142 待宵の月(7)
「――苦しいってば、もう」
少し拗ねたような彼女の顔が目の前にあった。「えい」と言って俺の首を絞めた。また気が遠くなりそうになったところで、首から手が離れた。「このくらい苦しかったんだから」と彼女は言い、伸びあがって楽しそうにくすくすと笑った。
「そんなにしなくたって、どこにもいかないよ」
慈しむような笑顔で、キリコさんはそう言った。わずかに腰を動かして、小さな嬌声をあげた。滑るような温かい液体が腹のあたりに広がっていた。その中心に熱く息づいている何かの感触があった。
「……ここは、どこですか?」
どうにかそれだけ言うことができた。だがキリコさんはそれに応えず、またわずかに腰を動かした。そうして俺の頭の脇に両腕をつき、真上から俺を見おろしてまたくすくすと笑った。
無意識に手を伸ばすと、指が柔らかいものに触れた。その先端にある固いものに触ったとき、俺を見おろす彼女の眉間の間に皺が刻まれた。俺の指が触れたのは彼女の胸であり、彼女の胸に触れたのは俺の指だった。
「どうしたの?」
小首を傾げてキリコさんは言った。それから俺の首に唇を寄せ、大きな音をたててそこを吸いあげた。
キスマークをつけられているんだとわかった。つけられているのは俺の首で、つけているのはキリコさんの唇だった。彼女は俺の腹に跨り、覆い被さるように俺の身体に絡みついていた。温かい液体は彼女の身体から流れ出たものだった。熱く息づいていたものは彼女の性器だった。
――キリコさんと絡みあっていた男は、俺だった。
首筋に鈍い痛みと彼女の唇の温かさを感じながら、まるで他人事のように俺はそう思った。さっきまで自分が立っていた部屋の入口に目を遣った。そこには誰もいなかった。
「あたしのものだってしるし、つけちゃったよ」
耳元でそう囁くと、キリコさんは俺の耳たぶを噛んだ。二人の胸の間で押し潰れている柔らかいものが、ぐにゃぐにゃとその形を変えた。
俺はまた部屋の入口を見た。……そこにはやはり誰もいなかった。
右腕をあげてキリコさんの背中に触れた。そっとその背中を撫でると、耳元で艶めかしい喘ぎ声があがった。
「いたずらしちゃだめ」
息だけで彼女は言った。
「もうちょっとだから、大人しくしていて」
もうちょっとだから、大人しくしていて。キリコさんの言葉を頭の中で繰り返した。
もうちょっとで何が起こるのか……わかる気がした。もうちょっとで俺は部屋の入口を気にしなくなる。もうちょっとで俺は、この俺とひとつに重なる。
あの部屋の入口に立ち、『そこは俺のための場所だ』と心に叫んだ俺が戻ってくる。いや違う……あそこでこの俺を見ている俺は消え、今の俺がこの俺とひとつになる。
考えているうちに頭が混乱してきた。そんなことはどうでもいいと、誰かの声を聞いたように思った。
もうちょっとで俺はこの俺と一つに重なる。そうしたら俺は間違いなく彼女と繋がる。今は腹の上にある温かい彼女の性器に自分のそれを
それはまったくたしかなことだ。燃えさかるように激しくそれを願い、そして俺はこの場所に来た。すべて思い通りに運んでいた。何も問題はないはずだった。
――それでもただひとつ、気にかかることがあった。
それを確かめないうちは俺は何をどうすることもできなかった。だから長いキスが終わって彼女の唇が離れたとき、それを確かめるために俺は口を開いた。
「……まだ、続いているんですか?」
その問いにキリコさんは顔をあげた。不思議そうに俺を見つめた。
「その……これって、まだ劇は続いているんですか?」
さっきと同じように、慈しむような笑みを彼女は浮かべた。
だがその笑みはすぐ不自然に固まり、胸の先に触れたときのように眉間の間に皺が刻まれた。「ふっ」と息が漏れた。「ふっ、ふっ」と続けて息が漏れた。
「ふっ……はははっ。あはははは……」
暗い部屋に哄笑が響きわたった。キリコさんは俺に跨ったまま、本当に可笑しくて堪らないというように全身を震わせて笑った。
張りつめていたものが一気に切れた感じだった。豊かな胸も、綺麗にくびれた腰も震わせ、まるで螺子が外れたようにキリコさんは笑った。
「……はい、負け。あ・た・し・の・負け」
一頻り笑いきり目に浮かんだ涙を拭ったあと、ようやく俺の腹から降りて彼女はそう言った。
「……負け?」
「あいつと賭けてたんだよ。ハイジを落とせばあたしの勝ち。落とせなければあいつの勝ち」
「……あいつ」
「ジャックに決まってるだろ。あんたの尊敬する隊長だよ。水曜日の夜にその賭けをはじめたのさ。小屋から血相変えてあんたが飛び出してくる前にね」
