021 ジャミングと霧雨の中の幻影(1)

 談話室には重く湿った空気が澱のように淀んでいた。


 薄汚れた窓の外には陰鬱な暗い風景が見える。一晩越しの雨は未だ止むことなく町を濡らし続けている。この雨が今年の梅雨の名残りであると、小屋を出る前に聞いたラジオの予報ではそう言っていた。


 アイネは今日も朝練に来なかった。携帯はずっと圏外通知で、家の電話にもかけてみたがやはり出なかった。それだけでも事態は充分に深刻なのだが、今朝の異常はそれに輪をかけすこぶるつきで深刻だった。隊長が来なかった。昨日のことでもしかしたらという気はしていたが、まさかと心の中で信じてはいた。……けれども隊長は来なかった。


 俺たちは隊長に連絡をとらなかった。正しくはとれなかった。電話番号はもとより、連絡をとるための手段を何ひとつ持っていないのだから仕方がない。


 今まで一度もおかしいと感じなかったことを、初めて心からおかしいと感じた。劇団の代表に連絡する手段がないというのはおかしなことだったのだ。それは本当に、どうしようもなくおかしなことだったのだ。


 ヒステリカをヒステリカたらしめている特異な掟――互いの個人情報を求めないというのが、ここへきて完全に裏目に出た。我々が個人情報を教えあわずにずっとうまくやってこられたのは、そこに信頼関係があったからだ。


 朝練には毎日来る、問題はその場で解決する、緊急の事態など招かないように着実に準備を進める。そうした約束の中にあって掟はよく機能していた。どんなことでも面と向かって話し合う、一回一回の会合に集中して臨む、必要以上に馴れ合わない。それらはみんな個人情報の秘匿によりもたらされたヒステリカの特長で、俺の見方に間違いがなければ求心力のひとつにさえなっていたのだ。


 その前提からすれば隊長が朝練に来なかったというのは、劇団の代表が自主練習を欠席したというような単純なものではない。最も謎が多く、にもかかわらず盤石の信頼を寄せられていた隊長が自ら不文律を破った。それはヒステリカの存在そのものを否定する、ある意味で致命的な事件と言っても過言ではないのだ――


◇ ◇ ◇


 朝練を終えたあと俺たちは談話室にひとつのテーブルを囲んだ。初めのうちは三人で昨日の練習について話した。けれどもある時点から二人は聞き手にまわり、専ら俺一人が口を動かす展開になった。自然にそうなったとも言える。だが俺が意図してそうしたこともたしかだ。


 正直、もう限界だった。俺だけの中に留めておくのに、それはもう大きくなりすぎた。


 俺はこれまでに経験した不可解な出来事のすべてを目の前の二人に語った。ペーターにとってそのほとんどは記憶をなぞるものに過ぎず、キリコさんにとっては寝耳に水の夢物語だったに違いないが、二人とも黙ったままじっと俺の話に耳を傾けてくれた。


 昨日キリコさんとのやりとりで生じた誤解もその中できちんと解消した。誤解そのものに触れることは巧妙に避けたためそれは俺とキリコさんの間の秘められた会話になり、時おり彼女が苦笑するたびにペーターはきょとんとした表情をつくった。


 やがてそれも終わり、昨日の練習での隊長の異変に話が及んだところでキリコさんは深い溜息をつき、「なるほどね」と呟いた。


「ジャックってのはあの男の正式なコードだよ」


「え?」


「隊長になる前はみんなそのコードで呼んでた。昔のこと思い出してちょっと口が滑っただけさ。……いずれにしろ不思議な出来事の話はもういいよ。お腹いっぱいだ」


「何かわかりましたか?」


「何もわかるもんか。ただ自分が蚊帳の外にいたってのがわかっただけだよ」


 そう言ってキリコさんは寂しそうに笑った。その表情の意味は俺にもよくわかった。


「隠すつもりはなかったんです。ただ……」


「いや、いいんだよ。そんな話聞かされたって何もできなかっただろうし、何より信じてあげられたかも怪しいもんだ。これまで黙ってたハイジの判断は正しかった。今ここでちゃんとそれを聞かせてくれたこともね」


 もうひとつ溜息をついてキリコさんはまた笑った。今度のそれはさっきのように寂しさを滲ませたものではなく、どこか吹っ切れたような清々しい笑顔だと俺は思った。


「さて、それじゃ指示を出しておくれ」


「え?」


「これからの行動提起さ。あたしはハイジにすべてを任せるよ。ペーターはどうする?」


 キリコさんの問いかけにペーターは一瞬惚けたような顔をした。けれどもすぐ真顔になって、「私も先輩に従います」と力強く告げた。


「ちょっと待って、いきなりそんなこと言われても」


「いきなりじゃないだろ?」


 落ち着き払った一言だった。俺は反論できなかった。そう――いきなりじゃない。


「いきなりじゃないはずさ。あたしやペーターはそれをずっと見ていた。ハイジはもうずっと前から心の準備をしてきた。ただそれが五日かそこら前倒しになっただけだ。違うかい?」


