146 新しい契約(1)
――低い唸りを聞いていた。
ブウン、という虫の羽音のようにかすかなその唸りは、それ以上大きくも小さくもならずに、いつまでもあとを引いた。
視界は一面の白だった。けれども目が慣れてくるうち、その視界の真ん中に一本の
そこに至って俺は自分が寝台に横たわり、明かりの点る天井を見上げていることに気づいた。灰色のコンクリートが剥き出しの天井と、よく見れば寿命が近いのか、ほの暗い飴色の光を放つ蛍光灯……。
低い唸りは続いていた。目に映る天井の明かりをぼんやりと眺めながら俺は、最初、その唸りを古い蛍光灯の放電の音であると聞いた。
「――気がついたかい?」
反射的に声のした方を見ると、半分ばかり開いたカーテンの向こう側に白衣の女性が立っていた。
キリコさんだった。普段はあまりしない眼鏡をかけて、手にはカルテのようなものを持ち、ペンを握っている。まるで女医のようなその姿は、今回の舞台のためにあつらえた《博士》の衣装だった。
そのことに気づいて――あの銃声をきっかけに劇はすでにはじまっているのだということを、俺は理解した。
「おはよう」
「……おはようございます」
「気分はどうだい?」
「まあまあです」
「まあまあ、と」
そう言いながらキリコさんはカルテに何やら書きつけるようにペンを走らせた。いったんペンを止め、それをこめかみのところへ持っていってまたカルテに立てる。
……見事な演技だと思った。今日の彼女はのっけから走っている。一方で俺は、自分の配役がどういったものかさえまだよく掴めていない。
「立ってごらん」
「はい」
言われるままに俺は身体を起こし、寝台を降りて立ち上がった。「大丈夫?」と、またキリコさんの声がかかった。
「え?」
「目眩なんかはしない?」
「しません」
「飛んだり跳ねたりはできそうかい?」
「飛ぶのは無理だけど、跳ねるのなら」
俺がそこまで言うと、キリコさんは大きく見開いた目をこちらに向けた。そしてすぐ、可笑しくて堪らないというように笑い出した。
「あはは、あはははは……」
「……」
何が可笑しかったのだろう、カルテを抱きしめるような格好でキリコさんは一頻り笑った。最初のうちは呆気にとられてただ眺めていた俺も、笑いがあまりに長く続くので終いには少し気分が悪くなった。
「……何が可笑しいんですか」
「ああ、いやごめんよ。不意打ちだったもんだからさ。……こんなに笑ったのはいつ以来だろ」
そう言ってキリコさんは眼鏡を額にずらし、涙を拭った。それから元の表情に戻ってまたカルテに何かを書きつけながら、「そのうち空も飛べるようになるよ」と小声で呟いた。
「え?」
「膝を曲げてみて。屈伸」
「……はい」
いまいち噛み合わない会話をそのままに、俺はしぶしぶその場で屈伸した。そのあとも前曲、上体そらし、首まわしとキリコさんの注文は続き、その度に俺は注文通りの動作をした。
その間、彼女は俺とカルテに交互に目を走らせ、忙しなくペンを動かして観察の結果を記録しているようだった。
「……よし。問題ないようだね」
深呼吸までさせられ、まるでラジオ体操でもしているような気分になってきたところで、キリコさんはおもむろにカルテを持つ手を下ろし、こちらを見た。
「動いて喉が渇いただろ」
「え? ……まあ、少し」
「ミネラルウォーターでいいかい?」
そう言ってキリコさんは俺の返事を待たずにカーテンの陰に隠れた。こつこつと固い靴音に続いて扉の開く音、そして閉じる音。……そのあとにまた虫の羽音のような低い唸りが戻ってきた。
キリコさんがいなくなったカーテンの向こう側をぼんやり眺めながら、その音の正体が何であったかようやく理解した。ほとんど壁一面に設けられ薄緑色の数字や波形を映し出す計器のようなもの。折からの音を発しているのはその装置だった。
――そこではじめて、自分は今どこにいるのだろう、と俺は思った。
