145 開演のベル(2)

「まだ何かあるのか?」


 そう口にして、自分がもうすっかりその気になっていることに気づいた。多くの疑問は消えずに残っていたし、隊長の言うことを信じ切れない気持ちはあった。だが、もしそんな世界があるのなら一刻も早く入りたいという思いが沸々と湧いてくるのを抑えられなかった。自分が立っているこの世界にもう未練はない。俺はもうどこへでも行けるのだ。


 そんな俺をたしなめるように、いつにも増して低く落ち着いた声で隊長はまた語り出した。


「君をそこに向かわせる前に、さっきの話の続きをしなければならない。今回の舞台における君の役割についてだ」


「……役割? 『兵隊』でいいんじゃなかったのか?」


「それでいい。だが君にはこれから三人の『兵隊』を演じてもらうことになる」


「……なんだそれは?」


「基本的には『兵隊』に違いない。戦うべき敵がいて、守るべき相手がいる。ただ、戦うべき敵も守るべき相手もそれぞれ異なる、三人の『兵隊』を並行して演じてもらうということだ」


「……また意味がわからない。俺は一人しかいないのになぜそんな演技ができるんだ?」


「たしかに君は一人しかいない。だから君は時分割で一人三役を演じるのだ」


「……時分割?」


「ある時点ではAであったものが次の時点ではBになり、更にはCになってAに戻るというように、三役を転々と演じてもらう。そう――喩えるなら多重人格症者に似ている。君はあたかも幾つもの人格を併せ持つ者のように、入れ替わり立ち替わりその三者の視点でものを考え、演技をするのだ」


「……無理だ」


 俺はまたも言下に返した。そんな無理なことできるわけがない。けれども隊長は涼しい顔で、「そう難しい話でもないだろう」などと勝手なことを言う。少し前の遣り取りの焼き直しだった。そのときと同じように、俺はまた否定的な言葉を繰り返すことになる。


「難しいに決まってる。多重人格症者を演じるなんて考えたこともないんだ。第一、器用に人格を入れ替えたりできるわけがない」


「入れ替えるのではない。入れ替わるのだ」


「だから……」


 途中まで言いかけて止まった。こんな流れまでさっきと同じだった。例によればここでもっともらしい決め手の説得がくる。果たして畳みかけるように隊長は続けた。


「つまり能動的にではなく受動的に、ということだ。君は何も考える必要はない。自分の意思にかかわらず、三つの人格を転々とすることになる。目を開いたとき、そこにある状況に合わせて動けばいい。どうだろう、それでも難しいだろうか?」


「……気がつけば別の人格になってる、というわけか」


「その通りだ」


「そうして、三つの役でそれぞれ状況が違う、と」


「状況が違い、そして相方が違う」


「相方?」


「君のよく知る三人が、それぞれの役の相方を務めることになる」


「ああ……そういうことか」


 ……それならばたしかにどうにかなりそうではある。変転する状況を受け容れ、それに合わせて演技をすることには慣れている。それこそが我々の即興劇の仕様なのだ。まして三役それぞれに仲間たちが付き添ってくれるというのなら、俺一人そこから逃げ出すような真似はできない。


「……と言うことは、彼女たちの役割もそのまま?」


「そちらも基本的にはそうだ。ただ君に『兵隊』として三役を演じてもらうように、彼女たちにも基本的には各人の役割を押さえたうえで、個々に定められた特別の設定の中で演じてもらうことになる」


「特別の設定、というと?」


「説明しよう。まず『愚者』だが、彼女は孤独の中に心を病んでいる。荒れ果てた古城に一人寝起きし、見えざるものを見、声ならぬ声を聞いて日々を過ごしている。その彼女に対して、君には保護者を演じてもらう。ただ一人の理解者であるとともに、降りかかるすべてのものから彼女を守る騎士である、そうした役割を演じてもらいたい」


「……大して変わらないな。土管が城になっただけじゃないか」


 ペーターとの絡みは一貫して隊長の言うようなものだったから、どこが特別なのか尋ねたつもりだった。その俺の質問に隊長は少し考えこむようにしたあと、「なるほど、そうかも知れない」と低い声で呟いた。


「そうだな。『愚者』に関しては今まで通りでいい。しかし『盗人』では微妙に違ってくる。これから君が行ってもらう町に彼女はあるものを探し、それを盗んででも手に入れようとしている。そうした意味では『盗人』なのだが、そのことを別にすれば、彼女は君の役と同じ『兵隊』なのだ。というのも、彼女の周りは殺伐としていて、人々は戦いに明け暮れている。生きるために平気で相手を殺し、わずかな水と食糧を奪い合う」


