236 すべてが終わったあとに(10)

「……ごめんね」


 どれほどそうしていたのだろう。永遠にも感じられた時間のあと、嗚咽するのをやめたキリコさんがぽつりとそう漏らした。


「結局、何もできなかった」


「……」


「成功の目はないって最初からわかってたけど、こんな何もできないまま終わるとはさすがに思ってなかったよ」


「……」


「マリオの言う通り逃げればよかったんだ。どうしてこんな場所にこだわったんだろうね。守るべきものなんて、もうどこにもなかったのに」


「……」


「挙句にまんまと裏かかれて取り乱して……ハイジに酷いこと。あたしはハイジにあんな酷いこと……ごめんよハイジ。本当ほんとはあんな風に思ってたんじゃない。ただあたしは――」


 また泣き出そうとするキリコさんを抱く腕に力をこめ、「わかってますから」と小さく呟いた。


「キリコさんがテンパってたの、わかってました。仕方がないですよ。あの状況なら誰だって」


「……でも、結局ハイジまで巻き込んじまった」


「え?」


「一人で来て一人で死にゃよかったんだよ。それなのにハイジまで巻き込んで……」


「つか、そういう契約だったじゃないですか」


「……」


「最初からそういう契約だったし。こうなることだって、半分くらい覚悟してましたから」


 そう、すべてが終わるまで俺はキリコさんの道具になる。どんな危険をも厭わない忠実な道具に――それが俺に課せられた契約だった。


 この事態はさすがに想定外だったにしても、俺がキリコさんの暴挙に付き従ったことはあくまでその契約の延長線上にある。だから俺に思うところなどない。たとえ死のうが災害に巻き込まれようが、そんなものは些末な問題に過ぎないのだ。


「……約束通り、来てくれたんだね」


「そりゃ来ますよ。言い出したの俺ですから」


「キスしてもいいかい」


 そう言うとキリコさんは返事を待たず、俺の頭をかきいだくようにして性急に唇を奪った。甘やかな吐息をもらしながら、そのまましばらく貪るようにキスを続けた。


 だがそこで、ふとキスが止まった。


 唇が離される感触があって、こつんと軽く額を突き合わせる感覚が続いた。そしてそれを口にしている表情がありありと目に浮かぶほど微妙な調子で、キリコさんはその言葉を切り出した。


「……あのさ、こんなときにこんなこと言うのすごくアレなんだけど」


「え?」


「なんか、キスがゲロ臭いよ」


「あ……」


 そのキリコさんの一言に俺は愕然とした。……そういえばあの場所で戻したあと、俺は口をすすいですらいなかったのだ。思わず口元を拭いながらそのことを思い出して、艶っぽいシーンに最悪の形で水をさした自分の失態に俺は泣きたくなった。


