144 開演のベル(1)
――目覚めたとき、俺は自分の部屋にいた。
いつものように寝台に横たわったまま、浮遊する埃が朝日を受けて輝くのをぼんやりと眺めていた。薄い壁越しに盛大な蝉の合唱が聞こえた。時計はちょうど八時をまわったところだった。
寝台に身体を起こして部屋を見まわした。いつに変わらない部屋の、いつに変わらない朝だった。そこで俺は、自分の心が妙に落ち着いていることに気づいた。昨日までの出来事を忘れたわけではない。そのすべてを俺は覚えている。だが俺は何も感じなかった。痛みも苦しみも、不安さえもなかった。長い夢から覚めたような静かで清々しい気持ちが俺を包んでいた。
――空蝉。ふとそんな言葉を思った。窓外に響き渡る歓楽の声々。暗い土から這い出し、背中を破って生まれ変わった蝉たち。俺は自分が、その蝉たちの抜け殻だと思った。その通り……ここにあるのは完全な抜け殻だった。それでも俺は階段を下り、一日を始めるために顔を洗い、歯を磨いた。
◇ ◇ ◇
簡単に身支度を整え、扉を開け外に出た。熱せられた大気の洗礼に思わず目を細めた。一層高くなった蝉の声が、眩しい陽光の下に揺らいで聞こえた。絵に描いたような夏日だった。いつに変わらない町の、いつに変わらない朝だった。
本来なら今日は特別な日だった。仲間たちと一緒に創ってきた舞台の幕が開く日のはずだった。だが、その舞台が日の目を見ることはなかった。……昨日までの不可思議な日々を経て醒めきった頭に、それがわかった。ひたすらに取り組んできた半年間の日々さえ、今はもう夢のまた夢のように思えた。
このままどこか遠くへ行ってしまいたいと思った。どこか見知らぬ国の、見知らぬ町へ。そしてその町で隠者のような暮らしに身を落としたい。……感情の消えた胸に、そんな願望ばかりが疼くのが苦々しかった。頭を振ってその思いを消し去ったあと、時計を見た。九時半だった。
予定されていた開場まであと二時間。せめて玄関に立ち、来てくれた客に頭を下げることはしようと思った。――それが恐らく、即興劇団『ヒステリカ』の新隊長としての、俺の最初で最後の仕事になる。それを堪らなく切ないことだと理解する心は残っていた。涙を流せば少しは楽になれる気がした。けれども涙は出なかった。
会場に向かおうとして、ふと思い出し俺は振り返った。
「――さよなら」
小屋に呼びかける別れの言葉。それは高校の頃からずっと続けている舞台当日のジンクスだった。舞台を戦場になぞらえて、もうここへは帰らないと宣言する青臭い儀式。口に出してしまってから、この状況でもそんないつも通りの道を踏む自分を酷く滑稽に思った。
「……さよなら」
だから俺はもう一度小屋に呼びかけた。この敗北の記憶をたしかなものにするために。それから前に向き直り、歩き始めて――本当にもうここへは戻って来ない――漠然とそんな予感が胸を過ぎった。
◇ ◇ ◇
あおぞらホールに着いた俺はそこで不思議な光景を目にした。玄関が大きく開け放たれていたのだ。そればかりではなく、脇には立て看板まで掲げられていた。訝しく思いながら玄関をくぐった。……ロビーには誰もいなかった。先に誰かが来た形跡もなかった。俺はそのままホールに入った。
ホールに入った俺はそこで更に不思議な光景を目にした。舞台に照明バトンが降りていた。サスからの光が床に水たまりのような模様を描いていた。その傍らに一人の男が立ち働いていた。――隊長だった。
……言いたいことは山ほどあるはずだった。だが俺は何も言えないまま、ゆっくりと舞台に近づいていった。そして舞台の際からその上に立つ人を仰ぎ見た。それはやはり隊長だった。長身の背中を客席に向け、淡い照明に照らされる舞台に一人、隊長は手を動かしていた。
「二番サスはフォーカスの再調整が必要だ」
こちらに背を向けたまま、唐突に隊長は呟いた。俺は返事ができなかった。
「三人が入るには狭すぎる。展開からそうなる可能性は高い。違うかな?」
そこで隊長は頭だけこちらに向けた。依然として俺は何も言えなかった。この場に隊長がいることを喜んでいいのか、それとも今日まで失踪していたことを怒ればいいのか、それがわからなかった。……もっと言えば、俺は何も考えることができなかった。
「そうして見ていても仕方ないだろう」
低い落ち着いた声で隊長は言った。俺はやはりすぐには反応できなかった。それでもどうにか頭を動かしてその言葉の意味を考え、適当な返事を引き出して口にした。
「……何をすればいい?」
「サスの操作はできたかな」
「点けたり、消したりくらいなら」
「それならお願いしよう。調光室へのぼってくれないか」
「……わかった」
言われるままに俺は調光室へのぼった。薄暗い部屋には一昨日と同じように、ぼんやりと無機的な制御装置の表示が明滅していた。
