137 待宵の月(2)

「……いい加減、これでうまくいってくれよ」


 都合三度目となるサスバトンの巻き上げを終えたあと、俺はそう独り言ちながら調光室への階段をのぼった。


 我ながら要領の悪い仕込みだった。本来、サスのセッティングは一回のバトン昇降で済ませるべきなのだ。それを何度も上げ下げするのは準備不足であることの何よりの証拠で、小屋付の職人さんに手伝ってもらっている場合にはその機嫌を悪くしかねないし、裏方を頼んでいる他の劇団の人間には恥を晒すことになる。


 ただあおぞらホールには小屋付の職人がいないからその機嫌を損ねることはない。そして今日この場には、俺が恥を晒す人間は一人もいない。


「1番サス……オーケー」


 つまみをスライドさせて1番のサスを点け、調光室の窓から舞台を見下ろす。舞台に描かれる光輪の位置と大きさを確認し、1番のサスを消したあと、今度は2番のサスを点けるためにつまみを押し上げる。


「2番サス……オーケー」


 再び調光室の窓から舞台を見下ろし、舞台に描かれる光輪の位置と大きさを確認する。そうして俺はまた、誰にかけるでもない確認の声を舞台に投げかける。


 もちろん、声は返ってこない。誰もいないその舞台から返ってくるはずもない。


 キリコさんの家を出てちょうど昼ころ会場に着いた俺は、取るものも取りあえず仕込みにかかった。裏方の人たちが来ることになっている時間までにどうにか形にするつもりだったのだが、さすがにそう簡単にいくものではなく、蓋を開けてみればこんなに時間がかかってしまった。


 もっとも、当初気にかけていたことは杞憂に終わり、時間がきても裏方は誰一人現れなかった。台風が近づいているようだから、あるいは全員それで見合わせたのかも知れない。


 ……そんな白々しい弁護を時おり頭にのぼらせながら、それでも俺は手を休めることなく、がらんどうのホールに粛々と作業を進めた。


 山となったのはやはり照明関係の仕込みだった。結局、DJは昨日の段階で何もやってくれていなかったから、そのすべてを俺一人でやらねばならなかったのだ。あんな事件があったことを思えば、DJが仕事をしていなかったのも当然だが、その事実は何にも増して俺の心に重く応えた。


 ……仕込みをしながら、俺は繰り返し昨日の事件のことを思い返した。それはまだ生々しく頭に残っていて、脚を狙撃されたときの激しい痛みや、腹を撃たれて血が失われていく寒さまでもはっきりと思い出すことができた。


 だが、不思議と恐怖はなかった。例の薬はもうなかったし、またDJが俺を撃ちに来るのではないかという考えも何度か頭にのぼった。けれども俺はその危険な予感に、何ら恐怖めいたものを感じなかった。


 なぜ恐怖を感じないのか自分でも不思議だった。常軌を逸した事件の連続で感覚がおかしくなっているのだろうとはじめは考えた。だが考えるうちに、その本当の理由が何となく見えてきた。


 そう……あいつがまた撃ちに来るかも知れないと考える一方で、まったく逆のことを俺は強く予感していた。DJはもうここには来ない、と。


 そしてその予感は、誰もいないホールにただ一人仕込みを進めるうちに、確信に近いものになっていった。


 ――DJはもうここには来ない。今の俺にはそれがはっきりとわかる。


 DJばかりではない、隊長も来ない。アイネもペーターも、もう誰もここには来ない。……あのときキリコさんが口にした言葉が正しかった。その彼女も、とうとう来てはくれなかった。


 胸をよぎる交々こもごもの思いはホールの薄闇にのみこまれ、消えていった。


 俺はただ淡々と仕込みを続けた。それでも時計が午後九時を回る頃には作業もあらかた終わり、最終確認のためにすべてのサスを点して調光室を降りた。


 正面に立って舞台を眺めた。整然と降り落ちる光の帯が、誰もいない舞台に綺麗な三つの円を描いていた。


「……できた」


 額の汗を拭ってそう独り言ちた。立ち役を立てての確認はできないから顔が化ける心配はあるが、後ろに引き気味に立てばそれも問題ないだろう。


 予定していた倍以上の時間がかかりはしたものの、どうにか本番を迎えられるだけの準備は調った。俺にできることはすべてやり終えた。ささやかな満足感を覚えて、次にとるべき行動を自分の中に問いかけた。


