135 麻酔(7)

「驚いたりはしなかったよ。むしろやっと来てくれた、って心の中でガッツポーズした。あたしはもうすっかりその気だったし、ハイジの『つきあってほしい』ってのが、中学生の言うような意味じゃないことはわかってたからね。それに……これであのふざけた規則を破ってやれるんだっていう暗い喜びもあった。でも結果は……ハイジも知っての通り、その規則を引き合いに出して断っちまった。


「はじめは断るつもりなんてなかったんだけどね……あんたの告白聞いてるうちに思ったんだよ。ここでハイジを受け容れればあたしは満足するし、規則についての溜飲もさげられる。……でもヒステリカはどうなるんだろう、って。そうして自分でも知らないうちに、『こんなに小さくなった劇団内でくっついたら駄目だ』って、考えたそのままを口に出してた。ちょうどにあった規則を大義名分にして。……まったく、本当によくできた規則だと感心したよ。


「もっとも、断った理由はそれだけじゃないけどね。自慢じゃないけど、あたしはそこそこモテるから男に言い寄られたことは何度もある。……でも、あんな風に告白されたことはこれまで一度もなかった。ハイジは……あのときのあんたはあまりにも真っ直ぐで一途だった。あたしが染みをつけるのがためらわれるほどにね。だからあれほど嫌ってた規則を引き合いに出して……ハイジまでその鎖に巻きこんだ。それだけでも相当たち悪いのにさ……。


「……やっぱりハイジのこと諦めきれなかったんだろうね。最後に、あんなふうに道を残すようなこと言わずにはいられなかった。『恋愛にならなければいい』なんてさ。……あれ言ったときのあんたの顔、はっきり覚えてるよ。信じられないものを見るような目であたしのことを見てたね。それはそうだ……断った舌の根も渇かないうちにあんなこと言ったんだから。さすがのあたしも罪の意識を感じた。自分は薄汚れてる。本当にすごく汚いって、そう思った。


「……でも、あのあとのハイジは偉かったね。まるで何もなかったようにあたしに接して……最後のにものってこなかった。自分が建て直してやるんだって、熱心にヒステリカのことに取り組んで……。そんなハイジを見てるうちに身体だけとかそんなおかしな気持ちじゃなくて、普通の意味でハイジのことちゃんと好きになってく自分がいたよ。逆に最初のうち感じてた、ただセックスしたい、身体だけでいいって気持ちは鳴りを潜めていった。……変な話だけどね。


「ハイジのことはずっと好きだった。でも……もうどうすることもできなかった。ハイジはあたしがかざした規則を守って、ヒステリカになくてはならない柱石になっていった。……今さらあたしから好きだなんて言い出せるはずもなかった。だからあたしはせめてハイジの気持ちに応えようと、いい先輩の役を演じることにしたんだよ。いつもみんなのことに気を配って、締めるところは締める、そんな役。


「でも、きっと当たり役だったんだろうね。そのうちすっかり板について自然になった。その役を演じている自分は好きだったよ。最後までその役でいくつもりで……そのつもりだったのにね。……あと一週間ってとこで、ついうっかり。そうしたらわけがわからないうちに……こんなことになって。


「『恋愛にならなければいい』なんて、ばかみたいな理屈。ただハイジをけしかけて、規則を破らせようとしていただけなのに。……ハイジはあたしのせいじゃないって言うけど、あたしには自分のせいとしか思えないよ。ペーターがいなくなったのも、ジャックやアイネちゃんがあんな風になったのも、今日のハイジのことも……きっとみんなあたしのせいだ」


 そこでようやくキリコさんは黙った。


 ……長い話を最後まで聞き終えて、俺は自分の中に巣くっていたわだかまりが消えたのを感じた。キリコさんに対して抱いていた疑問は、あとかたなくきれいに溶けてなくなった。


 そしてその代わりに、同情とも共感ともつかない強い思いが胸の奥に湧きあがってくるのを抑えられなかった。


 あの春の夜をきっかけに俺はひたむきな新入団員の仮面を……彼女は理想的な先輩の仮面を、それぞれかぶった。そしてその仮面はいつしか剥がしようのない、本当の顔になった。


