022 ジャミングと霧雨の中の幻影(2)

 三時間後。俺は一昨日の楡の木の下、ブランコに腰かけて濡れそぼつ公園を眺めていた。


 もとより誰もいるはずのない風景は疲れきった俺の目に酷くよそよそしく、ただでさえ萎え気味の気力を際限なく奪っていくようだった。アイネと並んでこのブランコに揺られていたのはつい二日前のことだ。けれどもそれはもう何年も昔のことのように感じられる。


 あのときのアイネの気持ちが少しだけ理解できた。


 リカを探しあぐねた彼女はこの隣のブランコに腰かけ、憔悴した顔を隠さずに珍しい弱音を吐いた。そのときはわからなかった。だがこうして同じ立場になってみればわかる。この町から一人の人間を捜し出すというのは雲を掴むような話だ。下宿は真っ先にあたった。大家にかけあって冷たくあしらわれた。行きそうな店はすべてまわった。けれども手がかりは何ひとつ得られなかった。


 いつかのアイネの台詞が耳の奥に響いた。


『当然でしょ。わたしたちの間に演劇のこと以外、何かある?』


 ……結局は演劇だけのつきあいだったのだ。それが理由で数少ない心当たりをまわってしまえばもうこの有様だ。


 隊長に至っては更に酷い。端からまわってみようにも、心当たりのひとつすらないのだ。


 このまま闇雲にまわっても埒が明かない。そう考え、方針を立てるつもりでブランコに腰かけたところで、俺はそこから一歩も動けなくなってしまった。完全に手詰まりだった。降りしきる雨に、気持ちはどこまでも深く沈んでいくばかりだった。


 ――あの蝉のことを思い出した。アイネと過ごしたこの公園には、せっかちな蝉が威勢のいい声を張りあげていた。


 今はどこからも聞こえない。アイネの予言通り雨は降り、仲間たちはまだ暗い土の中に黎明を待っている。あの蝉は今どこで何をしているのだろう。どこかでひっそりとそのときが来るのを待っているのか。あるいはもう鳴くことを諦め、どこかで人知れず土に還ろうとしているのだろうか……。


 不意に半年間の日々が濁流のように俺を襲った。舞台への思いに胸が締めつけられ、全身の力が抜けていくのを感じた。奥歯を噛みしめ、右拳で左手を打った。乾いた音が誰もいない公園に虚しく響いた。


『たかだか一回の舞台に、何そんなムキになってんだ』


 まだ高校の頃、演劇のことを知らない友人にそう言われたことがある。その場は適当に流したが、以後俺がそいつの前で舞台の話をすることはなかった。たかだか一回の舞台がどれほどの重さを持つのか、わからないやつには永遠にわからない。そのために持てる時間のすべてを懸ける者の気持ちは――ましてやそのために何をも厭わないと、心のどこかで真面目に思ってしまう者の気持ちなど。


 あのときアイネはこの隣のブランコに揺れながら、友人の身の安全と舞台の成功を秤にかけ悩んでいた。……その秤はもうない。警察に駆けこんでどうにかなるなら迷わずそうする。どうにもならないとわかっているからそうしないだけだ。現状は既にあのときとはかけ離れたものになっている。もはや警察には頼れない。何より偽りない事情を説明して、それを信じてもらえるわけがないのだ。


 ――二人は見つからない。確信にも似た強い予感が脳裏をかすめた。


 アイネの必死の捜索にもかかわらずリカが見つからなかったように、これからいくら探しても二人は見つからない。頭を振って追い払おうとした。だが靴底にこびりついたガムのように、その不吉な予感は消えなかった。


 昨日の隊長を思い出した。『残酷演劇』という耳慣れない言葉。こことは別の『もうひとつの世界』があるという荒唐無稽な話。アイネがいないのはもうそこに入っているからだという説明。……あの冷静で現実的な隊長の言葉とはとても思えなかった。大切な最後の常会を潰してまで、隊長が何を伝えたかったのかわからなかった。


