136 待宵の月(1)

 目覚めはひどく気怠かった。汗ばむほどの熱気が肌にまとわりついているのを感じ、その熱気から逃れるように、まだぼうっとした目をこすりながら大きく息をついた。


 ……ほのかな匂いを嗅いだ。鼻孔から染みこんで頭の奥をくすぐるような、馴れ親しんだ女性ひとの匂い。その匂いから昨夜の出来事を思い出すのにそれほどの時間はかからなかった。


 次第にはっきりしてくる視界に、いつもとは違う部屋の景色が映った。……キリコさんの部屋だった。結局、昨日はあのまま眠ってしまったのだ。


 そのことを認めて、折からの気怠さに理由がついた気がした。昨日の朝は俺の小屋で、今朝は彼女の部屋。場所こそ違うが状況はほとんど同じと言っていい。……微妙な関係に陥った相手と二日続けてこういった朝を迎えれば、それは気怠い気持ちにもなるというものだ。


 厚いカーテンが降ろされたままの部屋は、それでも充分に明るかった。そのカーテンを透かして浸み入ってくる陽光の勢いからすると、もう日はだいぶ高いのかも知れない。


 それにしてもキリコさんはどこにいるのだろう。そう思い、おもむろに視線を下げた――そこにまなざしがあった。


「――」


 吐息が感じられるほど間近に女の顔があった。その二つの瞳がじっとこちらを見つめていた。


 一瞬、俺にはそれが誰かわからなかった。傍らに横たわるその女を、キリコさんではない別の誰かだと思った。……けれどもやはりそれは彼女だった。寝覚めの床に眺めるキリコさんの顔は、そうして俺が見紛うほどにいつもとは違ったものに見えた。


 言葉もなく見つめてくるキリコさんを、俺も同じように見つめ返した。乱れ髪のかかる起き抜けのしどけない顔。そんな彼女の顔を、俺は泣き疲れた少女のようだと思った。


 そう思ってよく見れば、彼女の目のまわりはうっすらと腫れていた。たぶん昨夜に泣いた名残なのだろう。そのことに気づいて、自分を見つめるその人がたしかにキリコさんなのだと、はじめて俺はそう信じることができた。


 おはようの挨拶も交わさないまま俺たちはしばらく無言で見つめ合っていた。……そうして彼女を見つめているうちに、なぜかその頭を撫でてやりたくなるような気持ちが胸の奥にこみあげてくるのを覚えた。


 もちろん、そんなことはしなかった。だがその場違いな感情はいつまでも消えず、心に長く尾を引いた。


 ――子供たちの声が聞こえた。


 近くで鬼ごっこでもしているのだろうか、いかにも子供らしい溌剌とした笑い声だった。『もういいかい?』と、呼びかけの声がかかった。『まあだだよ』と、返事の声が返った。厚いカーテンの向こう側、眩しい太陽のもとに遊ぶ子供たちの姿がありありと目に浮かんだ。


 そこでようやく俺は呪縛から解き放たれた。キリコさんから視線を外し、時計を見た。その針は既に真上でひとつに重なろうとしていた。


「……もう結構な時間ですよ」


 沈黙を破る俺の台詞に、少し鼻にかかったような声で「そうだね」とキリコさんは答えた。だが彼女はそれだけ言うとぼんやりとこちらを見つめたまま、再び口を閉ざした。


 俺は聞こえないように小さく溜息をついてベッドから起き、カーテンを開け放った。堰き止められていた光が雪崩れこみ、部屋の隅々まで浸み渡っていった。


「朝練さぼっちゃいましたね」


「……どうせ誰も来てないよ」


 ベッドの上に寝そべったまま、投げやりな口調でキリコさんは言った。俺は反射的にそれを否定する言葉を探したが、見つからなかった。


「……そうかも知れないけど」


 そんな宙ぶらりんな返事をして、少し迷ったがベッドのへりに腰を降ろした。キリコさんからは背中が見える格好になる。そこで彼女の方もようやく身を起こし、ベッドを這うようにして俺の隣に座った。