「……だから『兵隊』にならざるをえないわけか」


「そういうことだ。そして彼女に対して、君には相棒を演じてもらう。その背中を守り、目的のものを盗み出すためにともに戦う、文字通りの仲間となってほしい」


「わかった」


 力強く返事をした。『盗人』との絡みで過去にそういう展開がなかったわけではない。相手はアイネだし演技が噛み合えばどうにでもなる。問題は何もなかった。あと残るは……。


「そして残る『博士』に関してなのだが、この役だけは少し事情が異なってくる」


「と、言うと?」


「演じ手であるキリコ君に一任してあるのだ。だから実のところ、私にも完全には把握できていない」


「へえ……隊長にしては珍しいじゃないか」


 俺はわずかに非難をこめて言った。すべてを把握し、何が起こっても対処できるように備えるのが隊長の舞台監督としての身上だった。それをせず、役者にすべてを委ねることは責任の放棄とも言える。だが隊長の次の一言が俺にそのことを忘れさせた。


「彼女にとっては最後の舞台だからな」


「……なるほど」


「君はおそらく『博士』の意のままに動き、彼女の障害となるものを排除していく従僕的な傭兵を演じることになると思う。それ以上のことは私の口からは言えない。……それが彼女との約束なのだ。許してもらえるだろうか」


 隊長はそう言うと、沈黙して俺を見つめた。俺もまた黙ったまま首肯でそれに応えた。たしかに説明を聞けば一人三役もそう難しくなさそうだ。俺は肩の力を抜いた。


「しかし見事なまでにばらばらだな。ひとつの舞台としてまとまるようには思えないけど?」


「その点は心配ない。たしかに一見するとばらばらだが、根底では有機的に結びついている。そのあたりは演じていく中で見えてくるだろう」


「……そうか、わかった」


「君の役割に関する私からの説明は以上だ。何か質問があれば答えるが」


「いや、もういいよ。俺からは何もない」


 俺はもうどこへでも行ける。さきほどの言葉を頭の中でもう一度そう呟いた。悟りとも諦めともつかない混じり気のない思いが俺の心を満たしていた。ただ今は一刻も早くその場所に向かいたかった。だから俺はそれを声に出して言った。


「もういい。早くその場所へ行きたい」


「それでは最後にひとつだけ確認しておきたい」


 一拍の後、ひときわ大きく改まった声で隊長は切り出した。大詰めに入る合図だった。俺は背筋を伸ばして隊長を見た。


「これは私が『ヒステリカ』の隊長として君にする、最後の確認になる。答えてほしい――即興劇を演じるうえで最も大切なことは何か?」


 反射的に俺は記憶を探っていた。答えはすぐに見つかった。


「最後まで演じ切ること」


「そう――演じ始めた役を最後まで演じ切ることだ。今の説明で私は君に、素のままの演技でいいと言った。しかしそれはあくまで最初だけだ。舞台の幕が開いたら君は否応なく演じ始める。そうして一度演じ始めたら、君はその役割を最後まで演じ切らねばならない」


 俺はその言葉に頷きながら、隊長がなぜこんなことを言うのか訝しく思った。今さら確認するまでもない、即興劇とは――演劇とはそういうものだ。演じ始めた役は最後まで演じ切らなければならない。それが最も大切なことであり、もし最後まで演じ切ることができなければ……。


 そこまで考えて、俺は全身の毛が逆立つような戦慄を覚えた。


「もしそれができなければどうなるか。君にはわかるはずだ」


「――」


 戦慄は長く尾を引いた。冷水を浴びせかけられた思いだった。演じ始めた役を最後まで演じ切れなかったとき――それは世界が崩れるときだ。それが俺の思うような劇の中の世界ならば当然そうなる。俺一人落ちるだけで世界そのものが崩壊する。それが舞台の条理だ。今の今まで、俺はその事実に気づかないでいた……。


「そうだ。その気持ちを決して忘れないように」


 俺の心を読んだように隊長は言った。俺は大きくひとつ頷いて、隊長が最後にくれた確認を胸に刻んだ。そこで俺の心に小さな感動がおこった。最後の最後で、隊長はやはり隊長だった。長い長い話の終わりに、何よりもそのことが俺を勇気づけてくれた。そして――俺は自分がもはや朝にそうであったような抜け殻ではないことを知った。機は熟した。俺はもういつでも舞台に立てると思った。