窓から頭を出すと早速隊長から消灯の合図があった。合図に従ってすべてのサスを落とした。すると隊長は右手に二本の指を立てて見せた。その意味を察して、二番のサスだけ点灯させるように操作した。
そうしてしばらく点灯と消灯を繰り返したあと、隊長は袖に入って照明バトンを巻きあげた。それから舞台に長竿が立ち、サスを小突く音が一頻り響いた。それも終わると隊長は静かに竿を床に置いてサス明かりの中に入った。
「顔が影になっていないか確認してほしい」
そう言って右に一歩ずれる。俺が手振りでオーケーを出すと、今度は左に二歩ずれる。それで三人分だった。念のためということなのだろう、重ねて左右一通りの確認を済ませたあと、そのまま下に降りてくるように指示があった。俺はそれに従った。
◇ ◇ ◇
「これで準備は整った」
静謐を取り戻した舞台を満足そうに眺めて隊長は言った。鈍い混乱からまだ覚めることのできない俺は、虚ろな頭の中に適当な言葉を探した。
「他のみんなは?」
「もう控えに入っている」
周囲を見渡した。どちらの袖にも仲間たちの姿はなかった。誰も控えになど入っていない。そのことを問おうとして――けれども俺の口は別の質問を紡いだ。
「それで、俺はこれからどうすればいい?」
その問いに隊長は壁の時計を確認した。開場の時間はもう過ぎていた。玄関の扉は開いているから、いつ誰が入ってきてもおかしくない。だが隊長はそれが気にならないのか、緞帳のあがったままの舞台をゆっくりと闊歩し始めた。
「開演まであまり時間がない。済まないが、君にはほとんど控えなしで舞台に立ってもらうことになる」
「それは別に構わないけど……」
その先が出てこなかった。聞かなければならないことが幾つもあって、そのどれも口にできない自分をもどかしいものに感じた。自分が今なぜここにいて、何をしているのかわからなかった。そのくらいしか言葉にできないと思った。……そう思ったとき、俺の舌はようやく動いた。
「正直、俺にはこの状況がわからない。他のみんなの姿は見えないし、裏方だって一人も来ていない。とっくに開場の時間なのに観客も入って来ない。これでどうして舞台ができるのか、俺には全然わからない」
「これからちゃんと説明する。だがそれと併せて、君の役割について話していかなければならない」
「……役割?」
「そう。これから始まる舞台における君の役割だ」
「俺の役割は『兵隊』のはずだけど」
「基本的にはそうだ。だがまず一つ確認してほしい。これから始まる舞台は、今まで想定してきたものとはまったく別次元のものになる。君には『兵隊』を演じてもらう。そしてそれは、疑いのない本物の『兵隊』を演じてもらうということだ」
「……言っている意味がわからない。俺たちはいつだってそういう練習をしてきたじゃないか」
「君の言う通りだ。我々はいつもそういう練習をしてきた。だから君は何も案ずることなくいつも通りの演技をしてくれればいい。ただし――」
隊長はそこでいったん切って間を持たせた。今はもう慣れっこになった隊長の癖だ。それでもかすかな苛立ちを覚えながら、俺は約束にしたがい先を促すための台詞を口にする。
「……ただし?」
「ただし今回の舞台には筋書きがない。完全な即興劇ということになる」
「筋書きはあるだろ。そいつにもちゃんと書いてある」
俺は隊長の持つ『虎の巻』を指差して言った。だが隊長はその冊子を一瞥すると、素っ気ない口調で「これはもう使えない」と言った。
「え?」
「これに書かれたことはもう忘れてほしい。申し訳ないが、既に過去のものになったのだ」
「舞台直前にそんなこと言われてもな……」
「舞台直前に台本が差し変わることなど、そう珍しくもない」
悪びれた色もなく隊長は言った。たしかにその言葉通り、舞台直前に台本が差し変わることなど、そう珍しくもない。だが俺はそれでまたわけがわからなくなってしまった。
「……筋書きがないってことは、完全な即興劇ってことだよな」
「だからそう言っているだろう」
「つまり……今まで仕込んできたねたも使えないのか?」
「そういうことになる」
「……そんなのは無理だ。できるわけがない」
頭を振って俺はそう言った。隊長が分厚い眼鏡の裏からじっと俺を見つめているのがわかった。……そんな目で見られてもできないものはできない。どう考えてもできるわけがない。
「自分の力はわきまえている。筋書きもねたもないのに即興で立ち回れるほどの役者じゃない。……第一、純粋な即興演劇なんてものは、機械仕掛けの神にでもお出まし願わなければ整合なんてとても覚束ないと、前にそう言っていたのは隊長だろう」
投げ遣りな調子で言い放った。ありのままの本心だった。けれども隊長は何を思ったのか、そんな俺を嘲るように声をあげて笑い始めた。