どうやらここは俺がさっきまでいたあの舞台ではないようだ。この寝台もカーテンも、そしてあの計器のような装置も、俺たちが準備していたあの舞台にはなかった。
何よりここには天井があって、それが吊るしでない証拠に蛍光灯が点っている。あの舞台ではない、どこか別の場所だと考えるしかない。だがここがあの舞台でないとしたらいったい――
考えの糸が切れたところで、水を入れたコップを手にキリコさんが戻ってきた。
「お待たせ」
キリコさんから差し出されたコップを俺は無言で受け取り、寝台のへりに腰を降ろした。
キリコさんはもう一度カーテンの陰に隠れ、背もたれのない小さな椅子を引いてくると、それを俺の正面に置いて腰掛けた。
「……」
椅子に座り脚を組んだキリコさんはこちらをじっと見つめて、だがそれきり何も喋ろうとしない。その奇妙な注視のなかで渡されたコップの水を飲みながら、自分が今どのように振る舞うべきなのか、まったく見当がつかなかった。
《博士》としてのキリコさんが目の前にいる以上、もう劇ははじまっているとみていい。けれども俺はこの場で彼女にどんな台詞をかけていいかわからない。そればかりか自分の役も――ここがどこであるかさえも、俺は把握できていない……。
「あたしのことは知ってるかい?」
「……え?」
「あたしのことだよ。あんたがあたしについて知ってること言ってみておくれ」
「キリコさんについてですか?」
その名前を出した瞬間キリコさんの表情がわずかに、だがはっきりと揺らいだ。その表情の変化で、俺は自分の失敗を悟った。
……取り返しのつかない失敗だった。こともあろうに《博士》の演技に入っている彼女を、俺は普段通りのコードで呼んでしまったのだ。
「そう、あたしのことだよ」
「……」
「何おかしな顔してんだい。そのキリコさんについてあんたが知ってることを教えてほしいって、あたしはそう言ってるんだよ」
……失敗をフォローしてくれたのだろうか。一瞬、そう思ったが、彼女の表情がそうではないと言っていた。文字通り、俺が知っているキリコさんについて話せと、こちらに向けられた真剣な目がそう訴えていた。
「キリコさん……について話せばいいんですね?」
「その頭の横についてるのは飾りかい? さっきからそう言ってるじゃないか」
真剣な表情を崩さないまま、少し焦れたような調子でキリコさんはそう言った。
……やはり彼女が聞きたがっているのは、俺が知っているキリコさんについてで間違いないようだ。それを確認して内心に大きく溜息をついた。つまり、俺がその名前を口にしてしまったことはたいした失敗ではなかったということだ。
「答えたくないってことかい?」
「え? ああ、いや……そうじゃないです」
「だったらどうして答えてくれないんだい」
「その……何をどう答えればいいのかわからなくて」
咄嗟に口にした台詞だったが、考えてみればその通りだった。キリコさんについて話せと言われても、何をどう答えていいのかわからない。
サークルの先輩。気心の知れた仲間。微妙な状態で宙ぶらりんになっているなりかけの恋人。……そのどれもこの場での答えには合わない気がする。
「よく喋る方かい?」
「え?」
「あたしとはよく喋る方か、ってことだよ」
「とてもよく喋る方です」
「とても、ね。接点は?」
「接点?」
「何か接点がないとおかしいじゃないか。とてもよく喋るってからには」
「ああ、それなら演劇」
「……演劇?」
流れに任せて口にした演劇という言葉に、キリコさんは意表をつかれたような声を出した。
まずい答えだっただろうか……そう思いキリコさんを見守った。だが彼女の顔には、はっきりそれとわかる驚きのあとに、どんな表情も浮かんではこなかった。
「……何かおかしなこと言いましたか?」
「いや……何でもないよ。つまりあたしとは一緒に演劇をする関係ってことだね?」
