147 新しい契約(2)

「有り体に言えば、あたしの道具になってもらいたいんだ。ハイジに」


「道具……と言うと?」


「平たく言えばボディガード兼使いっ走り、ってとこかね」


「……」


「あたしの命令には逆らわない。どんな危険なことでもやってのける。一身を顧みない忠実な道具……そういうのになってもらいたいのさ」


 彼女の言う言葉の意味がわかってくるにつれ、そのあまりの理不尽さに唖然とした。


 キリコさんの言っているそれは、ほとんど奴隷だ。……いや、奴隷などという生やさしいものではない。彼女の言葉通り、まさに都合のいい道具そのものではないか。


 これまでの会話を思い出す限り、が俺と話すのはこれがはじめてだと考えていい。そのはじめて話す相手に、まるで週末の約束でもとりつけるかのように、平然とした口調で道具になれと彼女は言う……。


「……ずっと、ってことですか?」


「ん?」


「道具になれってのは、これからずっとですか?」


「ああ、説明が足りなかったね。ずっとじゃないよ、当面のごたごたが片づくまでだ。そうだね……次第によっては一週間かそこらで片づくかも知れない」


「……期間契約ってことですか」


「まあ、そういうことになるね」


 そこでふと、隊長の言葉を思い出した。照明の調整を済ませたあとの説明で、俺は否応なく演技をはじめる、と隊長は言っていた。しばらくは素のままの演技でいい、だがそのうちに否応なく俺は演じはじめる、と。


 そしてその予言にたがいはなく、俺は今ここに否応なく演技を迫られている。


「……」


 だがその一方で、これが劇の冒頭だとすれば、なかなか悪くない入りだと思った。


 目が覚めてすぐ、右も左もわからないまま不条理な契約をつきつけられるこの展開は、劇としては面白い。流れを考えれば当然、俺はその契約を呑むべきなのだろう。しかし、それにしても……。


「もちろん、それ相応の対価は約束するよ」


「え?」


「そりゃそうだろ。人間がじゃ動かないことくらい知ってるさ。ちゃんと対価は約束するよ、あたしに払える限度でね」


「……」


「希望を聞こうじゃないか。ハイジがほしいものを言ってごらん」


「情報」


「ん?」


「いま一番ほしいのは情報です。ここがどこなのか、俺がなぜここにいるのか。博士ドクターが知っていることを――」


「ストップ」


「……」


「……そいつはあげられないんだ。申し訳ないけど」


 その言葉を映したように、申し訳なさをいっぱいにたたえた表情でキリコさんは呟いた。……それでもう、俺は何も言えなくなってしまった。


 彼女のその返事は、これから俺が何もわからないままに演じていかなければならないことを示唆していた。そのことを思って、たった今はじまったばかりの劇の行方に、俺は不安を覚え始めた。


「他にはないのかい?」


「え?」


「話の続きだよ。さっきのじゃなくて、何か他にほしいものはないのかい?」


「――キリコさん」


「は?」


「それなら、俺はキリコさんがほしい」


 そう言って俺は真っ向からキリコさんを見つめた。


 それは賭けだった。その言葉にどう反応するかで、わずかでも彼女から情報を引き出そうとしたのだ。


 だがキリコさんの表情は動かない。きょとんとした顔で惚けたようにこちらを見ている。


 失敗した……そう思い、取り消そうと口を開きかけたところで、突然の笑い声が部屋に響き渡った。


「あはは、あははははは……」


 堰を切ったように哄笑するキリコさんを呆然と眺めた。まるでさっきの焼き直しだった。そしてまたしても俺には、何がのかわからない。


 けれども今回の笑いはさっきほど長く続かなかった。不意に笑うのを止め居住まいを正すと、キリコさんは眼鏡を外してその顔をぐっ、と俺の顔に近づけた。


「わかった。対価としてこのあたしをあげようじゃないか」


「……」


「ただし後払いになるよ。すべてが終わったとき、あたしもハイジも無事だったらね」


「……」


「それまではお預けだ。指一本触れても許さないから、そのつもりで」


「……」


「返事は?」


「はい」


「契約成立だね」


 そう言ってキリコさんは元の姿勢に戻り、代わりに右手を差し出してきた。今度ばかりは、その差し出された手の意味がわかった。


 その手を取ろうと半ばまで腕をのばし――けれどもそこで止めた。


 その手を取った瞬間、この劇での俺の役が決まる……それがわかったからだ。


「どうしたんだい?」


「……指一本触れるなって言われたばかりです」


 咄嗟に言い訳を探して俺がそう答えると、キリコさんは満足そうな笑みを浮かべて、戻しかけていた俺の右手を取った。


 ――それで、俺の役は決まった。


「訂正するよ。指一本触れたら許さない、あたしの許可なしにはね」


「はい」


「それからさっきも言ったようにあたしのことは博士ドクターって呼ぶように。名前でもあたしはいいけど、周りがうるさいんだ」


「わかりました」


「頼りにしてるからね。よろしく頼むよ」


「はい。博士ドクター


「さて、ならさっそく準備にかかろうか」


◇ ◇ ◇


 キリコさんについて部屋を出ると、そこは廊下だった。


 薄汚れたコンクリートの壁は大学の古い校舎のそれに似ている。けれども延々と先まで続くその壁に窓はなく、天井に一定の間隔で並ぶ小さなランプの他に明かりのないその風景は、大学の校舎よりむしろトンネルのようだと、しばらく歩いてからそう思い直した。