「お返しができなかったね」


「え?」


「昨日のお返し。今度はあたしが朝食をつくって、その匂いでハイジを起こすつもりでいたのに」


「キリコさん、料理できるんですか?」


「できるよ。ハイジほど上手じゃないかも知れないけど」


「そうなんですか。失礼なこと聞きました」


「損したなあ。そのあたりをちゃんとわからせるいい機会だったのに」


「今日でなくてもいいでしょう、別に」


「……そうだね。これからいくらでも機会はあるか」


 一瞬の沈黙のあと、キリコさんはそう言って穏やかな微笑みを向けてきた。その微笑みが何を意味するか、少し考えて俺は理解した。


 誤解されてしまった台詞の意図を訂正しようと口を開きかけ――だが、思い直して言葉にはしなかった。


「……話し方が違いますね」


「うん?」


「話し方が、いつものキリコさんと違う」


「……もう、いいでしょ?」


「いいって、何がですか?」


「ハイジの前ではもう、いい先輩でいなくてもいいでしょ?」


 そう言ってキリコさんはその顔にのぼらせている微笑を少しきまりが悪そうなものに変えた。その表情の変化の意味も、俺には何となく理解できる気がした。


「……演技は打ち止めってことですか」


「そういうことになっちゃうのかな」


「緞帳が降りるのは、まだ先ですよ」


「そうだね。でも観客はもういないし」


「まだ一人ここに残ってるじゃないですか」


「そのたった一人の観客の前で落ちちゃったからね。……それに、昨日も話したように、もともと成り行きで始めた演技だったから」


「……今のが、本当なんですか?」


「え?」


「今のが、本当のキリコさんなんですか?」


「……どうなんだろ。そのあたりは自分でもよくわからない」


 そう言ってキリコさんは、今度はどこか寂しそうに笑った。


 ふと――水曜日の彼女を思いだした。ペーターが現れず、隊長が残酷演劇とかいうものについて語った最後の練習。あのとき冷たい口調で隊長に意見したのも、俺の知らない彼女だった。


 ……今、俺が見ているキリコさんは、そのときの彼女とも違う。いったいこの人は幾つの顔を持っているのだろうと、まとまりのない頭で俺はそう思った。


「それとも……こんなのは嫌?」


「え?」


「今みたいなあたしは……嫌?」


「……」


「今みたいなあたしが嫌なら、ちゃんとそう言って。ハイジがそう言うなら、頑張って昨日までの演技を続けるから」


 そう言ってこちらを窺う横顔は、昨日までの彼女からは考えられないほど儚げで弱々しく見えた。……これが仮面をとった本当のキリコさんなのだろうか。そう思い、心にずきりと疼くものを感じた。