「……すみません。ここ来る前に少し吐いたんです」


「どこで?」


「草原みたいなとこです。木や花なんかも生えてて、宇宙船の操縦席みたいなのがあって」


「……そっか。《エデン》を見たんだね」


「エデン?」


三位一体トリニティの製造工場だよ。あたしらはそう呼んでた」


「……」


「ハイジには見られたくなかったな」


「え?」


「あの場所を、ハイジには見られたくなかった」


「……」


「だからここまでおくびにも出さずにきたんだよ。そういう場所があるんだって、ハイジに知られないように」


 それだけ話したあと、キリコさんはしばらく沈黙した。そこで自分が目にしたもののことを思い出して……彼女がその場所について口を閉ざしていたのも無理はないと思った。


「みんな死んでました」


「え?」


「操縦席の中でみんな死んでました。成長した人も、子供も赤ん坊も」


 俺がそう言うと、キリコさんは短く「そうかい」と呟いて、また黙ってしまう。


 そのまま、またしばらくの沈黙があった。


 やがてまた口を開いた彼女は吹っ切れたような――あるいは自ら気持ちを切り替えるような軽々しい口調で、「でも、いいとこだったろ?」と言った。


「え?」


「《エデン》のことだよ。なかなかいい所だったろ。けっこう造るのに苦労したんだ」


「キリコさんが造ったんですか?」


「あいつの言いつけ通りに図面引いて施工業者に渡しただけだけどね。三位一体トリニティの成長を早める環境因子ってやつのためにあんなのが必要だった、ってことのようだ」


「……なるほど」


「ただ《エデン》なんて大仰な名前つけたのはあたしじゃないよ? もちろんあいつでもない。評議会の連中が勝手に言い出したことさ」


「どうして《エデン》なんですか?」


「楽園だからだよ。知恵の実をかじる前の純粋無垢な三位一体トリニティの楽園。知恵の実をかじったやつからその楽園を追われるのさ」


「……なるほど」


 そこでまた会話が止まった。


 ――キリコさんの口から告げられた情報は、俺の中に最後に残っていた疑問を解消するものだった。あの場所で自ら立てた仮説を裏付けるものだったと言い換えてもいい。


 ただ、それはもう俺に何の感動も与えなかった。あれほど知りたかったこの世界についての情報も、いざ知ってしまえば「そんなものか」という印象しかなかった。


「あの子とも会いましたよ」


「あの子? ……ああ、《プロトタイプ》か」


「はい」


「大丈夫だったかい? ……って、ここにいるんだから聞くまでもないね」


「戦いになったんですけど、そしたらすぐ止まっちゃったんですよ」


「……へえ、だったらまあ良かったじゃないか」


「いや……逆にキツかったです。なんだか、ちょっと寂しくて」


「……そっか」


 自分の言葉が少し湿ったものになるのがわかった。あの丘のふもとで、もう動かない少女を抱き起したときの喪失感が胸の奥に甦った。……何だろう、俺はやはりあの少女に特別な感情を覚えていたのかも知れない。


 そんな感慨に耽る俺の耳に、ふとキリコさんの声が届いた。


「――するかい?」


「え?」


「するかって聞いてんだよ。あたしと」


「何をですか?」


「セックス」


 抱き合ったままの体勢で事もなげに言うキリコさんに、俺は絶句した。地震で死にかけ、何がどうなっているかもわからないこの暗闇の中で、彼女がなぜそんなことを言い出すのか理解ができなかった。


「……今、ここでですか?」


「ぜんぶ終わっちまったからね。そういう契約だったじゃないか」


「いや、そんな契約でしたっけ? 少しニュアンスが違った気も……」


「ハイジは、あたしとセックスしたくないのかい?」


「……そりゃまあ、いつかはしたいと思ってましたけど」


「だったら今すればいいじゃないか。ぜんぶハイジにあげるよ」


「……こんな状況で、ですか?」


「こんな状況だからだろ。ハイジは蜻蛉トンボを捕まえたことあるかい?」


「あんまりないです」


「へえ、意外に都会っ子だね。あたしはあるよ。秋も深まった頃に雌の蜻蛉を捕まえるとどうなるかわかるかい?」


「どうなるんですか?」


「卵を産み続けるんだよ。ぽろぽろと」


「……」


本当ほんとは水の中に産まなくちゃいけないんだけど、そんなのお構いなしにぽろぽろと産み続けるんだ。どうしてだかわかるかい?」


「危機的な状況で遺伝子を残そうとする本能ですか」


「その通りさ。人間だって同じだよ。生き物には違いないわけだからねえ。生命の危険が差し迫った状況になればむやみやたらに生殖に励みたくなるもんなのさ」


 そう言ってキリコさんはまた唇を合わせてくる。あまりにも直截的ちょくせつてきな表現に呆れる思いはあったが、身体の方はしっかりとその言葉に反応してしまっていた。


 ……結局、そうするしかないのかも知れない。さっきの激しいキスとは変わって何度もついばむように唇を合わせてくる彼女のやさしいキスを受け容れながら、ぼんやりとした頭で俺はそう思った。キリコさんの言う本能的な衝動は別にしても、ここで俺たちにできることと言えば、きっとそれくらいしかない。けれども――