 ――唐突にブザーの音がホールに鳴り響いた。


 「時間だ」と隊長が告げた。おもむろに緞帳が降り始め、客席の照明が消えていくのが見えた。ゆっくりと緞帳に隠れていく誰もいないホール。観に来てくれるはずだった人の面影をほんの少し思い描いて、俺は隊長に向きなおり最後の指示を求めた。


「準備はできた。その場所へ連れていってくれ」


「何を言っている。私が連れて行くのではない、君が自分で入るのだ」


「……自分で入る? どうやって?」


「いつもやっているだろう。私が君たちの儀式に手を貸すことはなかったはずだ」


 そう言って隊長は下手袖の暗がりに歩いていった。そのまま奥に入ってしまうのかと思ったが、隊長はそこで屈みこむと、白布の上に置かれた小物から何かを取りあげたようだった。


「いつもやっている……ああ。これのこと?」


 戻ってくる隊長に、俺は自分の額を指で弾く真似をして見せた。隊長は小さく頷いた。


「だが今回は、それでは少し威力が足りない」


 そう言って俺の前に立ち、右手をぬっと突き出した。何気なく受けとってから、俺は思わずそれを取り落としそうになった。――記憶に新しい黒の鋳鉄。ずっしりと重いそれは、あの日クララに手渡されたリボルバーだった。


「妹が出過ぎた真似をしたようだな。私から謝っておく。申し訳なかった」


「……これ、キリコさんの部屋に忘れてきたと思うんだけど、なんで隊長が持ってるんだろ」


 呆然としたまま俺は独り言のように呟いた。隊長はそれに応えず、厚い眼鏡の裏からじっと俺を見つめて、言った。


「それを使うといい」


「え?」


「それで自分を撃つといい」


 一瞬、意味を計りかねた。次いで庭園での情景が生々しくフラッシュバックした。銃声と閃光、立ちこめる硝煙の臭い。……回答は何となくわかった。それでも俺は問わずにはいられなかった。


「……自殺でもしろってのか?」


「面白いことを言う。弾の入ってない銃で、どうして自殺などできる?」


 薄く微笑んで隊長は言った。その厳つい笑顔に、似ても似つかない妹の微笑が重なった。そして俺はクララの言葉を思い出した。彼女も同じことを言っていた。これで自分を撃て――そう言って彼女は俺にこの銃をくれたのだ。


「自分を……撃てばいいのか」


「そういうことだ」


「……どこを撃てばいい?」


「頭がいいだろう。心臓でもいい」


 にわかに喉がからからになるのがわかった。言い知れない恐怖が胸を黒く塗り潰していった。だがもう後戻りはできない。俺は頭をあげ、隊長を凝視した。そして沈黙のまま、大きくひとつ頷いた。


「銃声は開幕の合図を兼ねる。2ベルが鳴ったら――」


 ――その言葉を待っていたかのように、もう一度ブザーが鳴った。


「――少し時間を置いて、お願いする。タイミングは君に任せる。それでは始めよう。我々の――即興劇団『ヒステリカ』の舞台を」


 すべての照明が落ちた。光から転じた青緑の闇に、隊長が奥へと去っていく黒い影が見えた。


 やがてその足音も消え、取り残された俺の耳には何も届かなくなった。……舞台の始まる前の濃密な静寂。自分の心臓の音を鼓膜の裏側に聞いた。早鐘を打っていたそれは、ゆっくりと時間をかけ静まっていった。


 俺は拳銃を右手に持ち直し、暗闇の中にしばらく眺めた。そしてそれを逆さまに構え、銃身を口の中に挿し入れた。錆びた鉄の味が口中に広がっていった。引き金に指をかけた。それから静かに目を閉じた。


 不思議と落ち着いていた。もう恐怖はなかった。この銃から放たれた弾丸に俺の頭蓋が砕け散ったとき、俺はその場所へ行く。そこで俺は三つの人格を転々としながら、見たことも聞いたこともない奇妙な舞台を、彼女たちとともに最後まで演じ切る。……俺はそれを信じた。覚悟はできた。


 ずっと目指し続けてきた場所――仲間たちの待つ『向こう側の世界』


 瞼の裏にその風景を思い描きながら、俺は優しくゆっくりと、愛おしむように引き金を絞った――

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