 俺は昨日までの彼女が好きだった。あけすけで無遠慮で、掴みどころがなく飄々としていて……それでいて誰にでも細やかな気遣いをみせる、あのキリコさんが好きだった。


 だがこうして健気にすがってくる彼女を前に、それを口に出すことはできなかった。ずっと演じていたと告白して舞台を降りた、そんな彼女に俺が言える言葉などなかった。


「……このまま、しよっか」


「え?」


「セックスしよ、このまま」


 ぽつりと独り言のようにキリコさんは言った。


 ……すぐには反応できなかった。悄然と視線を床に落としたままそう告げる彼女の誘いは、熱情をもって押しつけられる唇とは違う力で俺の心を乱した。


「……どうして、そんなこと言うんですか」


「……」


「本気で言ってるんですか。こんなときだってのに」


「……こんなときって、どんなとき?」


「舞台の前日。なのに、何の準備もできてない」


「セックスってそういうとき、しちゃいけないものなの?」


「しちゃいけないも何も……」


「そんな規則があるなんて、聞いたことないよ」


「規則なら、あります。それを俺に教えてくれたのはキリコさんじゃないですか」


 勢いで俺がそう言うと、キリコさんは少し驚いたような顔をし、そのあと複雑な表情で目を伏せ、また元のようにうつむいた。


「恋愛しちゃいけないって規則は教えたよ。でも……」


「恋愛でなしにセックスなんて、俺にはできない」


「……」


「いや……嘘か。できるかも知れない。でもキリコさん相手に、そんなことはしたくない」


 言ってしまってから、自分があのときのキリコさんとまったく逆の立場で……まったく同じように『規則』という言葉を使ったことに気づいた。


 ――そうして俺は、一年以上かけてようやくあのときの彼女の気持ちを理解できたと思った。


 あの春の夜、交流会館の前でキリコさんがかざしたように、俺は今ここに規則という建前をかざした。何もかもが壊れかけている中に残る形骸化した規則――


 けれどもその規則は、何があっても守り通さねばならない最後の砦のように思われた。


「……恥かかされてばっかり」


「え?」


「本当にハイジには、恥かかされてばっかり」


「そんなこと……。恥なんてかかせたつもりは……」


 そのあとは続かなかった。キリコさんの言う通り、俺は彼女に恥ばかりかかせている。あの告白の夜にはじめて誘われたときから、もう何度も。


 ……そんなつもりはなかった。けれどもいい先輩としての仮面の裏で、彼女が本当に俺のことを求めていてくれたのだとしたら、俺は男として許されない罪をキリコさんに対し重ねていたのかも知れない。


「――俺、キリコさんのことが好きです」


 それはあの夜と同じ言葉だった。桜舞う生暖かい春の宵、交流会館の前で告げたのとまったく同じ言葉で、俺は彼女に二度目の告白をした。


 その告白に、キリコさんはなぜかぼんやりと虚ろな表情をつくった。


 ……頭の片隅に追い遣られていた記憶が蘇った。そういえばあのときも、俺の告白に彼女はこんな表情を返した。


「ずっと好きでした。先輩として尊敬してるとか、そういうことばかりじゃなくて……品のない言い方になるけど、女として見てました。抱けるものなら抱きたかったし……今だってすぐにでも抱きたい」


 ぎりぎりまで踏みこむ一言だった。はっきりと言葉にすることでその感情は本物になる。押し殺していた気持ちがまた鎌首をもたげるのがわかった。


「なら、そうして」


 その気持ちをあと押しするように、キリコさんは俺の手にそっと彼女の手を重ねてきた。


「一度きりでいいから。……お願いだから」


 指を絡めるのでも握るのでもない、ただ静かに重ねられただけの手だった。けれどもその手から伝わってくるものに俺は思わず息を呑んだ。


 ……彼女の手は震えていた。注意しなければわからないほどかすかに、だがたしかにその手は震えていた。


 なぜキリコさんが震えているのかわからなかった。わけがわからないままに、俺は自分の心がまたにわかに波打ちはじめるのを感じた。


 それは昨夜に唇を合わせていたときよりも――これまで彼女に対して感じたどの衝動よりも高い波の到来を予想させるものだった。その波はもうすぐそこまで来ていた。


 だから俺は押し流される前に、彼女の手を強く握り返した。


「でも、それはできません」


「……どうして?」


「それをしたらどうなるか、言わなくてもわかるでしょう」


「……わからない」


「そんなはずない。キリコさんにはわかるはずだ」


「本当にわからない。ねえそんなことより……」


「もしそれをしたら、ヒステリカはそこで――」


 ――続きを、最後まで口にすることができなかった。


 その言葉は切り札だった。真っ直ぐに敷かれたレールを断ち切り、ともすればキリコさんを深く傷つけかねない決定的な一言。


 ……だが宙ぶらりんになったその一言に、ぞっとするほど冷たい声で彼女は、「もういいよ」と言った。


「え?」


「そんなのはもういいよ」


「……なに言ってるんですか。いいわけないじゃないですか」


「ならどうしろって言うの? 舞台監督ブタカンはいない、裏方も来ない。役者もあたしたち二人だけになっちゃった。ハイジこそわかっているんじゃないの? あたしたちが何をしようとしまいと、ヒステリカはもう……」


