141 待宵の月(6)
堪らない寂しさを抱えて裏路地を駆け抜けた。
どこをどう走ったのかわからない、闇雲に駆けた。疲弊しきった身体は悲鳴をあげ、何度も走るのを止めようと思った。だがそのたびに心が寂しさに軋み、それを忘れるために俺は走った。
なぜ自分がそれほどまでに寂しいのかわからなかった。
三人の男女に会い、別れた。ただそれだけだった。けれども俺の心は堪らない寂しさを訴えていた。足下が崩れるようなその寂しさを打ち払うため、俺はただひたすらに走り続けた。
……それでも、限界はきた。肺に焼けつくような痛みを感じて俺はついに立ち止まった。
前屈みになり膝を掴んで呼吸を整えた。……どれほどそうしていただろう。ようやく落ち着いて頭をあげた。そこに、
暗闇のなか激しい雨を受けながら彼は立っていた。狭い道の中央に、俺の行く手に立ち塞がるかのように。
やがて彼はおもむろに片腕をあげ、俺の左を指差した。そこで、彼ははじめて口を開いた。
「そんなものを、いつまで大事そうに握っているのだね」
言われて俺は、自分の右手が渾身の力でアルミニウムの空き缶を握っていることに気づいた。
彼の指差す左に目を遣ると、そこには照明の消えた自動販売機と、赤い硬質樹脂の空き缶のごみ箱が並んでいた。何も言わず俺はそのごみ箱に近づき、握りしめていた空き缶を捨てた。
そしてまた元いた位置に戻り、彼を正面から見据えた。
「ご忠告、痛み入ります。貴方は――」
「ここは君が求めていた世界ではない」
俺の言葉を遮って、彼はそう言った。心の中で何かが大きく揺らぐのがわかった。だが俺はそれを無視した。
「何をおっしゃっているのかわかりません。貴方が――」
「君が求めていたのは、こんな小さく不確かな世界ではなかったはずだ」
また何かが心の中で大きく揺らいだ。それでも俺は無視した。……無視しようとした。
「貴方が何をおっしゃっているのかわかりません」
「こんな出来合いの型をなぞるだけの、写実にも不条理にもなりきれない代物が、君の求めていた世界だったのか」
「何をおっしゃっているのかわかりません」
「こんな浅薄で何も起こらない、とるに足らない世界を現出するために、君は今日まであの長い時間を費やしてきたのか」
「……何をおっしゃっているのかわかりません」
彼が一言を告げるたびに、心の中の揺らぎは大きくなっていった。それでも俺は彼の言葉を無視しようとした。無視しなければならなかった。
「僕には貴方が何をおっしゃっているのかわからない。どうやら我々は別の言語を喋っているようだ」
「……」
「そこをどいていただきたい。と……言っても通じないでしょうか」
「君にばかり苦しい思いをさせて、申し訳なく思っている」
「……!」
「君はずいぶん、私のことを恨んでいるのだろうな」
「……何を言っているのかわからない」
「あのとき私は、ああする必要があったのだ。理解してくれとは言わないが、それは本当に君が求めていた世界へ君をいざなうための――」
「俺にはあんたが何を言っているのかわからない!」
声を限りに叫んだ。
そのとき、世界は崩れはじめた。俺を取り巻いていた世界が音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。俺が信じていた世界が、その世界ではない何か別のものに変貌していくのがわかった。
堪らず目を閉じ耳を押さえ、俺はその場にうずくまった。
「……君を苦しめるつもりはなかったのだが」
「もういい……何も言わないでくれ」
耳を閉じても彼の声は頭の中に響いた。行く手に立ち塞がる彼の姿が頭の中にありありと浮かんだ。
「……そうか。君にとってここがそういう場所だったことをすっかり忘れていた」
「俺にはあんたが何を言っているかわからない!」
「ならばこう返そうか。まだ君がこの場所に固執するなら」
「何も言うな! 何も返すな!」
「私には貴方が嘘をついているように思えてならない」
「……!」
俺は目を開いた。目を開いてじっと地面を見つめた。雨があとからあとからその上に弾け、流れていくのを呆然と見つめた。
世界が――今まさに崩れ落ちようとしていた世界が、俺のまわりで崩れるのを止めた。
「貴方が向かっていたその場所は、この先です」
耳を押さえていた手を離し、俺は頭をあげた。
彼はまだ同じ場所に立っていた。だが俺が立ちあがるのを認めると、静かに踵を返した。
「私が思うに、その場所は間違った場所です。だが、貴方が向かうというのなら、私にそれを止める権利はない」
「……」
「階段をのぼって、すぐです。おそらく鍵はかかっていません」
「……」
「すべてが終わったとき、嵐は過ぎ去っていることでしょう。それでは、どうかお気をつけて――」
それだけ言い残すと、彼はゆっくりと闇の中に消えていった。
彼が行ってしまったあとも、俺はしばらくその場から動けないでいた。土砂降りの雨の音だけが壊れたラジオのように耳に響いていた。
「……階段をのぼって、すぐ」
ふと頭に浮かんだのは、彼が最後に残していった言葉だった。俺は何も考えられないまま、ふらふらと歩き出した。
路地裏を抜け、表通りを横切り、突き当たりの建物の階段をのぼった。
扉があった。ノブをまわした。鍵はかかっておらず、音もなく扉は開いた。
「……んっ、んっ」