「……何が可笑しいんだよ」
「いや、失敬。……幸福な時代もあったものだと思ったのだ。どれほど矛盾に満ちて、絡まりに絡まった物語であっても、今にしてみれば子供騙しのような舞台装置で綺麗にまとめることができたのだから」
そう言って隊長は笑い続ける。こういう場面で隊長が笑うのは珍しい。そう感じながらも、心の中に苛立ちが膨れあがっていくのがわかった。ここは決して笑っていい場面ではない。
「笑い事じゃない。そう上手くはいかないと言ってるんだ。俺は請け合えない、無理だ」
「……いや、それが無理ではない」
「俺が無理だと言っている。舞台に立つのは隊長じゃなくて――」
「君にはできる。私が保証する」
俺の言葉を遮り、隊長は断言した。なおも反論しようとして、できなかった。その声が確信に満ちていたからだ。
「……根拠でもあるのか?」
「ある。と言うより、私はただ事実を告げているに過ぎない。たしかに通常の舞台であれば困難な仕事だろう。だがそもそも今回の舞台は通常の舞台ではないのだ」
「……どういうこと?」
「以前にも話したと思うが、今回の舞台はあらゆる意味で特殊なのだ。そこは舞台であって舞台ではない。有り体に言えば、こことは別の『もう一つの世界』だと思ってくれればいい」
そう言って隊長はまた舞台を歩き始めた。がらんどうのホールに硬く冷たい靴音がこつこつと響いた。
「その世界で君は土の匂いを嗅ぎ、太陽の熱を感じることができる。風を頬に受け、渇きに水を欲することができる。そうしたすべてを実際に、疑いのない現実として享受できる。それが今回の舞台であり、これから君にはその世界に入ってもらう」
「……何を言っているのかわからない。信じられるわけがないだろう。そんな夢のような話――」
そこまで口にして、俺の台詞は宙ぶらりんになった。刹那、この一週間の記憶が速歩のスライド映写のように俺の意識を通過していった。点が線になり、線が絡まり合って、一幅の模様が織られていくのがわかった。それが何を意味しているのかまではわからなかった。だがその模様を前にして俺の舌は、すぐそこまで出かかっていたものとは別の言葉を紡ぎ始めた。
「つまり……その中で俺は、今この世界で感じられるのと同じように、すべてを感じられるということ?」
「まったくその通りだ。そこは文字通り『もう一つの世界』なのだ。もっともすべてが同じというわけではない。所詮は舞台装置であるから、この世界では起こりえないことが起きたりもする。人々の常識やものの考え方もまるで違っている。だが基本的にはこの世界とまったく変わらない、手で触れることのできる現実なのだ」
沈黙して俺は聞き入った。そうして聞けば聞くほど、ともすれば狂人の妄想に近いとさえ思える隊長の話に引きこまれていく自分がいた。完全に没入できる別次元の舞台装置、五感でたしかめることのできるもう一つの現実。それでは、まるで……。
「そう、君がかねてから望んでいた場所だ」
「……」
言葉が出なかった。たしかにそれは俺がこれまで夢見ながら、たどり着くことができないでいた約束の地だった。……叶うはずのない子供じみた理想だった。そのありえない場所へ、隊長は俺を連れて行ってくれると言う。
「だから演じると言っても素のままの演技でいい。状況に合わせて思った通りを演じてくれればいいのだ。そこにはアイネ君たちもいる。彼女たちも同じように、状況をみて素のままを演じることになる」
「……」
「今まで培ってきた即興劇の腕が試される。そこではあらゆる自由が保証される。君は思いのままを演じられる。思いのままを演じて、世界を君の望む結末に導くことができる」
「……観客は?」
頭に浮かんだ疑問が自然に唇からこぼれた。隊長は立ち止まり、直立の姿勢でこちらに向き直った。
「いると言えばいるし、いないと言えばいない。そこでは全員が観客であり役者だ」
「どういうこと?」
「例を挙げよう。今このホールには私と君しかいない。そして我々は会話を交わしている。つまり役者しかいない状態だ。だがこのホールに別の誰かが入ってきたらどうかな?」
「観客と考えることはできる。その人を」
「しかしその人が観客であり続けるかと言えば、必ずしもそうとは限らない。我々の会話に参加することもできれば、そのまま立ち去ることもできる。つまり――」
「つまり、ここと同じ世界か」
「そういうことだ。だいぶ呑みこめてきたようだな」
そう言って隊長はまた笑った。だがその笑いに俺はもう苛立ちを感じなかった。そこで隊長は時計に目を遣り、ふっと掻き消すように笑うのを止めた。
「時間がない、本題に入ろう」
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