ベッドの下に脱ぎ捨ててあったのか、手早く下着をつけながらキリコさんは淡々と語った。だが俺には彼女が何を語っているのかさっぱりわからなかった。
「俺には何のことかさっぱり……」
言い終わる前に彼女が何か投げてよこした。思わず受けとってから、それが自分の着衣であることに気づいた。
「もうどうでもいいさ。終わっちまったことは」
着ろということなのだろうか。……たぶん、そういうことなのだろう。ばつが悪い気持ちを感じながら、俺はその着衣を身につけていった。
「昨日の話だけどね、あれで全部じゃないんだ」
早くも服を着終わったキリコさんは、その場にどっかりと腰をおろして喋り出した。生乾きのシャツに腕を通しながら、俺はその話に耳を傾けた。
「火曜にハイジが観たって舞台だけどね。あの舞台で学生をやってたのがいるだろ、少し背が低くて細面の。あれはサブローって男で、あたしと同期だった。あたしとサブローはヒステリカに入団してすぐつき合いはじめて、あの舞台の頃まで切れることなく続いてた。お似合いだってみんなから祝福される間柄だったよ。公認のカップルってやつになるのかね。
「ただね、そのときあたしがつき合ってたのはサブローだけじゃなかった。もう一人舞台に立っていた男がいただろ。あいつともつき合ってたんだよ。ハイジもよく知ってるジャックって男さ。つき合ってた……って言い方は語弊があるかも知れないね。月並みな表現をすれば身体の関係があった、ってことだ。
「それだけじゃないよ。月曜にラブホ前でばったり会った男がいただろ。あいつはテツガクっていうんだけど、あの男とも。あいつはあの舞台の演出で、脚本を書いたのもあの男だった。なかなかいいもの書くやつだったね。あいつが辞めなかったら、ヒステリカは即興劇団なんぞにならなかっただろ。
「どうしてだろうね。何でそんなことになったのか、自分でもわからないよ。別に
「罪の意識ってものがなかった。人間は誰しも精神に病気を抱えてるって言うけど、あたしの病気はきっとそれなんだろうね。あのとき悪いことをしていたって意識が今でもあたしにはないんだ。あたしはそういうのに罪の意識を感じられないんだよ。それが世間様からすればどうしようもなく不幸なことだってのは、何となくわかるようになったけど。
「うまくやっていけると思ったんだ。男たちも割り切ってやっていくって言ってたしね。でも現実はそううまくいくものでもなくて、あの舞台のすぐあとに火が点いた。サブローとテツガクが衝突して、そこからすべてが滅茶苦茶になった。その余波か何か知らないけど、関係もないのに団員はどんどん辞めていって、気がついたときには半分以下になってたよ。サブローもテツガクも辞めた。
「つまりあのご大層な規則は他でもない、このあたしのために作られたものだったのさ。投票までしてね。そんな規則つくればあたしが辞めると思ったんだろ。で・も・あたしは辞めなかった。辞めるわけないだろ! どうしてあたしが辞めなけりゃいけないのさ! みんな納得ずくでやってたことじゃないか! なのに何であたしが――
「……ヒステリカが傾きはじめてから、あたしはそれを建て直すために必死になった。潰しちまったら自分が負けるような気がしたんだ。でもさっきも言ったように、あたしが必死になればなるほどみんな辞めていった。すっかり負のスパイラルにとりこまれちまった。……ジャックだけは辞めなかったけどね。あいつはまあ、変人だから。あたしと寝たって言っても、ほんの一回だし。
「その頃からだね。ヒステリカをぶっ壊してやりたくなったのは。変なこと言ってると思うだろ? 建て直すために必死になったとか言った舌の根も乾かないうちにさ。けどこれが何も変じゃないんだ。あたしがぶっ壊す前に壊れちまったら復讐にならないだろ。きっちり再建してからぶっ壊す。その意気でやってきたのが昨日までのあたしさ。
「関係のない話をいつまでするんだって? それがちゃんと関係しているんだよ。さっき話したあいつとの賭けは、その復讐に関する賭けなのさ。昨日ハイジは言おうとしてたね。今朝だってあともう少しで言うとこだった。言えばよかったじゃないか! 俺があなたとやったらヒステリカが壊れるってさ! そしたらその時点であたしの負けだったのに! こんなぎりぎりまで引っ張ってくれちまいやがって! そうだよあたしはヒステリカをぶっ壊す気でいたんだ! あんたを誘惑してたのはただそのためだったのさ!
