139 待宵の月(4)

 俺がそう言うと、女は沈黙した。そのまましばらく何かを考えている様子だったが、やがて思い出したように「切符を見ればいい」と言った。


「失礼?」


「切符を見れば、そこに行く先が書いてあるでしょう。わたしの行く先が、貴方の行く先と同じとは限りませんし」


「そういうものですか。しかし先ほど申しあげましたように、僕はバスを乗り違えたのかも知れない。だのに果たしてちゃんとした切符を持っているのか……。持っていない気がしてならないのですが」


「持っているはずですよ。でなければそもそもこのバスには乗れません。よく探してごらんなさい。貴方はいつも切符をどこにしまわれるのですか」


 そう言われて俺はいつも切符をしまっているジーンズのポケットを探った。皺だらけの紙が指先に触れた。取り出し、目の前で広げてみるとそれはコンビニのレシートだった。「こいつはすごい」という声が隣から聞こえた。


「わたしも見るのははじめてです。それはどこまでも行ける切符じゃありませんか」


 相変わらず前を向いたまま、声ばかり感動を露わに女は呟いた。


「本当にすごい。それはどこまでも行ける切符ですよ。行く先なんて気にすることはない。ええ、そんなことを気にする必要はありませんとも」


「いえ、そう言われても困ります。そんな大層なところまで行く予定はないんです。僕はただへ行けさえすればいい。もう教えてはくれませんか。このバスはいったいどこへ向かっているんです」


「そんなことは問題になりませんよ。せっかくそんな素晴らしい切符をお持ちなのですから、そいつでどこまでも行けばいい。が逃げることはありません。気長にいくのもいいじゃありませんか」


「そんな悠長なことを言っていられる身分ではないのです。ああ、まったく軽率なことをしでかした。行く先の確認もしないでバスになど乗るものではなかった。どうもこのバスには乗り違えた気がしてならない。やはり降りて引き返した方がいいのだろうか」


「そんな勿体ない。でもどうしてもと言うなら、貴方のその切符とわたしの切符を交換しましょう。わたしのはちょうど次の駅までです。そこで降りて引き返せばいい」


 女はそう言って左手をこちらに差し出した。その手の中にあるのはどうやら本物の切符らしかった。けれども俺はなぜかその切符と、自分の持つ皺だらけのコンビニのレシートを交換する気にはなれなかった。


「それはお断りします。交換する理由がありません。これがどこまでも行ける切符だというのなら、この切符を出して次の駅で降りるまでだ」


「いいえ、それはできません。その切符では降りられませんよ」


「なぜです。どこまでも行ける切符なのでしょうこれは」


「そうですとも。どこまでも行ける切符ですとも。ですからそれは、どこまでも行けてしまう切符なのです。つまりどこまでもこのバスから降りることができない切符なのです」


「どこまでもこのバスから降りることができない」


「そうです。その切符を持っている限り、貴方はこのバスから降りることはできません。その切符はそういうものなのです。だからそんなものはわたしにくれてしまった方がいい」


 幾分うわずった声で女はそう捲し立てた。こちらに突き出された左手はそのままで、バスが揺れるたびにその左手も揺れた。


 俺の目にその手はこちらの切符を欲しがっているというより、自分の持つ切符をこちらに渡したがっているように見えた。


 ――それで、俺には何となく話の筋が読めた。


「そんな切符を、どうして貴女はほしがるのですか」


「わたしはその切符でどこまでも行きたいからです」


「貴女の切符は次の駅までなのでしょう。そこで降りるはずではなかったのですか」


「その予定でした。けれどもその切符がいただけるのならどこまでも行ってみたい」


「どこまでも行って、それでどうするんですか?」


「……そんなことは行ってみなければわからない」


「僕には貴女が嘘を言っているように思えてならない」


 俺がそう言うと女は押し黙った。だがやがて口を開くと、相変わらず顔を前方に向けたまま力のない声で呟いた。


「……心外だ。わたしは貴方に嘘など言っていない」


「こうしてみればわかることです。さあ、僕はこの切符で降ります」


 そう言って俺は腕を伸ばし窓際の停車ボタンを押した。紫色のランプの群れが一斉に点灯し、車内をうすぼんやりと照らした。「次、停まります」のアナウンスはなく、運転手も沈黙したままだった。


