143 待宵の月(8)
嵐はもうすっかりあがっていた。風はまだ少し強かったが、雲はほとんど捌けてしまっていた。
濃紺の夜空には満月に限りなく近い――だが満月になりきれない月が浮かんでいた。
その月に照らされる屋上に一台きりあるベンチを、小さなハンドタオルでキリコさんはせっせと拭いていた。
「さ、できた」
腕を腰にあてそう言うと、彼女はそのベンチの端に腰かけた。それからまるで犬を呼ぶかのように、手を下に向け揺らして俺を招いた。
「案外、律儀なとこあるんすね」
「案外は余計だろ。あたしほど律儀な人間はそういないよ」
そんな軽口を叩きながら、キリコさんは穏やかに笑って軽く自分の太腿を打った。俺は身体をベンチに横たえ、その太腿にゆっくりと頭を載せた。
さっきまで忘れていた、女らしい彼女の匂いが薫った。下から見あげると、キリコさんは優しい手つきで俺の髪をくしけずりはじめた。
「……
「え?」
「
「……」
「ハイジに告白された日にね、格好の復讐ねただとぴんときた。アイネちゃんの気持ちがハイジに向いてるのに気づいてたから。歯止めかけてやりゃ逆にハイジは本気になって、あの子も交えてどろどろになると思った。それなのに、あんたたちときたら……。
「あんな規則を守り通してくれるなんてね。あたしはもう、申し訳ないやら切ないやらで。だってそうだろう。あんたたち何歳だよ。十九、二十歳の男と女が恋愛しなくてどうするのさ。ずっとそう言ってやりたかった。……だけど、言えなかった。
「……あのヒステリカを壊したくなかったんだ。勝手な言い種だけどヒステリカには――あんたたちにはあのままでいてほしかった。あんたたちが入ってからのヒステリカは大好きだったよ。しぶしぶはじめたいい先輩の役も、
「今回も、どこかで信じてた。あたしがどんなことしたってハイジはなびかないって……なびいてくれるなって、心のどこかで願ってた。賭けの勝敗なんてはなっから決まってたんだよ。あたしにそんな迷いがあっちゃ、勝てる賭けにだって勝てない。だからまあ今回のことであたしが気に病む必要はないね!
「あんたたちのお陰で、あたしは救われた。あんたたちがいてくれたから、最後の最後、滑りこみでいい思い出つくらせてもらった。あんたたちがいてくれたから、あたしは自分のヒステリカ人生を肯定できた! それは
「……これが、本当のキリコさんですか?」
「うん?」
「いま俺が見てるこの人が、本当のキリコさんなんですか?」
「ハイジが見てきたのは、どれもぜんぶ
そう言ってキリコさんは、悪戯を見つけられた少女のような笑顔をつくった。
「何人ものあたしがいて、どいつもこいつも好き勝手に演じてるんだ。女はみんなそうなんだよ。そこんとこよおく覚えといで」
「はい、よく覚えておきます」
そうして彼女は俺の髪をくしけずるのを止め、何かを思い出したように夜空を見あげた。
「あ、わかった」
「……何がわかったんですか?」
「嘘だよ、
「だから、何がですか?」
「
「だから、何が」
「……賭けに負けたから何も教えてあげられないよ。そういう約束だったんだ、あいつとの」
申し訳なさそうな顔で俺を見おろして、キリコさんはそう言った。それからまた慈しむような笑みを浮かべて、言った。
「ハイジが夢見てきたことは、明日の舞台で叶うよ」
「え?」
「役者も裏方もいないし、観客も来ない。でもハイジの夢はきっと叶う。望んだかたちとは少し違うかも知れないけど……」
「それは、明日の舞台が成功するってことですか?」
「それは……どうだろうね。何をもって成功とするかは人それぞれだし。ハイジにとっての成功があたしにとっての成功だとは限らない。だからここであたしがうんと言うのは、ひょっとしたら嘘になる。そうじゃないかい?」
「それはまあそうですけど……俺にはちょっとキリコさんの言ってることがわからない」
「よくわからないことだらけだよ、この世界はね。それでいいと思わなけりゃとてもやっていけない。そうだろ」
「それでも……好きな人が何を考えてるかわからないのは寂しいですよ」
俺がそう言うとキリコさんは一瞬驚いた目をし、すぐ元の表情に戻った。そしてまた俺の髪をくしけずりはじめた。
「……そうだね。けど、それだって仕方ない。どんなに好き合ったって、二人の人間がいれば二通りの考えがあるんだ。人がお互いわかり合えるってのは誤解か、もっと言えば妄想なんだよ。他人同士が本当にわかり合えることなんてない。でも、それでいいんだよ」
「それは……そうかも知れないけど」
夜空には月が煌々と輝いていた。限りなく満月に近い――だが決して満月ではない月。俺が見ているのに気づいてキリコさんもその月を見あげた。そうしてそのまま、じっとその月を見ている。
俺には彼女が何を思い月を見ているのかわからない。……何を思い見ているかはわからないが、きっとあの月を綺麗だと感じていると思う。そして俺もあの月を綺麗だと感じている。……キリコさんが言うように、きっと俺たち二人はそれだけで充分なのだろう。
「さて、そろそろ時間だね」
「え?」
「カーテンコールが長すぎた。いい加減に捌けないとやじが飛ぶよ」
そう言ってキリコさんは急かすように太腿を揺らした。もう少しそのままでいたかったが、仕方なく俺は頭をあげた。並んで座る格好になり、彼女の方を見た。無邪気そのものの笑みを浮かべる彼女の顔がそこにあった。
「ハイジと一緒にやれて、
「なに言ってんですか。そんな、もうこれでお別れみたいな台詞――」
そっと触れるだけの口づけだった。
唇を離し、俺の頭をくしゃくしゃと掻きまわしたあと。優しく微笑んでキリコさんはベンチを立った。
「契約更新!」
「え?」
「明日の舞台が終わっても、あの契約は有効だから」
「……」
「今度は心が入ってもいいよ。抱きたくなったら言って」
「……」
「けど、もうあたしから迫るようなことはしないから。もしその気なら、今度はちゃんとハイジの方から、ね」
言いながらキリコさんは階段に続く扉に向かい歩いていった。部屋へ帰るのだろうか。……追いかけてもいいのだろうか。
彼女はドアノブに手をかけ、頭だけこちらに向けた。笑顔で小さく手を振った。何となくそうしなければいけない気がして、俺は立ちあがり、彼女に手を振り返した。
――扉が閉まる音を聞いたとき、俺は舞台に立っていた。
昨日、仕込みを行った『あおぞらホール』の舞台。ただ一つ点いている三番サスの光輪の中央で、誰もいない真っ暗な客席に向かい、ぎこちなく手を振っていた。
演技を続けようとして……できなかった。どんな演技を続ければいいか、わからなかった。
手を振るのを止めると、三番サスがフェイドアウトをはじめた。それで俺には、劇がもう終わろうとしていることがわかった。照明が完全に落ち、緞帳の降りる音が聞こえはじめた。……これで劇はもう終わるのだと、俺はもう一度そう思った。
降りてくる緞帳の下に、徐々に小さくなっていく客席の光景を眺めていた。誰もいないその客席に、それでも俺は観客の姿を求めた。緞帳が降りきった。肩の力を抜いた。カーテンコールは、どこからもあがらなかった。
終わってしまった舞台――何もない真っ暗闇の舞台。ようやくたどりついたその場所に立ち尽くしたまま俺は、果たして自分は正しい演技ができたのだろうかと、ふと、そんなことを考えた。
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