134 麻酔(6)
「もうすっかり大丈夫みたいだね」
キリコさんはそう言いながら俺がさっきまで寝ていたベッドに腰かけた。家着なのだろうか、外では見たことがないプリントTシャツと、少し長めのショートパンツという格好をしている。
朝に見たものよりはだいぶ大人しい服装だった。だが見慣れない彼女の普段着には逆にずきりとくるものがあって、俺は思わず視線を外した。
「済みません。なんか色々と世話かけたみたいで」
「なに水臭いこと言ってるんだよ。お互い様だろ」
それだけ言い合って俺たちは沈黙した。いつになくぎこちない空気が二人の間に漂っていた。
……そのぎこちない空気の理由は、たぶん昼間のホールでの事件ばかりではないのだろう。腰をあげてキリコさんの隣に移ろうかとも思ったが、少し考えてそうするのを止めた。
「……聞いても構わないかい?」
「え?」
「どうしてあんなことになってたかってことだよ」
「……」
「さっぱり事情がわからなくてさ。まあその……無理に話してくれなくてもいいけど」
「いや……話しますよ」
俺は問われるままに喫茶店でペーターを見てからの出来事を説明した。初めはあの事件をどう説明したものかと悩む気持ちがあったが、蓋を開けてみればものの数分で話は済んでしまった。
ペーターを追いかけたが追いつけなかった。あおぞらホールの前で見失い、中に入るとDJがいた。いきなり狙撃され、何を答えていいかわからない尋問を受け、アイネが現れて意味のわからないことを喋り、仕舞いに本格的に撃たれて意識を失った。
……あの悪夢のような出来事も言葉にすれば単純だった。自分が体験したことの半分も伝えられていない気がして謝ると、キリコさんはひらひらと手を振り、わかりやすい説明だったと言ってくれた。
そのあとキリコさんから彼女の側のいきさつを聞いた。そちらの説明もそう長くはかからなかった。
時間通り喫茶店に顔を出したが、俺がいなかったので直接ホールに向かった。死にかけた俺を発見して例の薬を飲ませ、昨日の俺と同じように救急車を呼ぶか真剣に迷った。だが俺の状態が安定したのを認め、結局、救急車の代わりに知り合いを呼んで俺をここまで運んでもらった――
キリコさんの説明も簡潔でわかりやすいものだったが、最後のくだりには引っかかるところがあった。いくら親しい知り合いでもあんな状態だった俺を何も聞かずに運んでくれるとは思えない。
俺がそのことを指摘すると、キリコさんは軽く笑って、「劇を言い訳にすればたいていの場は切り抜けられるよ」と言った。疑問はそれで解消した。自分に同じことができるかは別として、キリコさんならそれでうまく切り抜けられるに違いないと思った。
話し終えるとキリコさんはおもむろに立ちあがった。そして俺の前に置かれたままになっていたお粥のボウルとスプーンを取りあげ、キッチンの方へと運んでいった。
「あ……お粥おいしかったです」
今さらのように俺が言うと、頭を前に向けたままひらひらと片手を振って見せた。自分で洗うと言いかけたのもそれで宙ぶらりんになった。
台所に一頻り水音が響き、蛇口を締める小さな音が聞こえた。
それからしばらくして部屋に戻ってきたキリコさんは、また元のようにベッドに腰かけた。
「……あたしのせい?」
「え?」
短い沈黙のあとに、これまでとはまるで違う消え入りそうな声でキリコさんは呟いた。
「こうなったのは、みんなあたしのせい?」
「こうなったの……って、どれのことですか?」
「どれもこれも。ペーターがいなくなったのも、ジャックやアイネちゃんがあんな風になったのも、今日のハイジのことも……全部」
「……そんなわけないでしょう。どうしてそれが全部キリコさんのせいになるんですか」
たしかにアイネの事件についてはキリコさんにまったく原因がないとは言えない。だがペーターや隊長がいなくなったこと、そして今日のあれまで彼女のせいというのは、いくら何でも話を広げすぎだ。
「考え過ぎですよ。だいたいキリコさんが何をしたって言うんですか」
「規則を破った」
「……」
「……少し違うか。ハイジに規則を破らせようとけしかけた」