 重ねられた手の震えがわずかに強くなるのを感じた。その手からキリコさんの気持ちが伝わってくる気がした。


 不意に、声にならない声で慟哭する昨夜の彼女の姿を思い出し――俺は必死になってその映像を振り払った。


「……キリコさんの言葉とは、とても思えない」


 ぴくり、とキリコさんの手が小さく動いた。その小さな動きに自分の心が軋みをあげるのがわかった。だが俺は構わず、次の一言を口にした。


「俺、会場に行かないと。仕込みがまだ終わってないし、もう誰か来てるかも知れない」


「……誰も来てないよ」


「そんなのわからないでしょう。何も知らない裏方の人が、予定通りにゲネプロがあると思って来ていて、そこに俺たちがいなかったら最低じゃないですか」


「その人に何て説明するの? ……みんなどこかへ消えちゃったとでも?」


「そうです。ありのままを正直に説明して、その上でもう一度頼むんです。それが筋ってものじゃないですか」


「……それからどうするの? あたしたち二人で舞台に立つの?」


「そうです。俺たち二人で舞台に立って、仕込みのない文字通りの即興劇をするんです」


「本当にそんなことができると思ってるの? ハイジは」


「そんなの、やってみなければわからない。それができる保証なんてないし、キリコさんの言う通り誰も来ないかも知れない。けど、俺たち二人でできることはやっておかないと」


「二人でできることなら、ここにもあるよ」


 そう言ってキリコさんはその指で俺の掌の真ん中を軽くなぞった。腕を抜け背筋に電流のようなものが走り、衝動は一気に強まった。


 だが俺は小さく頭を振り、繋いだ手を無造作に解いてベッドから立ちあがった。


「……会場に行きます」


「え?」


「できるところまで仕込みをして、人が来るのを待ちます」


「そんなことしたってもう……」


「演技だって言ってましたよね、キリコさん」


「……え?」


「昨日までのはみんな演技だったって、そう言ってましたよね」


「うん……言った」


「俺もたぶん、同じように演技してました。キリコさんの演技に合わせて、舞台に一途でひたむきな自分を演じてました。でも……だからこそ俺はやめない。少なくとも明日という日が終わるまでは。……まだ幕が降りてないのに舞台から降りるみたいな……俺にはそんな真似できない」


 キリコさんの身体が小さく竦むのが見えた。自分の言葉が彼女を傷つけているのがわかって、心が今にも壊れそうな音を立てて軋んだ。


「質問の答えがまだでした」


 それでも俺は振り返り、ベッドに座ったままのキリコさんの正面に立った。そうしてはっきりと彼女の目を見据えて、言った。


「俺、キリコさんのことが好きでした。でもそれはずっと目にしてきたあのキリコさんで、たとえそれが演技だったとしても気持ちは変わらない」


「……」


「……今みたいなただの女なら、俺は好きにはならなかった」


 キリコさんの瞳からふっと光が失われた気がした。そんな彼女を残したまま俺はキッチンを抜け、きれいに揃え置かれていた靴を履きドアノブに手をかけた。


「……かないで」


 消え入るような声を背中に聞きながら扉を開け、外に出た。そして思いを断ち切るように後ろ手に扉を閉めた。


 ――扉から外に出ると、そこはもう疑いのない夏だった。


 どこか遠くで鳴いている蝉の声と、容赦なく照りつける陽光。その陽光のもとには眩いばかりの原色の夏が広がっている。


 子供たちが遊んでいる。その足下から一斉に鳩が飛び立つ。


 けれども俺の目にその景色はどこまでも遠く、色褪せた古い絵葉書のように虚ろなものに映った。

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