020 集団催眠(7)
「……始めるも何も、その眼鏡の下についてる立派なものは節穴かい? 一人足りてないだろ、どう見ても」
吐き捨てるようにキリコさんは言った。けれども隊長は平然とした表情を崩さず、「何の問題もない」と小さく呟いた。
「はあ……? 何言ってるんだいこの男は。問題がないが聞いて呆れるよ。今日の練習にアイネちゃんがいなくて、いったいどう問題がないって言うんだい?」
「だから何の問題もない。今日は少し私から説明をさせてもらうだけで終わる。彼女にはもうその説明をしてあるのでね」
――沈黙があった。俺は立ち上がったままの不自然な姿勢で固まり、座りなおすこともできなかった。隊長が何を言っているのか理解できなかった。最初に立ち直って口を開いたのはやはりキリコさんだった。
「……何を言ってるのかさっぱりわからないよ。どういうことか詳しく説明してもらおうじゃないか」
「詳しく説明しよう。長い話になる。ハイジ君も腰をおろしたまえ」
言われるままに俺はその場に腰をおろした。隊長は舞台の方へ歩きながら、抑揚のない口調でその話を語り出した。
「今まで黙っていたのは本当に申し訳ないが、今回我々が行おうとする舞台は、ひとつの遠大なる演劇理念に基づいたものだ。私は今日までその理念を実現するためにあらゆる努力を払ってきた。知っての通り私は今回の舞台を最後にヒステリカを退団する。その最後の舞台に、私の演劇生活の集大成としての理想の現出を求めている。そのためには君たちの協力が必要だ。力を貸してほしい」
「……どういう理念なんだい、それは」
「その質問に答える前に君たちに問おう。君たちは『残酷演劇』という言葉を聞いたことがあるかな?」
隊長はそう言って俺たちを顧みた。質問に答える者はいなかった。それを確認して隊長はまた前に向きなおると、舞台への短い階段をのぼっていった。
「では説明しよう。『残酷演劇』とは二十世紀中頃、詩人でもあったさる演出家によって提唱された演劇理念だ。その理念は実現をみることなく歴史の中に消えていった。同時代の観衆に受け容れられなかったというのがその主な原因とされているが、突き詰めて考えれば日の目を見なかった理由はもっと単純なものだ。それはそもそも実現が不可能な理念だったのだ」
舞台にのぼった隊長は客席に向かい、胸の前に腕を組んで壁に背もたれた。
「その理念とは原点に立ち返ることを意図したものだった。演劇の原点が何かは君たちも知っているだろう。それは神聖なる祀りの要素であった。洋の東西を問わない。演劇はその始原において常に神聖なるものとの対話の場であり、呪術的あるいは魔術的な、実存しないものを実存に導くための儀礼であり祭祀であった。『残酷演劇』とは、そうした演劇の本来的な機能を回復させ、その実現に迫ろうという試みなのだ」
「……話が全然見えてこないよ。頭の悪いあたしにもわかりやすく説明しておくれ」
露骨に皮肉を滲ませたキリコさんの一言がかかった。だが隊長はその言葉に薄く笑っただけだった。
「申し訳ない。それでは簡潔に話そう。その理念、『残酷演劇』とはつまり、ありえないものを現出するための演劇だ。ではありえないものとは何か。それは舞台をもって我々が表現しようとする世界であり、役に入った君たちが生きる『もうひとつの世界』だ。君たちは舞台に立ち、それぞれの役を演じる。それにより『もうひとつの世界』を舞台に現出する。そして観客もまたもろともにその世界への参入を果たす。有り体に言えば、それが今回の舞台で私が思い描いているもののすべてだ」
「でも隊長、それって――」
そこで初めて俺は口を開いた。隊長の言わんとするところは理解できた。日曜日の舞台で果たしたいという理想も。けれどもそれは――
「それって、俺たちがずっと求めてきたものじゃなかったのか?」
俺は心に生じた疑問をそのまま吐きだした。隊長の言うことは俺が――俺たちヒステリカがずっと追い求めてきた演劇の理想だった。なぜ今更ここでそんなことを口にするのか……。隊長はそこで頭を横に振り、「間違ってもらっては困る」と言った。
「くれぐれも間違ってもらっては困る。それは我々が今まで行ってきた娯楽の延長としての舞台ではない。その舞台をもって我々が導こうとするものは、思いこみや錯覚、そうした疑念の一切挟まれる余地のない、真の意味で実存する世界なのだ」
「……俺には隊長の言ってる意味がわからない」
