138 待宵の月(3)
がらんどうのホールに伸びやかな女声が響いた。
弾かれたように頭を上げると、上手袖の暗がりから三番サスの光輪の中に進み出る影があった。――キリコさんだった。
「あたしの声が聞こえるかい? 聞こえたら返事をしておくれ」
彼女は白衣に身を包み、レンズの入っていない銀縁の伊達眼鏡をかけていた。それは舞台衣装だった――明日の舞台でキリコさんが演じることになっている『博士』の衣装だった。
「返事がないようだね。もう一度聞くよ。目は覚めたかい?」
「……覚めました」
状況がよくわからないまま、俺は返事をした。そんな俺にキリコさんは舞台上から安堵したような穏やかな微笑を向けてきた。
「気分はどうだい?」
「あまりよくありません」
「そうかい。……まあ無理もないね。長い眠りから覚めたばかりなんだ。いまいち調子が出なくても仕方ないさ」
――そう言って笑うキリコさんに、俺は軽い混乱を覚えた。
舞台から投げかけられる言葉は、さっきまで麻酔が効いて眠っていた俺を彼女らしく見抜き、それを暗に責めるもののようにも聞こえた。だが彼女の口調に非難めいたところはなく、むしろそこには気遣わしげな響きがあった。
彼女の意図を計りかね、そのあたりを確かめるために俺は慎重に言葉を選んだ。
「俺……今まで眠ってたんですか?」
「ああ、眠っていたよ。安らかな寝顔で昏々とね。あんたは覚えてないかも知れないけど、寝かしつけたのはこのあたしさ。そのあたしが言うんだから間違いない。あんたは今の今まで、ぐっすりと深く眠り続けていた」
……その通り、俺はキリコさんに打たれた麻酔によって眠っていた。それはさっき自分の中で確認したばかりだ。
だが内容としては辛辣そのもののキリコさんの言葉には、依然としてまったく非難の色はない。彼女が何を言いたいのか、俺にはさっぱり掴めない。
「……たしかに、俺は眠っていたのかも知れません」
「たしかにもしにかたもないさ。事実あんたは眠ってたんだ。そうして今、目が覚めた。何か問題あるかい?」
「怒っているんですか?」
「うん?」
「俺が今まで眠っていたから……キリコさんは怒っているんですか?」
俺がそう言うと彼女はなぜか一瞬目を丸くし、それからすっと目を細めた。
そして眼鏡のつるに触れ、いかにも『博士』らしくその位置をなおしたあと、それまでよりずっと低い圧し殺したような声で言った。
「あたしのことを、知っているんだね」
「え?」
「ハイジはあたしのことを知っているんだね、って言ったんだよ。名前から何から、あたしに関する色んなことを」
「……」
脈略のないその台詞に、俺はうまく返事を返せなかった。二人の間で会話が噛み合っていないようだ。けれどもキリコさんの声は真剣そのもので、そのギャップがなおさら俺を混乱に駆り立てた。
「――」
――だがそのとき、俺はようやく気づいた。
舞台の上に立っているその人がキリコさんであることに気づいた。
それは昨日の夜、俺の腕の中で声もなく泣いた彼女ではなかった。今朝すべてを諦めたような顔で俺にセックスを求めた彼女でもなかった。
それは俺のよく知るキリコさんだった。彼女が演技と呼んで投げ打とうとした、昨日までのキリコさんだった。
「知ってますよ。俺がキリコさんのこと知らないはずがないでしょう」
思わず、俺はそう口にしていた。けれども彼女は不審そうな表情をそのままに、「どうして?」と小さく呟いた。
「どうして……って。ずっと一緒にやってきたじゃないですか」
「夢の中でかい?」
「え?」
「あたしにそんな覚えはないよ。夢でも見てたのかい?」
「……俺にはキリコさんが、何を言ってるのかわからない」
「ならわかるように聞かせてあげるよ。さっきも言った通り、ハイジは今の今まで泥のように眠ってたんだ。そんなハイジがどうしてあたしと一緒にやってこられたんだい? 夢の中ってことでなけりゃ、話の辻褄が合わないじゃないか」
――そこまで聞いて、俺はやっと理解した。
彼女が本番用の衣装を着こみ唐突に舞台に現れた理由。要領をえない掛け合いが意味するものをようやく理解できた。
それは遠回しな叱責でも何でもなかった。
彼女は今ここに俺たち二人だけでの即興劇を提案しているのだ。そして彼女は既にその舞台に立っている。『博士』の装束を身にまとい、役に入っている。
「さあ、いつまでもそんなとこに突っ立ってないで。こっちにおいで」
ふっと慈しむような笑みを浮かべて彼女はそう言った。それで、俺は確信を持った。
キリコさんは俺の思いに応えてくれたのだ。俺とともにまだ演技を続けると、そう言ってくれているのだ。
……もちろん、不安はあった。二人きりでどんな演技ができるのかまったくの未知数だった。だがそれでも俺は真っ直ぐに通路を進み、舞台に両手を突いて自分をその場所に持ちあげた。そしてキリコさんの待つ三番サスの光の中へ、おずおずと進み出た。