「ようやくわかったって顔してるね。あんたは賭けの媒体で、対象ですらなかったってことさ。でもまあ、妙な自信持たない方がいいよ。もともとこの賭けは分が悪いってあたしは思ってたんだ。何せあたしから誘いかけてそういうことになったのはあいつだけだからね。あとはみんな向こうからだった。そんなことはよくよくわかってたってのに、売り言葉に買い言葉であんな賭けはじめたりするから!
「どうだいよくわかっただろ! これがあんたの好きだった昨日までのあたしさ! はっ! さんざん恥かかせやがって! あんたなんか
不意に言葉が途絶えた。口をぽっかりと開けたままキリコさんはぎこちなく固まった。……ぎらぎらと目を血走らせた、別人のような形相で。そうして彼女は立ちあがり、そのまま黙って部屋を出て行こうとする。一人で夜の町に出て行こうとする。
「――キリコさん」
呼びかけても返事はなかった。声をかけるまえから返事がないことはわかっていた。かちゃりとドアの開く音がした。俺がしなければいけないことはわかっていた。
俺は立ちあがり、玄関へ駆けた。閉まろうとしていた扉を押し開け、外に出ようとしていた女を中に引きずりこんだ。悲鳴をあげるのも構わず、彼女をベッドに押し倒した。荒々しくブラウスを引き裂いて、その顔を真上から見おろした。
――こうしてほしかったんだろ。
喉元まで迫りあがってきた言葉をぎりぎりで呑みこんだ。
そうして、俺は気づいた。彼女は震えていた。俺と目を合わそうとせず、熱病のようにがたがた震えていた。……それは当然のことだった。俺は何もわからなくなり、ぐったりと彼女の上に覆い被さった。
「ごめんなさい……本当にごめん」
どうにかそれだけ言ってから、俺は泣きはじめた。なぜ涙が出てくるのかわからなかったが、泣けて泣けて仕方なかった。キリコさんの身体を抱き締めたまま、俺はしばらくただ子供のように泣き続けた。
「……抱いても、いいですか」
長い時間をかけて涙を流し終えたあと、俺は彼女の耳元でそう囁いた。
「……いいも何も、もう抱いてるじゃないか」
キリコさんの返答は素っ気なかった。肩に顎をかけるように抱き締めているのでその顔は見えなかったが、きっと返事と同じように素っ気ない表情をしているのだろうと思った。
思えば俺からキリコさんを抱き締めるのははじめてだった。彼女の身体は思ったよりずっと小さく、どこまでも柔らかで……俺の腕の中でゆっくりと息づいていた。
「そういう意味の抱く、じゃなくて」
「セックスがしたい……ってこと?」
「有り体に言えばそうです」
「今さらなに言ってるのさ」
「俺は今すごく、キリコさんとセックスがしたい」
それは本当のことだった。俺はどうしようもなく彼女とセックスがしたかった。知性のない虫けらのように彼女と交わりたかった。涙を流しきり最後に残ったのは、純粋で混じりけのない透きとおるような欲情だった。
「……駄目だよ」
「どうして?」
「どうしても」
「だから、どうして」
「……そんなのはあたしより、ハイジの方がよくわかってるだろ」
「わからない。聞かせてくれないと」
「……ヒステリカが壊れるんだろ?」
「……」
「あたしとそうなったら、ヒステリカが壊れるんだろ?」
そう言ってキリコさんは俺の頭を撫でた。
「壊れてもいい」
俺ではない誰かが言った。頭を撫でる手の動きが止まった。
「……ハイジの言葉とは思えないね」
「それと引き替えにあなたが抱けるんなら、いい」
「やれやれ。あたしもずいぶん買いかぶられたもんだ」
「だから、抱いていいですか」
「……駄目だよ」
「どうして……」
「いま抱かれたら本気でハイジを好きになっちまいそうだから!」
思い切りよくそう言ってキリコさんはむっくりと起きあがった。ちらりと窓の外を見て、それからブラウスのボタンを直した。大きく一つ伸びをしてこちらに向きなおり、言った。
「屋上に出るよ」
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