 ――答えは返ってこなかった。


 自分が次に何をすべきかわからなかった。本当に、何をすればいいのかわからなかった。


 信じられない思いで必死に頭を働かせた。そうして……気づいた。答えなど返ってくるはずもないことに気づいた。俺にできることはすべてやり終えた。それは取りも直さず、俺にできることはということなのだ。


 俺は途方に暮れ、その場に立ち尽くした。


 立ち尽くしたまま無人の舞台を見つめた。……俺にできることはもうそれしかなかった。そこへ向かい一歩を踏み出すことも、そこに背を向けて引き返すこともできなかった。ただ呆然とその場所を見つめることしかできなかった。


 懸架照明サスペンションライトは変わることなく杲々こうこうとした光の帯を舞台に落としていた。……誰を照らすこともない空っぽで虚ろな照明。ぼんやりとそれを見つめているうち、なぜか無性に居たたまれない気持ちがこみあげてくるのを覚え、上手側へ目を逸らした。


 そこには青みがかった闇があった。下手側を見た。やはり闇だけがあった。その闇に押し出されるように俺はまた舞台を見た。まるで俺の心を映したような何もない舞台がそこにはあった。


 不意に――まったくの不意に、これまで感じられないでいた絶望が心に押し寄せてくるのをはっきりと感じた。


「あ……とけた」


 圧倒的な絶望の洪水の中で、俺は自分にかけられていた麻酔が遂にとけたことを知った。


 差し迫るものと理解しながら、感情ではそれを受け容れることができないでいた現実を、俺はようやく現実として受け容れることができた。


 それはみんなが消えてしまったという現実だった。


 半年かけてとりくんできた舞台が流れようとしている現実だった。


 ヒステリカが今まさに壊れようと――いやおそらく、もう壊れてしまったという現実だった。


 そうして俺は、自分がなぜ今までそれを感じないでいたのかを理解した。


 俺にはやるべきことがあったからだ。


 仲間たちが次々に消えていく中、闇雲に町中を捜しまわらなければならなかった。山積みの問題に押し潰されそうになりながら、それでも練習や準備を進めねばならなかった。


 ……それは逆だったのだ。俺にはのだ。遮二無二それをしていればよかったのだ。だから絶望を感じないでいられたのだ。だがもう、俺にできることは何もなくなった。


 絶望を感じないでいられた理由はそれだけではない。不可解な事件が連続したからだ。


 常識では説明のできない事態に直面し、それと向き合わねばならなかった。そのおかしな出来事の中に解決の糸口を探して、答えのない謎かけに挑まねばならなかった。


 ……それも逆だった。そうすることで、俺はひとときでも舞台を忘れることができた。謎にかかずらっていたから――かかずらう振りをしていたから、俺は絶望を感じないでいられた。だが今の俺にとって、そんな謎など心底どうでもいい。


 そして俺が絶望を感じないでいられた最大の理由――それは、キリコさんに対する葛藤を抱えていたからだ。


 気の置けない先輩として接してきた人の豹変。それに戸惑いを覚えながら、きっとどこかで喜びのようなものを感じていた。露骨な誘惑を拒みつつも拒みきることができず、出口のない迷路をぐるぐるとさまよい続けていた。


 ……それは何よりの麻酔だったのだ。その麻酔が効いていたから――その麻酔が常に打たれ続けていたから、俺は絶望を感じないでいられたのだ。


 結局そうだ。舞台を直前に控えて恋愛に逃げ場所を求めていたのは彼女ではない。俺の方だったのだ。


 麻酔がとけた今、キリコさんの気持ちが自分のことのように理解できた。ここ数日、彼女が俺にとってきた彼女らしくない態度のわけがようやくわかった。


 ……彼女の麻酔はもうとけていたのだ。いや、最初から麻酔になどかかっていなかったのかも知れない。


 だからキリコさんはあんな風になった……ならざるを得なかった。キリコさん自身わかってやっていたかまではわからないが、彼女はこの一週間のやりとりの中で俺に麻酔を打ち続けた。だがその裏でキリコさんは逆に、俺に麻酔を打ってもらうことを切望していたのではないか。


