140 待宵の月(5)
小屋を出た俺は、そのまま嵐の夜に身を投じた。
風はわずかに収まっていたが、その代わり男の言葉通り雨が強くなっていた。傘を持たない俺の身体はその容赦ない洗礼を受け、すぐに下着までずぶ濡れになった。それでも俺は小屋に引き返すことなく、商店街をその出口に向かい真っ直ぐに歩いた。
町に人影はなかった。商店街を抜け、大通りに出てもそれは変わらず、目に映る景色は人々の死に絶えた廃墟を思わせた。その廃墟の中を、俺は踏切を越え、歩道橋を渡り、やがてどぶ川にかかる小さな橋に差しかかった。
橋のたもとで、俺はしばらくそのどぶ川の流れを眺めた。界隈の水がみなこの狭い溝に流れこんでくるのか、日ごろは底に水溜まりをつくっているだけのそこが、今夜ばかりはその水かさを大いに増し、黒い濁流となって激しく暴れていた。
からからという音がして、くるぶしのあたりに何かが当たるのを感じた。……空き缶だった。思わずその空き缶を拾いあげた。そうして俺は、空き缶を捨てるごみ箱を探して周囲を見まわした。
「――お迎えにあがりました」
唐突な声に、俺は弾かれたように頭を向けた。すぐ隣に
「失礼ながら、人違いではありませんか」
「いいえ。間違いありません。貴方様が手にしていらっしゃるものが証拠にございます」
そう言って少女はそれとなく俺の右手を見た。今しがた拾い上げた空き缶を握りしめたままの手だった。
「その野バラの花束が何よりの証拠です。貴方様に間違いありません。この酷い嵐の夜に、そのように可憐なものを提げているお方が二人といらっしゃるはずもございません」
俺は思わず手にした空き缶を見つめ、それから少女を眺めた。
目の前に立つ少女は色褪せた古めかしいドレスを着こんでいて、この雨の中に傘もささず髪からもドレスの裾からも水を滴らせていた。
「いえ、やはり人違いですよ。僕はある場所に向かっているところなのです」
「いいえ、間違いありません。私はその場所に貴方様をお連れするために参ったのです」
少女はそう言ってにっこりと微笑み、いきなり俺の腕を掴んで小走りに駆けだした。
「待ってください。人違いです。それはきっと僕じゃない」
「いいえ、きっと貴方様です。間違いようがございません」
激しい雨のなか、少女は俺を引きずるようにして駆けた。その足どりは軽く、ときどきこちらを振り返る顔には楽しげな笑みが浮かんでいるのが見えた。
重く湿った服で無理に走らされているせいで俺はすぐに息があがり、抗議の言葉も出てこなくなった。
そんな俺の様子を察したのか、やがて少女は走るのをやめ、けれども腕を引く手はそのままにゆっくり歩きはじめた。
「申し訳ありません。走ったりするなんて。それでも先を急ぎませんと。もう夜もだいぶ更けて参りました」
「……ご心配には及びません。そう急ぐわけでもないのです。ただかけっこはもう止めにしましょう。ぬかるみに足をとられでもしたら厄介だ」
「これはこれは気がつかず、とんだ粗相をいたしました」
悪びれた色もなく笑顔でそう言いまたぐっと俺の腕を引いた。
俺は気を取り直して、このまま少女にその場所まで連れて行ってもらうのもいいと思った。少女が腕を引くに任せ、黙ってそのあとに着いた。相変わらずにこにこと笑いながら、彼女は踊るように俺の前を歩いた。
嵐はまだ弱まる気配を見せなかった。人影のない町のあちこちに倒れた看板や植木鉢を目にした。どこから飛んできたのかブリキの人形が車道の真ん中に転がっているのがあわれだった。そこは俺のよく知る道で、まわりは俺のよく知る家並みだった。
だから少女が脇道に入ろうとしたとき、俺は逆に腕を引いて彼女の歩みを妨げた。
「どうなされました?」
「この道は違いますよ。この道を進んであの場所に着くことはできません」
「いいえ、この道でいいのです。この道がその場所へ行く一番の近道です」
そう言って微笑まれると、もう少女を疑うことができない。俺は口を閉ざし、腕引かれるまま少女について歩いた。短い橋を渡り、線路を横切った。高架の下を潜り、水浸しの歩道を歩いた。
だが少女が交差点を右に曲がろうとしたとき、俺はまた腕を引いて彼女の歩みを妨げた。
「どうなされました?」
「この道は違いますよ。この道を進んであの場所に着くことはできません」
「いいえ、この道でいいのです。この道がその場所へ行く一番の近道です」
俺はまた口を閉ざし、腕引かれるまま少女について歩いた。目抜き通りを進み、線路下のトンネルを潜った。風俗街を抜け、脇道に折れ、家と家の間の狭い道に入った。
そこで目の前に現れた光景に、俺はいよいよ強く彼女の腕を引いた。
「どうなされました?」
「やはり違うではありませんか。ここはさっきまで僕がいた場所だ」
そこは俺がさっきまでいた場所――小屋の前だった。少女に従って歩くうち、俺はここに戻ってきてしまったのだ。
けれども俺の指摘に少女はさして驚くでもなく、自信満々に「いいえ、合っていますよ」と言った。
「この道でいいのです。この道で間違いありません」
「間違いありませんが聞いて呆れる。僕はさっきまでここにいたのですよ」
「ですからそれが違うのです。さっきまでここにいらっしゃったというのは、貴方様の思い違いでしょう」
