さな寝息がそれに代わった。


 何時なんじだろうか、まだ空は白み始めていない。黒々としたあの地平の彼方から灼熱の塊が顔を出す前に、行けるところまで行きたい。


 月明りの砂漠に、俺はただ一心に自転車を漕いだ。力をこめてひと漕ぎする度に自転車のペダルがきいきいと耳障りな音を立てた。



(第二幕 終劇)

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