「もう一度聞こうか。気分はどうだい?」
「いいです。もうだいぶよくなりました」
「行けそうかい?」
「――はい。もうどこにだって行けます」
覚悟を決めた。本当にどこにでも行くつもりになった。出だしの展開は彼女が提示してくれるようだ。それならば話は早い。俺はそれに従い、設定通り愚直で融通の利かない『兵隊』を演じるまでだ。
「よろしい。そういうことならさっそく行ってもらおうかね」
「はい! どこへ向かえばいいのでありましょうか」
「なに、この近くを少しまわってもらうだけさ」
「この近く……?」
「ああ。道筋は決まってるから迷うことはないよ。目をつぶってたってゴールにつける。あたしはそのゴールでハイジを待ってる」
……そこで、俺はまたわからなくなった。
近くをまわれといっても、この狭い舞台の上でどこをどうまわればいいのだろう。それにゴールで待っているということは、キリコさんは演技に関与しないということなのだろうか。
……ひょっとして彼女が二人での劇を持ちかけたというのは俺の早合点だったのだろうか。
それでも俺は『兵隊』として質問の言葉を考えた。だがその質問が俺の口を出るより早く、キリコさんの右腕がこちらに向けおもむろに突き出された。
「大丈夫、あたしの仕事に抜かりはないよ。心配しなくても段取りはちゃんとつけてある」
「……?」
突き出された右腕の先で、人差し指が親指につがえられた。よく見慣れたキューのための構えだ。
だがもう演技をはじめている俺に、今さら何のために……?
そんな俺の心の声を聞きつけたかのように、キリコさんはいかにも思わせぶりな表情を浮かべて、言った。
「どうもハイジは、まだ完全には夢から覚めちゃいないようだ」
「……!」
「心ここにあらず、って感じだ。推測するに、まだ夢の中でのことを引きずってるんじゃないかと思うんだが、的外れかい?」
「……」
――外れてなどいない。言われるまでもなく、俺はまったく役に入りこめていない。
今こうして舞台に立ち『博士』と向かい合っていても、『兵隊』としてどう振る舞えばいいのか決めかねている。だから、キリコさんの指摘はひどく的を射ている。
そう――これこそがキリコさんだと思った。俺のよく知る彼女の指摘は、いつも残酷なほど正確に的の中心を射るのだ。
「仰せの通りです博士。自分はたしかに夢の中でのことを引きずっておりました」
「そうだね。でもこの先は、そいつを綺麗さっぱり忘れてもらわないと困るんだ。言ってること、わかるかい?」
「はい――わかります博士」
……そうだ。俺はそれを忘れなければならない。夢はもう覚めたのだ。キリコさんの言う通り。
麻酔から醒め、苦しみが一斉に押し寄せ――けれどもそれを見越したかのようにキリコさんは来てくれた。
俺の思いに応えてくれた彼女の思いに、今度は俺が応えねばならない。その思いに応えて、俺の役である『兵隊』になりきらねばならない。
「と言ってもね、身構える必要なんてないんだよ」
「え……?」
「そんなに力が入ってたんじゃ散歩もろくにできやしない。ハイジ、あんたは卵から孵ったばかりの雛なんだよ。これはあんたをばかにして言ってるわけじゃない。頼りに思っていないわけでもない」
「……」
「ただそれを事実として認めてくれないと話が先に進まないんだよ。いいかい? あんたは卵から孵ったばかりの雛だ。この世界のことは何ひとつ知らないし、まだ肩肘張るような何の役割もない。そしてあたしは、あんたにその役割を与えようと言ってるのさ」
キリコさんが言っていることは理解できた。それはつまり、俺がこれから演じるべき役は今日まで練習してきた『兵隊』ではなく、見知らぬ場所に目覚めたばかりの何も知らない男ということだ。
それがキリコさんの提案している二人での即興劇の方針で、彼女はその劇の中に俺の役を与えてくれると言っている。
ならば俺にできることはひとつしかなかった。人差し指をつがえた彼女の右手が額に近づくのを認めながら、俺は静かに目を閉じた。
「ハイジがどんな夢を見てきたのか、あたしは聞かない」
「……」
「けど忘れるんだね。うなされるほど苦しかったその夢はもう終わった。この指が額を弾いたとき、あんたはそのすべてを忘れる」
「……はい」
「自分の目で見て、自分の耳で聞くんだ。夢の中ではないこの世界のありさまをね。少し風が吹いてるみたいだが、まあさしたる問題じゃない。これからハイジに吹きつける風は、こんなちんけな嵐みたいに生やさしいもんじゃないから――」
話はそこまでだった。最後の台詞が途切れたあと、ひと呼吸あって彼女の指が俺の額を弾いた。
「……っ!」
衝撃はほんの軽いものだったが、たまらず後ろによろめいた。そのまま俺は、ふわりとしたものの上に腰をおろした。
……腰をおろす?