「つまりは実際に手で触れることのできる世界ということだ。『本当にそのような感じがする世界』ではなく、『本当の世界』なのだ。目の前で繰り広げられることを受け容れ、ある種の錯覚を経てやむなく感じる曖昧で不確実な手触りではない。個人の意思とは専ら関わりなく不可避的に、ちょうど今ここで自分の身体を抓ったときに生じるような文字通り現実的な手触りがそれなのだ。それを現出するために君たちには――」
「いい加減にしておくれ!」
キリコさんの叫びがホールに響き渡った。
「さっきから聞いてりゃいったい何だ! ぐたぐたとわけのわからない繰り言を! お題目はもう沢山だ! いいかい、あたしが知りたいのはひとつだ! 一回しか言わないからよく聞きな! アイネちゃんが練習に来ないってのはどういうことだ! それはいったいどういうことなんだ!」
「説明した通りだ。彼女はもう準備を済ませた。だから一足先に舞台の世界へ入ってもらった」
静かな回答だった。その静かな回答にキリコさんは絶句した。一人彼女ばかりではない。俺もまた心の中で絶句し、目の前の情景が揺らぐのを感じた。
「これから君たちにも順次そちらに向かってもらう。以前に話した予定とは大幅に変わるが、日曜の本番までに準備を終える手はずは整えてあるから心配はいらない」
自分の目に入るもの、耳に届くものが何ひとつ信じられなかった。隊長は冗談を言っているのだろうか? ……そんなことあるわけがない。この状況で隊長が冗談を言うなど、それこそ猫が人語を話す以上にありえない。
「……あなたが何考えてるのか知らないけどね、ジャック」
俺は弾かれたように声のした方を見た。キリコさんだった。けれどもそれは俺のよく知る彼女の声ではない、ぞっとするほど冷徹で金属的な声だった。
「今回の舞台はあなたの花道である前に、これから劇団を盛り立てていくこの子たちのものじゃない。新しい団員も入ってこれからってときに、どうしても今回の舞台は成功させなくちゃいけない。それがわからないあなたじゃないでしょ?」
「もちろんだ。充分よく理解している。今回の舞台は私にとって最後の舞台である前に、彼らにとって――君たちにとって一度しかない掛け替えのないものだ。どうしても成功させねばならない大切な舞台だ」
「その通りよ、ジャック。それなのにどうしてそんなわけのわからないことを言うの? どうしてこの子たちにこんな不安を与えるの? 舞台まで数日しかないってこと、ちゃんとあなたはわかっているの?」
これまで見たこともない冷たい表情をキリコさんはしていた。口調までいつもとは違っていた。……ジャック? ジャックとは隊長のことだろうか。そうだとして彼女はなぜそんな聞いたこともない名前で隊長を呼ぶのだろうか。いったい何がどうしたというのだろうか。俺はいったいどこに迷いこんでしまったのだろうか……。
「君の方こそわきまえたまえ」
「どうしたの? あたしが何かいけないことでも?」
「ハイジ君を見たまえ。怖がっている」
「え?」
隊長の言葉にキリコさんの目がこちらに向けられた。透き通るような視線だった。
そこでようやく気づいた――俺は震えていた。俺の身体は熱病にかかったようにぶるぶると震えていた。
なぜ俺は震えているんだろう、大丈夫、何ともないから。こんな震えなんてすぐに治まるから。……心ではそう思った。そう口に出してキリコさんを安心させたかった。
けれども舌は動かなかった。そんな俺を見つめるキリコさんの顔が、ゆっくりといつもの表情に戻っていくのがわかった。
「……本当だね。あたしが怖がらせてちゃ世話ないね」
そう言うなりキリコさんは扉に向かい、早足に歩き出した。
「ちょっと頭冷やしてくるよ。練習始めるならあたし抜きで始めといておくれ」
そんな台詞を残して扉を押し開け、傘もささないまま雨の降り続く通りへ出ていってしまった。
それを見届けたあと隊長は舞台を降りた。そして彼女のあとを追うように、ゆっくりと扉に近づいていった。
「……どこへ行くの?」
どうにかそれだけ言うことができた。ドアノブに手をかけたまま隊長は振り返り、「今日はもう終わりにしよう」と言った。
「説明すべきことはすべて話した。それに、キリコ君も行ってしまった。空いた時間は準備に使ってくれたまえ」
「準備……って?」
「さっき話した通り、舞台の世界に入るための準備だ。……心配する必要はない。君たちはもうその準備を半分以上のところまで済ませている。予定はだいぶ変わってしまったが、日曜の舞台に向け、すべてが順調に進行している」