 こつこつと刻まれる二人分の靴音が耳に届くすべてだった。キリコさんは俺の少し前をただ黙って歩き続けている。部屋を出てからは一言もなく、こちらを顧みることもしない。


 長い長い廊下だった。右手の壁にはときどき思い出したように扉が現れたが、キリコさんはそれを無視して先へ先へと進んだ。


 元より行き先など教えられていない。黙って歩き続けていた俺も、そのうちさすがに不安めいたものを感じはじめた。真っ直ぐな一本道なのにまるで迷路に迷ったような気がする。


 せめてどこへ向かっているかだけでも聞きたい。そう思い口を開きかけたところで不意にキリコさんは立ち止まり、「ついたよ」と言ってドアノブに手をかけた。


 キリコさんのあとについてドアを抜けると、そこには予想していたよりずっと広い空間が広がっていた。


 天井こそ低いが、テニスコートがすっぽり収まるほどの部屋。手前にはバーカウンターのような台が壁から壁まで渡るように並べ置かれている。そしてその向こう側に広がる空間には、人間の身体を模したいかにもという感じの標的が、横並びに三つ天井から吊り下げられている。


「少し待っててくれるかい?」


「え? あ、はい……」


 反射的に返事をして振り向くのと、キリコさんが後ろ手にドアを閉めるのとが同時だった。それを認めたあと、俺は頭を元に戻してまたがらんどうの部屋を眺めた。


「……」


 室内射撃場――そう呼ぶより他にない場所だった。漫画や映画では何度か見たことがあるが、実際に目にしたのはもちろんこれがはじめてだった。


 バーカウンターのこちら側に立ち、そこからあの標的を狙って撃つのだろう。標的までは十メートルほどで、それが近いのか遠いのか俺にはわからない。ただ室内射撃場というのは、このくらいの距離が一般的なのかも知れない。


 キリコさんを待ちながらしばらくぼんやりとその部屋を眺めた。そうしているうちにふと、記憶の中の室内射撃場に比べて目の前のそこがずいぶん粗末でみすぼらしいことに気づいた。


 仕切の台は造りつけではなく明らかにどこかから持ってきたものだし、目を凝らしてよく見れば標的は薄いベニヤにマジックか何かで書かれたものだ。何よりここはどう見ても普通の部屋だ。壁も天井もコンクリート打ち放しで、射撃のために作られた部屋にはとても見えない――


「……」


 改めて部屋を眺め、そこで俺は一つのことに気づいた。三つの標的はカウンターからいっぱいに距離をとり、向かいの壁すれすれに吊り下げられている。つまり、標的のすぐ裏にコンクリートの壁がある。……あの標的を狙うことを考えれば、その位置関係はおかしい気がする。


 跳弾という言葉がある。コンクリートのような堅固な構造物の中で銃を扱う上でどうしても知っておかなければならない言葉だ。……よくわからないが、あれでは標的を外した場合、弾が跳ね返ってくるのではないか。いや、たとえ標的に命中したとしても、あの薄いベニヤではそのまま突き抜けて……。


「待たせたね」


 疑問に嵌りかけたところでキリコさんが戻ってきた。ちょうど小振りの楽器入れのような黒いケースを提げている。それが何であるか俺が尋ねる前に、彼女はカウンターにそのケースを載せ、留め金を外して中に入っていたものを取り出し、俺に差し出した。


「……」


 思わず受け取ったそれは――拳銃だった。ルガーP08に似た、それよりも少し銃身の短い自動拳銃オートマチック


 銃把に触れる指先には金属的な冷たさを感じる。だがそれにしてはやけに軽い。銃身に銘らしきものが刻まれていないことからしても、どこか胡散臭い感じのする銃だと思った。


「……これは?」


「見りゃわかるだろ。拳銃だよ」


「そういうことじゃなくて……」


「使い方がわからないってことかい?」


「いや、だいたいは。……と言うかこれ、俺に使えってことですか?」


「決まってるだろ。それ以外に何があるのさ」


 キリコさんはさも当然といったようにそう言うと、部屋の奥に向かい歩いていき、そこで腕を組み壁に背もたれた。「使ってみな」という素っ気ない声が響いた。俺はキリコさんから視線を外して拳銃を眺め、そしてまた彼女に目を戻した。