 もっとも――隊長の謎めいた言葉は舞台が予定通り行われることを示唆していた。その言葉が正しければこの混沌とした状況は、舞台の成功にちゃんと繋がっているということになる。アイネと、おそらくは彼自身の失踪も含めて。


 だがそんなことで果たしてうまくいくのか。


 ……うまくいくはずがない。残された俺たちは舞台に向けどうやって志気を高めていけばいい? 何より今日の通しはどうなる? 明日の仕込みは? 明後日のリハーサルは? 


 舞台は夢や幻じゃない。手触りや息づかい、空気の色まで把握してすべてに備えなければならない。そう言っていたのは他ならぬ隊長だ。会場入りしての準備、実際の機器を扱う裏方との調整。その場に隊長とアイネがいなくて、いったいどうして本番に漕ぎ着けるというのか……。


 この舞台のために半年間やってきたんだ。ペーターにとっては最初の、隊長とキリコさんにとっては最後の舞台なんだ。たとえそうでなくても、もう二度と踏むことのできない一期一会の舞台なんだ。何かと引き替えにしてでも成功させたい、成功させなければならないたったひとつの舞台なんだ。


『……グゥ』


 ……深刻な悩みは腹の音に呆気なく掻き消された。


「あのときと一緒か」


 自嘲気味な溜息と一緒にそんな独り言を吐きだして、俺はひとまず空腹を癒すために小屋に帰ることにした。


◇ ◇ ◇


 電話の音だった。


 二階で鳴るベルの音が薄暗いホールに響いていた。無人の家に鳴る電話というのはそれだけで何となく不安なものだが、湿った空気を震わせるその音にとりわけ強い不安を感じた。不安というよりもっとはっきりと凶兆めいた感覚があった。それでも俺は電話に出るために足早に階段をのぼった。


 受話器に手をかけたところでベルは鳴り止んだ。一応は耳にあてて虚しい発信音を確認したあと、下に降りようと動きかけて――やはり思い直し、その場に座りこんで再び電話がかかってくるのを待つことにした。


 この時間に俺が家にいることはまずない。だからかかってくる電話があるとすればそれはまったくイレギュラーなものか、それとも万一を期待しての緊急の連絡か、ふたつにひとつだ。今日に限ってはキリコさんかペーターからの報告という線が考えられる。そうだとしたら出ないわけにはいかない。


 二度目はなかなか鳴らなかった。沈黙する黒電話を見つめながら、今し方の強い不安について考えた。


 咄嗟に思い浮かんだのは昨日のDJの話だった。援軍を要請するアイネと、その背後に響く銃声。……階段の下で俺を竦ませたものはそれだと思った。そんな芝居がかったものを聞きたくはない。できることならそんな異様なもので彼女の所在を確認したくない。


 内心の声を聞きつけたかのように電話はまた鳴り出した。


 ベルが五回鳴るのを待って俺は受話器を取った。動悸が激しくなるのを感じながら、思い切ってそれを耳に当てた。


『よお兄弟、調子はどうだ?』


 予想もしなかった脳天気な声に俺は全身の力を抜いた。「何だDJかよ」と溜息混じりに返事を返した。


『何だとは何だ。親友からの電話に出た第一声がそれか? ん?』


「親友じゃない。知人だ」


『おいおい、そう照れるなって。たしかに親友ってのはこそばゆい響きがするもんだ。でもな、若い頃にお互いそう呼び合える間柄ってのは貴重なものなんだぞ? 一生物の財産ってやつだ。なあ親友』