奥からくぐもった女の声がきれぎれに聞こえた。その声に引き寄せられるように、俺はその場所に向かい歩いていった。
部屋の中は真っ暗だった。その真っ暗な部屋のベッドで、一組の男女が絡みあっていた。
「……んっ、あっ」
――
うっすらと輝いて見えるその白い裸身が浅黒い男の身体に寄り添い……跨り、まるでじゃれ合うように何度も上下を入れ替わりながら戯れ合っていた。
「んっ……んんっ」
交わっているのではなかった。貪るようなキスを重ね、身体を噛み合いながら、二人はまだ二人のままだった。それで俺には、二人がしているそれが、行為に先立って行われる戯れ――前戯と呼ばれるものなのだとわかった。
「あっ……あんっ」
二人とも汗まみれだった。熟しきった果実のように充実した営みを、その汗が雄弁に物語っていた。これ以上ないほど淫らな前戯だった。けれどもその淫らな行為に耽る彼女を、俺は少しも淫らだとは感じなかった。
「んあっ……ああ」
見たこともない彼女がそこにはいた。
男と絡みあう彼女はその行為を楽しんでいた。淫婦のようにではない、少女のように楽しんでいた。身体の隅々まで相手にあけ渡し、ときにはくすくすと無邪気に笑って、子供たちがじゃれ合うように性愛を謳歌していた。
「んっ……んんっ」
相手の男が誰かはわからなかった。その男の顔は真っ黒に塗り潰されて見えなかった。
ただそれは俺にとって何よりの幸いだった。……俺はその男の顔を見たくなかった。その男が誰か知りたくなかった。
「……っ!」
男に意識がいった瞬間、俺の心はどす黒い感情で埋め尽くされた。
その感情の正体が何であるか、すぐにわかった。……それは嫉妬だった。自分ではない誰かが彼女とひとつになろうとしていることに対する、黒い炎のような情動だった。
――そこは俺のための場所だ。
心に呟いた。あるいは実際に口に出していたのかも知れない。だが俺はその場から動かなかった。正確には、動けなかった。
――その女に触れていいのは俺だけだ。
再び心に呟いた。だがその言葉には何の根拠もなかった。そんな言葉を口にする資格は、俺にはなかった。
何度も彼女が敷いてくれたレールを、俺はそのたびごとにすげなく打ち壊してきた。彼女の苦しみを理解しようともせず、自分を棚にあげて弱い人間だと決めつけ、声高にその態度をののしりさえした。
――そこは俺のための場所だ。
それでも俺は呟かずにはいられなかった。
彼女は機会をくれた。俺には何度もその機会があった。それは彼女が俺に抱かれたいと願っていたからだ。俺のことを愛してくれていたからだ。
――そこは俺のための場所だ。
もう一度心に呟いた。けれども俺は立ち竦んだままどうすることもできなかった。来た道を引き返すことも、一歩を踏み出すこともできなかった。
そこでようやく、ここが世界の終わりなのだとわかった。
逃げも隠れもかなわないこの場所で、歯を食いしばり両手を握りしめながら、俺ではない誰かと絡みあう彼女を永遠に見つめ続ける。それが彼女を裏切り、傷つけた俺に与えられた罪なのだと、喪心の中に俺はそう思った――
「……!」
何の前触れもなく仕掛け時計が動き出した。
部屋を見まわした。だが仕掛け時計などどこにもなかった。どこにもないはずの仕掛け時計から鼓笛隊が進み出で、高らかに奏楽を奏ではじめるのを、俺はたしかに目にした。
鼓笛隊が奏でるそれは、昨日の子守歌だった。
生死の間をさまよい、気がつくまでのあいだ頭の中で響いていた音色だった。
ルリラ リルラ まるき橋
謎かけ小人のすわる橋
ルリラ リルラ ほそい橋
渡るときにはお気をつけて
俺はまたあの真っ暗な闇の中にいた。闇の中をどこかへ向い歩いていく――使い古された死出のイメージに似た、そんな光景の中にいた。
耳に届くそれはキリコさんの歌声だった。今、はっきりとそれがわかった。その子守歌を歌っているのは彼女だった。
あなたのことを やさしく撫でる
撫でる 撫でる 撫でるのに
どこにもいない 顔さえ見えない
見えない 見えない ――なあんだ?
けれどもここに彼女の姿はなかった。彼女と絡みあう男の姿もなかった。……そこで俺は理解した。俺は逃げたのだ。二人を見続けることに堪えきれず、この暗闇に逃げこんだのだ。
ルリラ リルラ まるき橋
謎かけ小人のすわる橋
ルリラ リルラ ほそい橋
ほらまた一人が落っこちた
だが、それでいいと思った。いつまでもこの暗闇に留まっていられるならそれでいいと、目を閉じ耳を塞ぐような気持ちで俺はそう思った。このままどこかへ行ってしまいたかった。……あの場所に戻らなくて済むのなら、もうどこでもいい。
けれども子守歌は終わろうとしていた。あの場所に戻るのが恐ろしくて、俺は抵抗を試みた。
だが俺には何もできなかった。手足を動かすことはおろか、叫び声をあげることすらできなかった。
……その闇は温かかった。ふっくらと包まれるような温かい暗黒だった。俺は必死でその闇にしがみついた。たとえ何と引き換えにしてでも、俺はあの場所には戻りたくなかった。
その抵抗も虚しく、押しのけるようにして闇は離れていった。時を同じくして、どこにもない仕掛け時計のオルゴールの旋律も、それに合わせて歌う彼女の歌声も闇に溶け、消えていった――
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