「少し、いじってみてもいいですか?」


「そのために渡したんじゃないか」


 そう言ってキリコさんは少し意地の悪い笑みを浮かべた。俺はカウンターに向き直り、右手に握っていた銃をそこに載せた。


 ごとり、と重く小さな音がした。やはり金属製のように感じられる……だがそれにしては軽い。傍らには留め金が外れたままのケースがくすんだ緑色の内張を覗かせている。銃を嵌め入れるためのくぼみと、その横におそらくカートリッジのためのくぼみ。


「……」


 もう一度銃を手にとり、カートリッジを弾倉から引き抜いた。途端、数個の実包が音を立ててカウンターにこぼれ落ち、思わず息を呑んだ。


 カートリッジの中に四発と、カウンターの上に三発……合わせて七発。鈍く光る真鍮の薬莢に、それがであることを思った。それを確認したあと、役作りで覚えた知識を思い返しながら実包をカートリッジにこめて、元通り弾倉に戻した。


「撃ってごらん」


 後ろからかかった声に振り向くと、キリコさんは腕組みをしたまま標的に向け顎をしゃくって見せた。俺はキリコさんから視線を外して標的を眺め、そしてまた彼女に目を戻した。


「キリコさん」


「博士だろ?」


「すみません、博士」


「何だい?」


「あれを撃つんですか?」


「そうだよ」


「危険じゃないすか?」


「何が危険なのさ」


「すぐ裏が壁だし、外して弾が跳ね返ってきたら」


 俺がそう言うとキリコさんは何を思ってか意外そうな顔をした。それから少し考えるように視線を外したあと、「外さなきゃいいだろ?」と、当たり前のことを言うように言った。


「いや……保証できないです。はじめての銃だし」


「大丈夫、外れやしないよ。あんたの腕前はあたしが保証する」


「だいたい命中してもあんな薄いベニヤ板じゃ……」


「ああもう、じれったいね。あの向かいの壁はああ見えてウレタン製なんだよ」


「え? あ……そうなんですか」


「そうなんだよ。射撃場なんだからそのくらい考えてあるのは当然だろ? だから余計な心配はせず安心して撃ってくれていいよ」


「わかりました」


 何となくはっきりしない思いは残ったが、そのキリコさんの言葉で俺は納得した。


 たしかに曲がりなりにも射撃場なのだから、そのくらい考えてあるのは当然だ。そう思い、改めて標的に向き直った。


 ――同時に、手の中の銃が急に重みを増したように感じ、緊張が背筋をのぼってくるのを覚えた。


 遊底をスライドさせて弾を装填し、両手に構えて腕をいっぱいに伸ばす。照星を見つめ、狙いをベニヤ板に描かれた人間の右胸に定める。そうして右手の人差し指にかけた引金を、ゆっくりと絞る――


「……っ!」


 轟音とともに激しい衝撃が走った。肩から腕にかけての痺れは、銃声の残響が消えたあとも長く尾を引いた。


 標的に目をやった。狙った標的の右胸の下、ちょうど脇腹のあたりに、さっきまではなかった穴が穿たれていた。振り返ってキリコさんを見た。


「ちゃんと心臓狙って撃たないと撃ち返してくるよ」


 まるで表情を変えず、突き放すような口調でキリコさんはそう言った。……冷水を浴びせられた思いで俺はまた標的に向き直った。


 そうだ命中してはいない。あの右胸にてなければ練習の意味がない。


「弾、ぜんぶ使っていいんですね?」


「ん? ああ、もちろんだよ」


 その答えを確認して、俺は弾をこめるためにまた遊底をスライドさせようとした。けれども引くことができない遊底に、弾がもうそこに装填されていることに気づいた。


 ……そういえば自動拳銃オートマチックというのはこういう構造だった。この期に及んでそんな基本的なことさえ忘れていた自分にふがいないものを感じながら、また銃を両手に構え腕を伸ばし、照門と照星の延長線上にベニヤ板の標的の右胸を睨んだ。


 標的によく狙いを定め、残る六発の弾を撃った。


 二発目は初弾と同じ、右脇腹のあたりに中った。三発目は右の肩に、四発目は左の肩に中った。五発目は外れ、六発目は左胸のあたりに中った。そして最後の七発目が、右胸に記された的の中心近くに命中した。


 今度こそ自信を持って、俺はまたキリコさんを振り返った。


「どうかしたかい?」


「え?」


「あたしのことは気にせずに続けておくれ」


「いや、さっきので終わりです」


「何が終わりなんだい?」


「何って……弾が」


「弾? 弾は終わってなんかいやしないさ」


「え?」


「終わってなんかいないだろ。手に持ってるそいつをよく見てごらんよ」


 俺の手元を指さしてキリコさんはそう言った。言われるままに手の中の銃を眺めて――俺はその実包を目にした。

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