 ……それはつまり、ああして俺に迫りながら、キリコさんの心は完全に醒めていたということだ。


 それでも身体を合わせれば違う。たとえ心が伴わなくても、セックスはそれだけで最高の麻酔になりうる。……そこに俺という男がいた。一年以上前にかわした契約がまだ生きていた。


 から逃れるため、キリコさんは、あるいはそれにすがろうとしたのかも知れない。


「……っ!」


 そこまで考えて、俺は激しい自己嫌悪を覚えた。のうのうと彼女の打つ麻酔に酔い痴れながら、まるでキリコさん一人が弱い人間であるかのように弾劾した自分が許せなかった。


 俺の言葉に傷つき、ベッドの上に膝を抱えうずくまっているキリコさんを思い浮かべた。いっそ今から家に向かい、彼女がまだそう望むならセックスでも何でもしようと、そう思い踵を返しかけた。


「……」


 ――けれども、できなかった。


 それはただの言い訳だった。彼女を絶望から救いたいのではない、俺が絶望から救われたいのだ。


 結局誰も来なかったゲネプロ、もはや成功するはずもない明日の舞台。この静かなホールに一人、そんな現実を眺めていたら心がどうにかなってしまう。


 俺がその現実から逃げ出したいだけだ。その現実から逃げ出すために、俺が彼女にすがろうとしているだけだ。


 ……俺がここでキリコさんにすがるわけにはいかない。それだけは、何があってもできない。


 それは彼女を思うためでも、男としての意地でもない。吹けば飛ぶような小さな劇団で、それでも今日まで演劇を続けてきた役者としての誇りだ。


 俺は演じ続けると言った。一度は舞台に立ったのだから、何があっても閉幕まで演じ続けると、そう彼女に断言した。


 その決意だけは翻せない。俺は最後まで明日の舞台を諦めない。


 ……薄っぺらな誇りには違いない。滑稽だと蔑む声が聞こえるような気さえする。けれどもひたむきに明日の舞台を目指してきた自分が間違っていたとは思わない。


 それはたしかに演技だった。あの日の記憶をうち払うために被った偽りの仮面だった。だがたとえそうであっても、先の見えたその仮面劇にしがみつく自分を肯定できる。


 ――それが俺に残された唯一の誇りだった。守り通すべき最後の砦だった。


 この誇りにすがって、俺は最後まで舞台を諦めない。ヒステリカという劇団でずっと演じてきた演技を、最後まで演じきる。


 そんな決意をこめて舞台を見た。青白いサス明かりが落ちる――誰もいない舞台を見た。


「……」


 ……それで、どうなる? 


 ……最後まで演じ続けて、どうなる?


 観客は誰もいない。ともに演じる役者も裏方も、ここにはいない。そう……さっき確認したばかり、俺にできることはもう何も残されていない。そしてここには、俺の他に誰もいはしない。


 ――なるほど、キリコさんの言う通りだと思った。


 俺はきっと彼女がここ数日の間にたどった道を少し足早に、だがまったく同じようにたどった。


 今さら確認するまでもない、舞台は一人ではできない。たとえ俺が踏みとどまろうと、必死に演技を続けようと……一人では舞台の真似事にもならない。


 舞台の上手を見た。そこには誰もいなかった。


 下手を見た。やはり誰もいなかった。


 真っ暗な絶望の他に、そこには何もなかった。


 俺は舞台を見つめるのをやめ、足下に視線を落とした。荒みきったコンクリートの通路が鈍い足灯の明かりを受け、ゆらゆらと虚しく揺らいで見えた。


「――目が覚めたかい?」

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