 ――その通りだった。今回の舞台で隊長は劇団を去り、それと同時に俺が新しく隊長を襲名する。それはもうずっと前から決まっていたことで、今日まで心の準備も怠らずにしてきた。だからここで俺が指示を出すことは、決していきなりというものではない。


「……準備はしてきた。キリコさんの言う通りです」


「予定は少し狂ったがまあいいさ。ハイジ、あんた今このときから隊長を名乗りな」


「! キリコさん、それは!」


「ここで立たないでいつ立つっていうんだ。非常事態なんだよ。そこへきて肝心の隊長がどっかいっちまってる。役者の一人が行方不明だってのにろくに説明もしない、わけのわからない講釈垂れて最後の練習を滅茶苦茶にする、挙げ句の果てには朝練にも顔を出さない、もうそんなやつをヒステリカの隊長とは認められない」


 微笑から一転、能面のように冷たい表情でキリコさんは絞り出すように言った。冷たく光る双眸が真っ直ぐこちらに向けられた。


「だからあんたが隊長になるんだ。ハイジが先頭になって今回の舞台を成功させる。それが隊長としてあんたが最初に成し遂げるべき仕事だよ」


 真剣な視線だった。足踏みしている時間などないのだと、キリコさんがそう言っているのを理解した。彼女の言いたいことはわかった。たしかにそれはひとつの正しい道であるように思えた。そのためにこの場で隊長を襲名しろと。こんな中途半端な状態で。隊長もアイネもいないこんな湿りきった場所で……。


 胸を掻きむしられるような焦燥を抑えこみ、俺は努めて冷静にキリコさんの提言について考えた。ベクトルを向けるべきはあくまでも舞台の成功――そのために解決しなければならない課題とその優先順位。


 そうして俺が考えている間、キリコさんは何も言わなかった。ペーターも固唾を呑んで俺を見つめていた。息詰まる長い沈黙があり、やがて俺は心の中に決意を固めた。「わかった」と小さく呟いた。


「そうかい。それならたった今からハイジは――」


「隊長にはならない」


 俺の宣言にキリコさんは動きを止めた。その目がすっ、と細くなるのがわかった。


「……どういうことだい? この期に及んで怖じ気づいたのかい?」


「そうじゃない。たしかにキリコさんの言うように、俺は今日までずっと心の準備をしてきた。その必要があるなら今すぐにでもなる。でも今はまだ俺が隊長になるべきときじゃない」


「その隊長がどこかへ雲隠れしてるってのにかい?」


「それならまずその隊長を探し出して本当のところを聞くのが先だ」


 その言葉にキリコさんは口をつぐんだ。俺はなおも続けた。


「隊長は俺がさっき話した奇妙な出来事について何か知ってる。昨日はそんな口振りだったし、それが舞台に繋がるものだとも言ってた。今の段階で隊長が舞台に背を向けたと断定するのは早すぎる。アイネが来ていないのにもちゃんとした理由があるのかも知れない。昨日の短い説明じゃわからなかったけど、最後まできちんと聞けば」


 俺はそこで一度切ってキリコさんの反論を待った。それがないことを確認してまた話し始めた。


「それに実際、隊長なしで舞台は回っていかない。あの人の役割は裏方と俺たちを結びつける要だ。おいそれと別の人間に務まるものじゃない。それに何より、アイネもいない現状で俺がその役に就いたら、キリコさんとペーター二人で芝居を見せることになる。そんなことでうまくいくわけがない」


「あたしは何も、あんたに舞台監督やれって言ってるんじゃないよ」


「それはわかってます。でも同じことだ。他のところならいざ知らず、俺たちの芝居に舞台監督はどうしても必要なんだ。流動的な芝居の展開に合わせて裏方に的確な指示を出す人間がいなければどうしようもないし、それは付け焼き刃でできるものじゃない。隊長を除外して舞台の成功を議論することなんてできない」


「それなら、あたしらはまず何をすべきなんだい?」


 難しい顔つきで俺を睨むキリコさんの視線を真っ向から受け止め、「だから隊長を探すべきだ」と俺は言った。


「隊長だけじゃない、アイネも。二人なしで今回の舞台が成功するはずがない。二人を見つけてちゃんと事情を聞いて……そうしないと今日の通しだって意味がなくなる」


「通しまでに見つからなかったら?」


「――そのときは三人で通すしかない。でもとにかくまずは二人を探すべきなんだ。舞台本番までは今の俺たちに出来ることをすべきで、俺が隊長を引き継ぐのはそのあとでいい」


「……もう立派に隊長してるじゃないか」


「え?」


「何でもない、わかったよ。ハイジの言う通りだ」


 最後にふっ、と笑ってキリコさんは席を立った。


「何かあったら連絡しとくれ。あたしは大学中心にまわってみるよ」


 こちらを振り向かずに軽く手をあげ、扉を開け談話室を出ていった。声をかける暇もなかった。


「わたしはどのあたりを探せばいいですか?」


 ペーターもまた鞄を手に動く気配を見せていた。小さく嘆息したあと、俺も同じように立ちあがった。


「……思いあたる場所、片っ端からだな」

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