「そんなはずがあるものか。もう案内はいりません。この先は一人で充分だ」
「とんでもない。このあたりはとても入り組んでいるんです。お一人で行かれたりしたら、引き返しのつかないところへ迷いこんでしまいますよ」
薄く笑ったまま目ばかり真剣にまじまじと俺を見つめ、いかにも気づかわしげな声で少女はそう告げた。俺が何も言えないでいると彼女はにっこりと微笑み、また俺の腕を引いて歩きはじめた。
激しい雨は降り続いていた。俺も、おそらく少女も全身水浸しだった。彼女はまたにこにこ笑いながら、踊るように俺の前を歩いた。そのうちに俺は、いつの間にか見覚えのない道を歩いていることに気づいた。
裏通りだった。ビルの谷間を走る、やっと通り抜けられるほどの道。そんな道を歩きながらも彼女はときどき振り返って俺に微笑んだ。
だがまったく見覚えのない道に、俺はまた腕を引いて彼女の歩みを妨げた。
「どうなされました?」
「この道でいいのですか。この道を進んで本当にあの場所に着けるのですか」
「ええ、この道でいいのです。この道がその場所へ行く一番の近道です」
そう言って微笑まれると、もう少女を疑うことができない。俺は口を閉ざし、腕引かれるまま少女について歩いた。横倒しになったポリバケツの脇を通り、鉄条網の破れ目を抜けた。草むらを突っ切り、配管の剥き出しになったビルの裏を通った。
だが少女がさらに暗い路地に進もうとしたとき、俺はまた腕を引いて彼女の歩みを妨げた。
「どうなされました?」
「この道でいいのですか。この道を進んで本当にあの場所に着けるのですか」
「ええ、この道でいいのです。この道がその場所へ行く一番の近道です」
俺はまた口を閉ざし、腕引かれるまま少女について歩いた。
すえた臭いのする排水溝をまたぎ、少し拓けた通りに出て、また狭い裏通りに戻った。
公衆便所の裏を抜け、猥雑な落書きを横目に通り過ぎた。
点滅する街灯の下を過ぎ、また狭い裏通りを抜けた。
そこからまた狭い裏通りを抜け、ビルとビルとの間を渡って、また狭い裏通りを抜け、また狭い裏通りを抜け、また狭い裏通りを抜け――
「どうなされました?」
「この道でいいのですか。この道を進んで本当にあの場所に着けるのですか」
「ええ、この道でいいのです。この道がその場所へ行く一番の近道です」
そう言って少女はにっこりと微笑んだ。そうしてまた強く俺の腕を引いた。
だが俺は今度は立ち止まったまま動かなかった。少女は再びこちらに向きなおった。
「どうなされました?」
「もう案内はいりません。この先は一人で充分です」
「とんでもない。さきほど申しました通り、このあたりはとても入り組んでいるんです」
「たしかにそのようですね。このあたりはとても入り組んでいる」
「そうです。ですからお一人で行かれたりしたら、引き返しのつかないところへ迷いこんでしまいます」
少女は再び笑顔のまま目ばかり真剣に、ひどく切羽詰まった声でそう告げた。俺は気押されることなく、黙って彼女の顔を見つめ返した。
不意に、稲光があたりを照らした。
その稲光に、少女の笑顔が揺らいだ。雨に打たれ、濡れた髪を張りつける少女の顔が、まるで死人のように青ざめて見えた。
――それで、俺には話の筋が読めた。
「僕には貴女が嘘を言っているように思えてならない」
俺がそう言うと女は押し黙った。だがやがて虚ろな笑顔を張りつけたまま、抑揚のない声で静かに呟いた。
「……滅相もありません。私は嘘など一言もついてはおりません」
「では答えてください。貴女は僕をどこへ連れていこうとしているのですか」
「さきほど申しあげました。その場所へ貴方様をお連れします」
「その場所とはどこですか」
「……」
「我々の向かっている――僕さえ知らないその場所とは、いったいどこなのですか」
橋のたもとで出会ってからはじめて少女は笑みを消し、その青白い顔に真摯な表情を浮かべた。そうして背筋を伸ばし、真っ直ぐにこちらを見つめた。
「僕が向かっているその場所と、貴女が言うその場所とは、違う場所だったのですね」
「そうです。貴方様の言うその場所と、私が貴方様をお連れしようとしたその場所とは、違う場所でした」
「貴女が言うその場所とは、一度迷いこんだら引き返しのつかないところなのですね」
「そうです。私が貴方様をお連れしようとしたその場所とは、引き返しのつかないところです」
「貴女はその引き返しのつかない場所に、僕を連れて行こうとした」
「……その通りです」
「そして、貴方が僕を連れて行こうとしたその場所とは……」
「……すぐ前を向かれますように。そして振り向かず進まれますように」
俺は少女の言葉に従い、前を向いた。そうしてそのまま歩き出した。
「それでも、よかったと思っています」
「……」
「貴方をその場所まで連れていけなかったことを、今はよかったと思っています」
背後から消え入るような少女の声が聞こえた。なぜかわけもない寂しさが心にこみあげ、俺は逃げるように駆け出した。
「その場所はもうすぐそこです。日付が変わる頃には着くでしょう。では、どうかお気をつけて――」
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