 ……まるでネガだった。あの夜のあと俺たちがしてきたこと、感じてきたことは、裏返せばちょうど一つに重なるフィルムのネガだった……。


「キリコさんだけのせいじゃないです。もしキリコさんのせいなら、それは俺のせいでもある」


 そう言いながら俺は、自分の中にひとつの衝動がみるみる膨れあがっていくのを感じた。


 ――それはキリコさんとひとつになりたいという衝動だった。


 どういう作用でそうなったのかわからない。だがそれは息をするのも苦しいほど激しい衝動で……流されまいと奥歯を噛みしめる俺に、キリコさんは静かな声で、「ハイジは優しいね」と言った。


「でも、やっぱりそれは違うよ。こうなったのはみんなあたしのせいだ」


「そんなことあるわけない。どうしてキリコさんが――」


 衝動を振り切るため強い調子でまくし立てようとする俺を、首を横に振ってキリコさんは制止した。そして殊更に静かな声で囁くように言った。


「みんなあたしのせいだよ。その証拠に……こんなときだってのにあたしはハイジに抱いてもらいたいと思ってる」


 そう言ってキリコさんは辛そうに、何かに耐えるようにうつむいた。


「こんなときだってのに、面倒くさいことぜんぶほっぽり出して、このままハイジとセックスしたいって、あたしはそう考えてる」


 ……心が軋みをあげる音が聞こえた。彼女が今、自分と同じ状態にいることを知り、内なる衝動はいやがうえにも高まった。


 そう……俺もこんなときなのにキリコさんを抱きたいと思っている。そう考えて俺は、自分がなぜこれほどまでに彼女を抱きたいのか、その理由を知った気がした。


 俺たちは今も裏返しネガだからだ。


 同じ不可思議な事件に巻き込まれ、同じ混乱と葛藤に翻弄され、そしてたぶん……鏡合わせの迷路の中に、はっきりと感じられない不安に怯えている。何もかも逆の世界で、かたわれを求めてさまよっている。


 ……だから、俺たちはこれほどまでにひとつになりたいと願う。


 キリコさんはもう何も言わない。ただ黙ってうつむいている。けれども彼女が考えていることは手にとるようにわかる。


 彼女は俺の一言を待っているのだ。予定された調和に二人を向かわせるための一言。……あるいはすべてを帳消しにして、今日という日の終わりを告げる一言。


 選べる言葉はひとつだった。そしてその言葉はもう決まっていた。俺がその言葉を口にしたとき、ははじまるだろう。俺にとって厳格で絶対だった、彼女にとっては無意味で侮蔑の対象だった規則を破る行為。


 ……警鐘が聞こえた。その一言を口にしようとする俺の頭に、それを堰き止めようとする重く低い音が響いた。ああそうだ、と思った。ここで俺たちが互いのネガを合わせれば答えは出る。だがその答えに含まれるもの――ヒステリカがどうなるかということを、俺は知っている。


 それでも言葉は出ようとしていた。……おそらくそのことを知りながらキリコさんがさっきの言葉を口にしたように。滅びの呪文にも似たその一言はもう喉の上の方にまであがってきていて、あとは唇を開きさえすればいい。そうすればいい。俺はそうしようとして――ふと部屋の隅に置かれた小さな黒い筒に気づいた。


「……銃」


 それは昼の庭園でクララから手渡された拳銃だった。俺はほとんど無意識に立ち上がり、歩み寄ってその銃を拾いあげた。


「……ポケットの中に入ってたけど、それは?」


 そんな俺の行動をどう思ったのか、どこか訝しむような声でキリコさんは言った。俺はしばらく答えを返さず、丹念にその銃を眺めまわしたあと、言った。


「隊長の妹さんがくれたんです。今日の昼に、大学で」


「見せて」


 そう言ってキリコさんはこちらに右手を差し出した。俺は言われるままベッドに近づき、彼女に銃を渡してその隣に腰掛けた。


「さっきはよく見なかったけど本物だね、これ」


「本物かどうかは知らないけど、人は撃てるようです」


「弾が入ってないじゃないか」


「弾なしでも撃てる銃らしくて」


「……なるほどね」


 普通に考えればでたらめな話に違いなかった。だがそのでたらめな話にキリコさんは納得したように頷いた。


 ……そこで、俺はようやく理解した。アイネが昨日の夜キリコさんを撃った銃も――今日の昼にDJが俺を撃ったカラシニコフも、きっとこれと同じように弾なしで撃てる銃だったのだ。