 だが同じように黙りこむ女を見て、自分の推測に確信を持った。


「貴女のそれが、どこまでも行ける切符なのですね」


「……ええ、そうです。私のこれが、どこまでも行ける切符です」


「それが、どこまでも行けてしまう切符なのですね」


「……そうです。これが、どこまでも行けてしまう切符なのです」


「その切符を僕に渡して、貴女は一人で降りようとした」


「……その通りです」


「そうして僕を、貴女の身代わりにしようとした」


「……その通りです」


 窓外の闇にハザードランプが明滅した。バスは徐々に速度を遅め、やがて停車した。


 ドアが開いた。運転手の横ではない、こちらのドアだ。俺は立ち上がり、レシートをジーンズのポケットに戻した。


「それでも、よかったと思っています」


「失礼?」


「この切符を貴方に渡さなかったことを、今はよかったと思っています」


 表情もなく前を見つめたまま、女はそう呟いた。なぜかわけもない寂しさが心にこみあげ、俺は逃げるようにドアへと向かった。


「貴方はきっとに辿りつけるでしょう。外は嵐です。お気をつけて――」


 俺が降りるとすぐドアは閉ざされ、重苦しいエンジン音とともにバスは走り去っていった。窓越しに見る女の顔は最後まで無表情で、じっと前を見たままだった。


「……っ!」


 不意の突風に身体がよろめきそうになった。噎せ返るような湿気とそれを捏ねまわす激しい風。大きな水の塊がばらばらと顔にぶつかってくる。


 ……紛れもない嵐だった。雨もかなり混じってきている。いずれにしても、このままここに立っているわけにはいかない。そう思い、俺はあたりを見まわした。


 ――見まわすまでもなかった。俺が立つそこは見慣れた商店街の一角、自分の小屋の目と鼻の先だった。


 踊り狂う風と雨粒に耐えながら、俺はジーンズのポケットに鍵を探した。……見つからなかった。念のためにポケットを裏返しに引き出すと、女がどこまでも行ける切符と呼んだそれが瞬く間に風に持っていかれた。だが、やはり鍵はなかった。


 鍵がなければ小屋に入ることはできない。雨は容赦なく俺の身体を打ち、しかもその勢いは時を追うごとに強まっていくようだ。俺はにわかに苛立ちを覚え、ドアノブに手をかけ自棄になって激しくまわした。


 ――すると開いた。鍵はかかっていなかったのだ。転がるように中に駆けこみ、いよいよ強まりゆく嵐を黒い扉の外に閉め出した。


 ホールには澱んだ闇と、生暖かく湿った空気が充満していた。とりあえずその闇を追い払うため、舞台脇の壁にある照明のスイッチをひねった。裸電球のくたびれた明かりが狭い仮舞台に広がった。そのまま俺は崩れ落ちるようにその場に腰をおろした。


 雨を受けたことで服はだいぶ濡れてしまっていたが着替える気にはならなかった。ただ自分がこの先どうすればいいのか、急速に膨らんでいく焦りと心細さのなかそのことばかりを考えた。


 ここはではない。ここには誰もいない。


 一人では何もできない。俺はこの先どうすればいいのか。何をすればいいのか、どこへ向かえばいいのか……。


 ばたん――と盛大な音を立てて扉が開いた。


 反射的に目を遣ると、DJが肩で息をつきながらそこに立っていた。男は俺に目を留めるとその場で軽く一礼し、それから真っ直ぐにこちらへ駆けてきた。


「さあ、早く出ましょう。こんなところにいてはいけない」


 大股に舞台にのぼり俺の目の前に立つと、挨拶もなしに男はそう言った。


 裸電球の明かりに照らされるその姿に俺はぎょっとした。男は暗いオリーブ色の軍装を身にまとい、右肩には長い銃を背負っていた。そればかりか軍装の上衣にはまだ赤みを残す血痕がところどころに染みをつくっていた。


「これはいったいどうされました。そんな物々しいで入ってこられては困ります」


「問題はありません。私の話をお聞きになれば、貴方にとってもこのが物々しいものではなくなる」


「何の話です。どういうことです」


「驚かないでお聞きになってください。戦争がはじまりました」


 それだけ言うと男はまだ大きく肩を上下させながら、腕の袖で鬱陶しそうに顔を拭った。


「それは、本当の話ですか」


「もちろん、本当の話です。敵は既にこの町への侵入を果たしました。不意をつかれた同胞はみな為すすべもなく、そこかしこで男は殺され、女は辱めを受けています」


「それは、大変なことになってしまった」


「そうです、大変なことになりました。指揮系統は分断され、ここが占領されるのも時間の問題です。ですがこのまま手をこまねいているわけにはいかない。我々は今こそ立ちあがらねばならない。さあ、貴方も銃を取るのです。そして共に戦いましょう」


「待ってください。いきなりそんな途方もないことを言われても困ります。それにどうあれ無理です。あいにく僕には銃の持ち合わせがない」


「あいにくが聞いて呆れる。銃はさきほどから目の前に転がっているではありませんか」


 焦れたような口調でそう言い、男は舞台の隅へ歩いていった。そうしてそこに転がっていたシュロ箒を拾いあげ、また俺の前に戻ってくる。柄を持ち、房をこちらに向けてそのシュロ箒を差し出した。俺は思わずその箒を受け取った。