扉の軋む音が響き、雨の音が大きくなった。そして扉の閉まる鈍重な音と共に、それはまた元通り小さくなった。
震えは止まらなかった。縋るような気持ちで、自分がなぜ震えているのか、その理由を考えた。
――考えるまでもなかった。隊長がいきなりあんなことを言い始めたからだ。キリコさんがいきなりあんな表情をして、いきなりあんな声で喋り始めたからだ。
昨日の夜のことなどこれに比べれば何でもない。ただ玩具の拳銃から弾が飛び出して、俺の手を貫いて穴を開けたというだけの話だ。……これは違う。これはそんな生やさしいものではない。もう舞台は四日後なのだ。それなのにアイネは来ない、隊長はわけのわからないことを語り出す、そしてキリコさんは……。
二人とも帰ってしまった。もうあとがない最後の練習を抛って、二人とも帰ってしまった。その現実が大きく胸にのしかかり、震えが一層酷くなるのがわかった。
……こんなはずじゃなかった。今日の練習はこれまでの半年を締めくくる充実した時間になるはずだった。こんなことが起こるはずがなかった。こんな、どう考えてもわけのわからないことが――
「……大丈夫ですよ、先輩」
震える俺の手に、そっと柔らかいものが触れてきた。顔をあげ隣を見た。ペーターがいつの間にか俺の傍に座っていた。
「大丈夫です。きっと上手くいきますから」
そう言って彼女はきゅっ、と俺の手を握った。俺は、その手を握り返すことができなかた。それでも、手の甲の側からやさしく俺の手を包み込む彼女の小さな手から何か温かいものが伝わってくる気がして、思わず涙がこぼれそうになった。――こぼしてはならないと思った。俺は必死になってその涙を呑みこんだ。
「上手くいく……って、何が?」
「舞台に決まってるじゃないですか。心配いりません、私が思うに日曜日の舞台は、きっとこれまでに経験したどの舞台より素晴らしいものになります」
ペーターは微笑んでいた。よく見慣れたいつもの笑顔だった。信じられるものを一切なくした虚ろな空間の中に、その笑顔だけが唯一信じられるものだと思った。その小さな身体に縋りつきたいという激しい欲求に駆られた。……けれどもそれをすれば自分が自分でなくなるということだけは、混乱した頭にもはっきりとわかった。
「……どうしてそう思うんだ? アイネは来ないし、隊長もキリコさんも帰った。この大事な日に。それなのに、そんな上手い具合にいくはずが――」
「だって、先輩が朝に言ってたことじゃないですか」
「……え?」
「隊長のさっきのお話、先輩が朝に言ってたことじゃないですか。あれからよく考えて、先輩の言いたかったことが私にもわかりました。お芝居の中で撃たれて、それで本当に血が流れて痛い思いをするなら、役者にとってそんな素晴らしいことはない。先輩が言いたかったのはそういうことですよね?」
身体の震えが治まっていくのがわかった。ペーターの言葉が意味するところを考え、たしかにその通りだと思った。『残酷演劇』と隊長が呼んでいたもの――俺はそんな理念が存在することすら知らなかった。けれどもそれは、よく考えれば俺が追い求め続け、今日まで叶わないでいた舞台の理想を別の言葉で言い替えただけのものだった。
「だから大丈夫です。きっと上手くいきますよ、先輩。日曜日の舞台はとても素晴らしいものになります。そんな気がするんです、私」
確信に満ちたペーターの言葉が鼓膜から伝わり、身体の隅々まで染み渡っていくのを感じた。その言葉は俺の心の奥に追い遣られていたものに火を点け、大きく燃えあがらせた。
「二人で練習するか」
唇から勝手にそんな台詞が漏れた。
「え?」
「二人でも練習しよう。時間を無駄にしたくない。観てくれる隊長はいないし、他のみんなもいないけど」
「あ、はい! わかりました!」
ペーターは勢いよく立ちあがり、舞台への短い階段を小走りに駆けのぼった。そうして舞台の上から嬉しそうに俺を見おろした。
一瞬、彼女が手の届かない遠くへ行ってしまったような、そんな錯覚に囚われた。頭を振って舞台を見た。変わらない笑顔のままで、ペーターはそこにいた。俺はゆっくりと立ちあがり、彼女の待つ舞台へ歩いていった。
降りしきる雨が二人だけのホールに変わり映えのしない単調な音色を響かせていた。
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