腰をおろしたあとも身体は頼りなく揺れ続けていた。重く低いうなり声のような音が耳に届いた。
俺は恐る恐る閉ざされていた瞼をもたげた。
◇
――バスの中だった。照明の灯されていない真っ暗なバス。その最後尾の席に、俺は座っていた。
運賃を示す赤いランプが車内に無機的な明かりを撒いていた。こちらに背を向ける運転手の姿が、まるで分厚いガラスを隔てたように遠くよそよそしく見えた。
乗客は俺の他に誰もいないようだった。それだけ確認したあと、傍らの窓から外の様子を眺めた。
完全に夜だった。
流れゆく夜の景色の中に激しく波打つ電線と、葉も千切れんばかりに煽られる黒々とした街路樹を見た。どうやら嵐は本当に来ているようだ。耳を澄ませばバスのエンジン音に紛れて、ごうごうと海鳴りのような風の音が聞こえた。
……そこでふと、俺は自分がこの状況に何の疑問も抱いていないことに気づいた。
疑問も混乱もなく、この異様な状況を素直に受け容れていた。だが唐突に湧き起こったその考えが膨らまないうちに、俺はそれを忘却の彼方へ追い遣った。そしてこれでいいのだと即座に思い直した。
ただ自分がなぜこのバスに乗っているのか、それがわからなかった。どこで乗ったのか、そしてどこへ向かっているのかわからなかった。
とりあえずこれがどこ行きのバスなのか、それを運転手に尋ねてみるべきではないかと思った。ディーゼルエンジンの音は大きくてここからでは声が届かない。前方の席に移るために、俺は腰を浮かしかけた。
「――いまお立ちになると危ないですよ」
出し抜けに声が響いた。前からではない、すぐ隣からだ。
その声がした方へ、俺は顔を向けた。
「車が動いているじゃありませんか。そうお急ぎにならず赤信号で止まるか、次の駅に着くのを待ってはいかがです」
俺が座っている最後尾の席の、その逆の端に
そこは頭を動かさないと見えない場所で、しかもかなり暗かった。だからすぐ隣に座っていながら、女がそこにいることに俺は気づかなかった。
「……これはどうも、失礼致しました」
自然とそんな台詞が口をついて出た。同時にこんな口調でのやりとりを、過去に戯曲か何かで読んだことがあるように思った。
そう思ったとき、かちりと何かが噛み合った気がした。考えるより早く、俺は次の台詞を口にしていた。
「ときに、つかぬことを伺いますが、貴女はこのバスがどこへ向かっているか、それをご存知ですか?」
「ええ、存じておりますとも。当然じゃありませんか。こんな夜更けに行く先のわからないバスに乗る人間が、そうざらにいるとは思えない」
女はこちらに顔を向けず、前を向いたままやりとりを続けていた。
その声には表情があったが、顔にはなかった。闇の中によくわからなかったが、女の顔は少し青ざめているように見えた。
「僕がそうなのです。まったくお恥ずかしい話だ。僕はある場所に向かっているのですが、自分の乗ったこのバスが正しいバスだったのか、そのあたりがどうもよくわからない」
「それは大変だ。間違っていたら事件です。もうこんな時間だし最後のバスが出てしまいますよ。それに今夜は嵐です。すぐ降りて引き返したほうがいい」
「いや、今から引き返してもう間に合うとは思えない。それにこのバスが正しいということだってありうる。そこで貴女に伺っている次第です。このバスがどこへ向かっているのか、僕はそれが知りたいのです。ご存知ならどうか教えてください。このバスは、どこへ向かうバスなのですか?」
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