「……どうして止めるんだい?」


 両手でその頬を挟んでキスを止める俺に、湿った吐息まじりにキリコさんは尋ねた。


 その質問に、俺はすぐには答えられなかった。セックスがしたくないわけではない。むしろ彼女の言う本能的な部分では今すぐキリコさんとひとつになりたくて堪らない。それが本心だった。


 けれども、何かがひっかかっていた。水が低い方へ落ちるように流されそうになる俺を、理屈でも本能でもない何かが押しとどめている……そんな気がして、俺は慎重に言葉を選んだ。


「……雰囲気とか大事じゃないですか、そういうのは」


「お互い求め合う男女が密室に二人。これ以上の雰囲気があるかい?」


「さっきゲロ臭いとか言われたばっかですし」


「あは。なんだい、気にしてたのかい? いいんだよそんなのは。風呂はないしサウナも多分壊れちまった。そのうちお互い全身クサいの我慢しながらやることになるんだからさ」


「なんかそれスカトロっぽくないすか? 俺、キリコさんとは普通のセックスがしたいんですけど」


「普通のセックス! いいねえ、やっぱりハイジは最高だねえ。そういうことならまずは『普通のセックス』の定義について語り合おうじゃないか。ハイジが思う普通のセックスってどんなだい?」


「え? ……それはまあ、男性器を女性器に挿入する行為ですかね」


「じゃあ逆に普通じゃないセックスってのは?」


「ええと……SMとか、何人もでやったりとか」


「ふん、いかにも童貞って感じの意見だね」


「悪かったですね、童貞で」


「あたしは普通のセックスかそうじゃないかは、生殖を目的にそれやってるかどうかで切り分けられると思ってんだよ」


「生殖ですか」


「そうさ。有り体にや、子供をつくろうとしているかどうかだ。文化人類学とかそのへんの尺度で考えりゃまた違うんだろうけど、生物学的にみりゃそれ以外に妥当な判断基準は見当たらないね」


「ということは、ゴムつけたらアブノーマルなセックスってことですか?」


「その通りさ」


「一般的なセックス観からはだいぶ乖離してる気がするんですけど」


「セックス観なんて一般化できるもんじゃないさ。二人で完結しちまったらそっから先、どこへも出ていかないたぐいの話だからね」


「そんなもんですか」


「そんなもんさ。話を戻そうか。まあ異論はあるかも知れないが、生殖を目的とするのが普通のセックスで、それ以外はみんなアブノーマルだとする」


「はい」


「だとすると、これからあたしとハイジがしようとしているそれは普通のセックスかい? それともアブノーマルなやつかい?」


「……ええと、普通のセックスだと思います」


「その理由は?」


「ゴムとか持ってないし」


「あたしが常備してる、って線は浮かばなかったのかい?」


「え……常備してんですか?」


「バカだねえ、常備なんかしてやしないよ。まあいいさ。つまりハイジはこう考えたってことだね? ここにゴムはない。この女とはナマでやるしかない。結果、セックスは生殖を目的とするものになり、さっきの定義に照らせばそれは普通のセックスということになる」


「まあそういうことです」


「それはそれでひとつの正解に違いないさ。けど視点を変えればまったく逆の解答が出てきちまうんだよ」


「どういうことですか?」


に目を向けてみな。生殖という目的が達成できたとして、こんな穴蔵の中でその先どうするんだい?」


「あ……」


「自己の遺伝子を未来につなぐことが生殖の本質だとすりゃ、あたしたちがこれからやろうとしてることは明らかにその本質から外れるってことだよ」


「……そうかも」


「捕まって、水のあるなし関係なしにぽろぽろ卵産み落とす蜻蛉と何も変わらないよ。本能に命じられるまんま何の意味もなくぐちょぐちょやるだけさ」


「けど、なんで俺にそんな話を?」


「あたしは今、そういうセックスがしたいんだ」


「……」


「難しいことなんも考えないで、知性のない虫けらみたいにあんたと繋がりたいんだよ」

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