「いや、本気で知人だから」


『ああ大丈夫だ。お前の気持ちもわかるさ。口に出すと嘘になることってあるもんな。お前のそういうとこ嫌いじゃないぜ、おれは。そもそも言葉っていうものはだな――』


「で? 何の用だ?」


 果てしなく続きそうな演説に少し大きな声でストップをかけた。生憎と今日はこの男のばか話につき合っている余裕はない。


『へいへい。そういや忙しいんでしたねハイジ君は。実のとこおれもそう暇じゃないんだ。それなら本題に入るか。お前が昨日言ってたこと調べてみたんだよ』


「俺が昨日言ってたこと?」


『ラジオのことだ。おれが電波なこと喋ってたって言ってただろ。死体がどうとか』


「あれか。それで、調べてどうだったんだ?」


『それなんだがな、お前の話を裏づけるような事実が発覚したわけよ』


「……というと?」


『混信の苦情があったらしい。ちょうどお前の家の近所から』


「混信……?」


『要するに別の電波が混じって聞きづらくなることだ。自慢じゃないがうちのラジオ聞いてるやつなんてマニアだけだから、苦情の件数もまあ知れたもんなんだが、おかしなことにごく限られた範囲からきてるわけよ。それがお前の家から歩いて行ける距離』


「よくわからないけど、そういう混信ってのは珍しいのか?」


『珍しい。そんな狭い範囲で苦情が来るほどの混信ってのは聞いたことがない。おれの声がダブって聞こえたそうだ。お前が言ってた死体とか、そういう具体的な話は出なかったみたいだけどな』


 DJはそこで少し間をおいた。沈黙の裏に人の話し声が聞こえた。仕事場からかけてくれていることがそれでわかった。


『考えられるのはトランシーバーみたいなものだな。うちと同じ周波数で弱い電波飛ばすとなると。お前の家あたりで通信してたなら可能性的にはありうる。もっともその場合、おれと同じ美声を持ったやつがもう一人存在したことになるわけだが』


「……なるほど」


 俺にはそれしか言えなかった。今更あのラジオの現実性を検証してみたところで、それが何になるとも思えなかった。だが昨日の話を受けてわざわざ調べてくれたDJには素直に感謝した。こいつはこいつで気を遣ってくれているのだ。


「悪かったな。手数かけたみたいで」


『なに、おれも気になったからな。調べてみた結果をとりあえず知らせておこうと思ったわけよ。それはそうと……アイネの方はどうだった?』


「え?」


『あの電話のこと話してみたんだろ? 何て言ってた?』


「ああ……それがだな」


 アイネは来なかった。そう言いかけたところで受話器の向こう側で声がかかった。『おい、時間』という大きな声が喧噪の中はっきりと聞こえた。


『あ、はい。……済まねえもう切らないと。どうせ明日は会うんだしそこで直接アイネに聞くことにするわ』


「そうか。そうだな……」


『それじゃまた。仕上げ頑張れよ』


「ああ、わかった。じゃあまたな」


 それで電話は切れた。


 最後の遣り取りが宙ぶらりんになったことで、胸の中にもやもやとしたものが残った。初め小さかったそれはみるみる大きくなり、俺の心を黒く塗り潰していった。遣りきれない思いに受話器を床に叩きつけようと振りあげ……どうにか思い留まって静かに本体に戻した。


「何をやってるんだ、俺は」


 苦しみが声になって漏れた。屋根を打つ雨の音を堪らなく耳障りに感じた。ふと――窓際に置かれたラジオが目に留まった。


 思えばあれから一度もDJのラジオを聞いていなかった。最初が最初だったし、聞く暇がなかったという理由で。今も暇があるわけではない。


 だが俺は今、そのラジオを聞きたいと思った。


 さっきの流れからすれば目下のところオンエアの最中に違いない。あいつが喋るとは限らない。時間になったというのは単純に休憩が終わったというだけのことかも知れない。それでもきちんと完結させられなかった会話の代わりに、親しい人間が地に足を着け働いている仕事場の雰囲気を少しでも感じてから下へ降りたい。


 そんな気持ちに突き動かされて、俺はラジオの電源を入れ、チューナーのつまみを回した。

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