「そうです」
「それだけかい?」
「……と言うと?」
「演劇をする仲間以上の関係は、あったかってことさ」
そう言って口をつぐむと、キリコさんはおもむろにこちらに視線を向けた。その顔から驚きの表情はとっくに消え、代わりに心の底まで見透かすような冷徹な瞳が、眼鏡の奥からじっと俺を見つめていた。
「……」
彼女が何を聞きたがっているのか、それは理解できた。なぜそんなことを聞くのかはわからなかったが真剣な質問であること、それも理解できた。
さすがに躊躇する気持ちはあった。けれども俺は覚悟を決め、その難しい質問への答えを探した。
「仲間以上の関係になる、その一歩手前で止まってます」
そう口にしたことではじめて、あの屋上での気持ちが心に蘇った。お互いの素顔をさらけ出したあとの、だがどこかですれ違ったままのもどかしい思い。
あのとき俺たちは手をのばせば触れ合えるすぐそばまで歩み寄って――回答の言葉通り、時間はそこで止まっている。
……それにしてもなぜ彼女はこんなことを聞いてくるのだろう。一度は流した疑問がまた鎌首をもたげて来るのを感じた。
昨夜のあれは改めて口に出すようなことではない。そんなことはこの俺でさえわかる……キリコさんにわからないはずはない。それなのに――ましてなぜ今ここで彼女はそれを俺に言わせようとするのか……。
「……なるほどね」
やがて独り言のように呟くと、そこでようやくキリコさんは表情を弛めた。
「そういうことなら、あまり突っこんだところを聞くのは野暮ってもんだね」
「……何で」
「ん?」
「何で、そんなこと聞いたりするんですか?」
「あたしが知らなかったからだよ」
「……」
「あんたが知ってるあたしたちの関係を、あたしは知らなかった。だから聞いとく必要があったってことさ」
「……」
「悪かったね、変なこと聞いちまって」
そう言ってキリコさんはこちらへ手を差し出した。何のために差し出された手かわからず反応できないでいる俺に、「コップ」と一言彼女はつけ加えた。
気がつけば手の中のコップはとっくに空になっていた。何も言えないままそれを渡すと、キリコさんはまたさっきのようにカーテンの奥へと入っていった。
「……」
その背中を見送ったあと、彼女が座っていた椅子に視線を戻した。そうしてそのまま、ぼんやりとその椅子のあたりを眺めた。
……さっきキリコさんが水をとりに行ったときのように状況を整理しようという気は起こらなかった。計器の低い唸りにも、もう何も感じなかった。
ここはどこなのだろうと、うまく働かない頭で再びそう思った。
ここが隊長の言っていた世界なのだろうか……。目が覚めてからの謎はひとつも解決されず、それどころか時を追うごとに増えてゆく。自分が今どこにいて何をしようとしているのか、それさえもわからない……。
やがてまたカーテンの奥からキリコさんが現れ、目の前の椅子に座り脚を組むまで、俺はほとんど何も考えることができなかった。
「さて、それじゃ本題に入ろうか」
「……」
「ハイジ――でよかったね?」
「……」
「あれ、違ってたかい?」
「……それで合ってます」
「何だ。それだったらもっと早く返事しておくれ。なら、これからあんたのことはハイジと呼ばせてもらうよ。それでいいね?」
「それでいいです」
「あたしのことは……そうだね、
「はい。
「素直でいいじゃないか。まあ、あたしとしては何と呼んでくれようが構わないんだけどね。……さてと、それじゃ呼び方が決まったところで、だ」
そこで言葉を切るとキリコさんは組んでいた脚を戻し、両手を膝の上に置いた。そうして改まった表情でこちらに向き直った。
「このあたしと契約を結んでほしい」
「契約?」
「そう、契約だ」
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