……唐突に告げられた言葉に、俺はうまく反応することができなかった。そんな俺を真面目な表情で見つめたまま、キリコさんはまたおもむろに唇を開いた。
「四年前の……ハイジがはじめて観に来てくれたっていうヒステリカの舞台、まだ覚えているかい?」
「覚えてるも何も、三日前に観ましたよ」
「ああ、そうだったね。それなら話が早いか。あの舞台のすぐあとだよ、例のふざけた規則ができたのは」
一瞬、キリコさんの顔に何かを恨むような表情が覗いた。その表情を俺から隠すように、彼女は両手を後ろについて天井を見あげた。
「そう……ちょうどあのあとだったね、滅茶苦茶になったのは。あのあたりからヒステリカは急坂を転げ落ちるような感じで駄目になっていったんだ。入団したばかりのとき、ハイジはあたしにこう言ったのを覚えてるかい? 『まさか団員が二人しかいないなんて思わなかった』って」
「……覚えてます」
「今だから言うけど、あれはかなり胸にぐさっときたよ。あの舞台を観て興味を持ったって話を聞いた直後だっただけに余計にね。と言っても、今さら責めるつもりなんてない。ハイジがそう思ったのは当然なんだ。……なにせあの舞台のときには二十人からいた団員が、たった二人になってたわけだからね」
「でも、それは時代の流れだったわけで――」
即興劇などというアナクロな表現形式が廃れるのは時代の流れ。あのときキリコさんは団員が二人にまで減った理由を寂しそうにそんな言葉で語った。その説明を俺は素直に受け容れ、今日まで疑いもしなかった。
だがその理解を確認するため途中まで出かかった俺の台詞を、キリコさんは小さく首を横に振って遮った。
「たしかにそれもあるよ。あたしは嘘を教えたわけじゃない。ただ、新入団員に聞かれて都合の悪いことをあえて教えなかっただけさ。……だいたい時代の流れにしても、二年やそこらで二十人が二人になるなんて普通ありえないだろ。少し考えればわかりそうなもんだけどね」
そう言ってキリコさんはふっと冷めた感じのする薄笑いを浮かべた。それは俺への嘲笑のようでもあったし、彼女自身への自嘲の笑みのようにも見えた。その表情に、俺はなぜかいたたまれないものを感じた。
「……何か事件でもあったんですか?」
「事件……事件ねえ。まあ事件と言えば事件だけど、そんなたいそうなものでもないよ。あの舞台のあと、ヒステリカでちょっとした騒動がもちあがったのさ。……色恋沙汰でね」
「……」
「いいや……ちょっとした騒動でもない。かなりの大事だった。実を言えばあたしも一枚噛んでるからあまり詳しいことは話したくないんだけど、要するに痴情のもつれが団を巻きこんだ大問題に発展したってことだね。……まったく月並みな話さ。年頃の男女でやってる劇団には宿命みたいなもんだよ。わかるだろ……そのへんは」
「……わかります」
「取るに足らない話だったんだよ、今にして思えばね。けどそのときのあたしたちにとっては、そんな簡単に片づけられるものじゃなかった。団内の人間関係がぐちゃぐちゃになって、いつ崩壊してもおかしくないようなことになった。実際、そうなってもおかしくなかったんだよ。その手の理由で壊れた劇団なんて、それこそ掃いて捨てるほどあるしね」
「……そうですね」
「けど……どこの劇団だって壊れたくて壊れるんじゃない。あたしたちもそうだった。そんなことになっても、みんなヒステリカという劇団を潰したくなかったんだ。……それでできたのがあの規則ってわけさ。恋愛そのものを禁じればもうこんなことは起こらない、ってね。一部の連中が投票まで仕組んで、何票差だったか忘れたけど僅差で規則は成立した。
「もちろん、あたしは反対に票を入れたよ。そんなものはまやかしに過ぎないってわかってたからね。みんなの心がばらばらのままだっていう根本的な問題が解決できてないってのに、泥縄でそんな規則つくって何になるってんだか……。案の定、団員はどんどん辞めていった。表向きの理由は色々だったけど、件の色恋沙汰が尾を引いてるのは見え見えだった。一人減り、二人減り……舞台の二ヶ月後に気がついてみれば、団員はもう半分以下になってたよ。