「さあ、早く。ここはもう危険です、すぐに出なければいけない」


「ここを出るのは構いません。もとよりそうするつもりでした。へ向かう道の途中で立ち寄っただけなのです。ですが……」


「きっとも危険に違いない。敵はもはや町の隅々まではびこっているのです。きゃつらに一矢報いてやれるのは我々だけだ。さあ出ましょう、早く」


「ここを出るのは構いません。今すぐにでも出られます。ですが……」


 俺はそこで言葉を切り、急き立てる男の姿を改めて見た。その上衣についた赤黒い染みをじっと見つめた。


「貴方は、人を殺したのですか」


「ええ、それはもう。殺してやりましたとも。ここへ来る道の裏で、年端もいかない少女を辱めていたきゃつらに、然るべき報いを食らわしてやりました」


「その少女は、どうしたのですか」


「ああ……それは聞かれたくなかった。私はついにその子を救えなかった。舌を噛んでいたらしく、すぐに事切れてしまったのです」


「何という痛ましい話だ」


「まったく痛ましい話です。だが私には痛ましいでは済まされない。その子は私が殺したようなものだ。もう少し早く駆けつけていれば助けられたのだから」


 さも悔しそうな表情で男はそう吐き捨てた。かりりと小さな歯ぎしりの音さえ聞こえた。それからまたこちらに向き直り、厳めしい表情をつくって言った。


「ぐずぐずしている暇はありません。今こうしている間にも同胞は殺され、あるいは暗い物陰で手酷い扱いを受けているのです。それを見殺しになどできるものでしょうか。そこまで同胞に無関心でいられる冷酷な心の持ち主が、果たしてこの町にいるものでしょうか」


 そう言うと男は銃把に手をかけ、今にも駆け出しそうな気配を見せながら扉を指さし「さあ」と続けた。


 男に手渡されたシュロ箒はまだ腕の中にあった。――それはもう、さっきまでのシュロ箒ではなかった。自分がその箒を構えて敵を撃ち殺すその場面をありありと想像した。


 不意にずっしりと腕の中のそれが重くなるのを感じた。


「殺したくありません」


「そうだ見殺しにしていいはずがない。そんな冷酷な心の持ち主がこの町にいるはずはない」


「違う、そうではない。僕は誰も殺したくないのです」


 俺の言葉に男はわけがわからないというような表情をつくった。だがすぐにその言葉の意味に気づいたらしく、怒りが噴きあげるようにその顔にのぼるのが見てとれた。


「どういうことです。どんな論理です。きゃつらを殺すのに何の障害もあるものか」


「僕は誰も殺したくありません」


「何を言う。それ以上は許さない。おまえの血はまで凍りついているのか」


「僕は誰も殺したくありません」


「いい加減にしろ。この人でなしめ。おまえには生きる値打ちがない」


 男は吼え、手にした銃の先を俺の胸に突きつけた。弾丸が身体を貫く痛みを思い、俺は身を固くした。


 けれども、弾丸は放たれなかった。頭をあげて男の顔を見た。


 怒りに燃える二つの瞳が俺を睨めつけていた。その瞳はたしかに激しい怒りを宿してはいた。だがそれがつくられたものであることに俺は気づいた。


 ――男が怒るために怒っていることを、俺は悟った。


「その銃を、なぜ僕に向けるのですか」


「おまえが同胞の身を案じない人でなしだからだ」


「なら、どうしてすぐ撃たないのですか」


「人でなしが改心の言葉を口にするのを待っているからだ」


「誰かを撃ち殺すくらいなら、僕はここで撃ち殺された方がいい」


「……同胞などどうなってもいいと、おまえは本気でそう言うのか」


「僕には貴方が嘘を言っているように思えてならない」


 俺がそう言うと男は押し黙った。だがやがていからせていた肩を下げ、意気消沈した声で独り言のように呟いた。


「……このおれが嘘など口にするものか」


「僕はもうここを出ます。ここを出てに向かいます。ですが、僕がに着くことは叶わないでしょう。貴方のおっしゃる敵が僕だけ見逃してくれるとは、とても考えられませんから」


 俺は立ちあがり、通路に降りた。振り返ると男はそのままの姿勢で固まっていた。銃口はさがっていた。


 男はもう俺を撃とうとはしなかった。


「その敵は、貴方たちにとっての敵なのですね」


「……ええ、そうです。その敵は、私たちにとっての敵です」


「この町の同胞ではなく、ただ貴方たちを滅ぼすために迫っている敵なのですね」


「……そうです。ただ私たちを滅ぼすために迫っている敵なのです」


「戦争ははじまったのではない。貴方たちが戦争をはじめた」


「……その通りです」


「そうして僕を、その戦争に巻きこもうとした」


「……その通りです」


 俺は通路を進み、扉に達した。ドアノブに手をかけ、ゆっくりとまわした。


 堰を切ったように吹きこんでくる雨風が、つぶてのように激しく全身を打った。


「それでも、よかったと思っています」


「え?」


「貴方を戦争に巻きこめなかったことを、今はよかったと思っています」


 舞台に悄然と頭をたれたまま、DJはそう呟いた。なぜかわけもない寂しさが心にこみあげ、俺は逃げるように扉を抜けた。


「貴方がに辿りつけますように。雨が強まっています。お気をつけて――」

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