「けどそんなものを、どうしてジャックの妹が?」


「それで自分を撃てと言われて」


「自分?」


「麻酔がきれるのが怖ければ、それで俺自身を撃てって」


「麻酔――」


 一瞬、キリコさんの表情が揺らいだ。だがすぐ元の表情に戻り、「ふうん」と呟いてまた銃を眺めた。


 その表情の変化が何を意味するのかわからなかったが、俺の口にした麻酔という言葉を彼女が正しく理解したことは、何となくわかった。心ではもう俺たちがひとつに繋がっていることを、改めて知った。


 ……だがどうしてだろう、その事実に、あれほど燃えさかっていた衝動が少しずつ薄らいでいくのを感じた。


「麻酔がきれるのは、怖い?」


 手の中の銃を見つめたまま、自問するように彼女は言った。俺はしばらく考えたあと、「怖いですね」と言った。


 わずかな沈黙があって、キリコさんは銃を右手に構えた。その銃口を、俺の胸にあてた。


「――」


 ……心臓の鼓動が聞こえた。それは俺の鼓動であり、目の前に銃を持つ彼女の鼓動でもあった。


 二つの瞳がじっと俺を見ていた。その瞳の色は何かを祈っているようにも、俺を憐れんでいるようにも……あるいは慈しんでいるようにも見えた。


 撃たれてもいいと思った。この人に撃たれて夢から覚めるのなら、それが正しい答えなのだと思った。……きっと、このまま二人がひとつになるよりも遙かに。


 そんな思いをこめて、俺は目の前の人に微笑みかけた。そして銃弾が胸を貫くそのときを待った。


 けれどもそのときはこなかった。ふっ、と小さく息を吐いてキリコさんは表情を崩し、銃を無造作に部屋の隅へ放った。


 そうして無言のまま俺をベッドに押し倒し、当然のように口づけてきた。


「……ん」


 湿りきった吐息が唇の間から漏れた。彼女は俺の肩を掴み、すぐ貪るように舌を絡めてきた。どちらのものともつかない涎が顎を伝い落ちていくのがわかった。ぴちゃぴちゃという水音とかすかなあえぎが、淡いオレンジ色に染まる部屋の静寂を壊した。


 衝動は消えてはいなかった。俺はキリコさんとひとつになりたかった。どろどろになった彼女の中に入り、どこまでも溺れてしまいたかった。……だがその欲望はさっきまで感じていたそれとは比べようもないほど小さくなっていた。


 その代わりに――欲望が小さくなって空いた心の隙間に、そっとさしこんでくる感情があった。


 それは寂しさだった。


 ……こんな寂しさを朝にも感じたような気がする。どこから来たのかはっきりしないその寂しさはけれども次第に大きくなり、反比例するように欲望は萎えていった。


 そうしてみるみる心を埋め尽くしたその寂しさは、すっかり小さくなった欲望をのみこみ、やがてあとかたもなく溶かしてしまった。


 ……キスは続いていた。だがそれはもう性愛に繋がるキスではなかった。


 寂しさに支配された俺の心に、そのキスはひどく滑稽なものに映った。とっくに終わってしまっているものに未練がましくすがる、虚しいキス。……それが何かに似ているような気がして、折からの寂しさはなおも膨らんだ。


 そのキスはもう抜け殻だった。それでもキリコさんはキスを止めなかった。そんな彼女を見ているのがただ寂しくて……だから俺はその思いをキスにこめた。今にも胸を押しつぶしそうな寂しさをキスに託した。


 そして、知った。自分の感じていたものが、彼女の感じている寂しさであることを知った。その寂しさが――彼女の唇から流れこんでいたものであることを知った。


 ……不意にキスが止んだ。俺の口の中で舌を動かすのを止め、キリコさんはおもむろに唇を離した。逆光でうまく表情が見えない。彼女はそのまま身体をずらして、俺の胸のあたりに顔を押し当てた。


「……っ」


 びくん、とキリコさんは小さく背中を震わせた。


「……っ」


 わずかな間があって、また彼女の身体が震えた。


「……っ、……っ、……っ!」


 そうして堰を切ったようにキリコさんは嗚咽をはじめた。俺の胸に顔を押しつけ、激しく背を震わせながら、声もなく彼女は泣いた。ぎこちない姿勢でキリコさんを抱き締めたまま、俺はただ彼女の髪を掻き撫でた……それしかできなかった。


 ……とても堪らなかった。こんな哀しいキリコさんを見る日が来るとは夢にも思わなかった。


 寂しさの淵に沈みきった俺の目から、涙はこぼれなかった。声にならない慟哭が続く薄明かりの部屋に、ただ子供をあやすように、俺はいつまでも彼女の髪を掻き撫でていた。

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