「そんな感じでヒステリカが傾きはじめてから、あたしは自分だけは絶対に辞めないと誓って、それを建て直すために必死になった。こう言ったらなんだけど、ヒステリカを愛してたからね。それに、潰れたら自分が負けるような気がしたんだ。だってばかばかしいじゃないか、痴情のもつれなんていうしみったれた理由で、これまで熱心にやってきた場所がなくなっちまうなんてさ。
「規則なんかじゃヒステリカは救えないって大見得を切った手前もあって、逃げるわけにはいかなかった。でもさっきも言ったように、根本的な問題は残ったままで、そいつはあたしにも解決できなかったから、団員が辞めてくのはどうすることもできなかった。
「……出ていくばかりじゃない。新しいのも入ってこなくなった。あんな規則ができたせいでね……まったくあの規則ときたら! あれは新入団員をはじくためには実によくできた規則なんだよ。かと言って、そいつを撤廃するためにあたしが動くことはできなかった。なにしろ自分もかかわったごたごたでできた規則だからね……あたしがそれをどうこうすることなんてできっこなかった。
「そんな気持ちでいたからね、あたしはあの規則を守る気なんかさらさらなかったよ。逆にいつか破ってやると心に決めていた。実のところ、あのごたごたであたしはそのときつき合ってた恋人と別れるはめになったんだ。その直後にあんな規則をおっ立てられたわけだから、ほとんど復讐に近い気持ちがあった。守る気なんてなかった。必ず破ってやると思ってた。……それが何の因果だろうね、今日の今日まで律儀に守っちまった。
「……ただまあ、それも道理ってことなんだろ。あのごたごたで苦汁を舐めた古株は恋愛アレルギーみたいになってたし、しかも次から次へとひっきりなしに辞めてく。そんでもって、規則が防波堤になって新しいのも入ってこない。……そんなつもりはなかったのに、あたしはそれから尼さんみたいに色恋とは無縁の生活送ることになっちまった。規則破ってやるって決めてた以上、よそで恋人つくるのはつまらないからね。それに何だかんだ言っても、ヒステリカで一線張りながら外にそういうのを求めるのは無理だ。
「それでも必死でいるうちは何でもなかった。壊れかけたヒステリカを建て直すって野望にすがっているうちは本当にそんなのどうでもよかった。いつかはヒステリカを元通り活気のある劇団にして、そのうえで公然と規則を破って……それがあたしの夢見てた勝利のときだった。けどまあご覧のように、現実はそんなに甘くなかった。ヒステリカもとうとうジャックと二人だけになって、もう先が見えてきたとき、まるで予想しなかった挽回のチャンスが転がりこんできた。……それがハイジ、あんただよ」
――ずっとうつむき加減で話していたキリコさんは、そこではじめて頭をあげて俺を見つめた。
我に返るような思いで俺は彼女を見つめ返して……射竦められた。真摯で迷うところのない、どこまでも真っ直ぐな目が俺を見ていた。
そんな目で俺を見つめたまま、「本当はあのときうんと言いたかった」と、小さな声でキリコさんは言った。
「……え?」
「告白されたとき。あたしは本当は断りたくなかった。……と言うより、あのまま連れ帰って寝たいくらいの気持ちだった。こんなこと言ってどう思われるかわからないけど、はじめて見たときからハイジとは寝たかった。……恋愛とかそういうのじゃなくて、ただ寝たかった。単純にセックスがしたかった。性格はろくに知らなかったし、容姿もそんなに好みってわけじゃなかったから、どうしてそんな風に思ったのか自分でも不思議なんだけどね」
「……」
「ハイジがヒステリカに顔を出すようになってから、あたしはずっとそんな気持ちでいたんだよ。でもそんなこと言えるわけがなかった。ハイジは本当に久し振りの……と言うより、あのごたごたがあってからはじめての新入団員だったからね。好きかどうかもわからないのにセックスだけしたいなんて考える自分への戸惑いもあったし。それでもやっぱり気に入ってたからのっけから馴れ馴れしくして……そしたらハイジも知ってのとおり、あんな感じで告白された」
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