023 ジャミングと霧雨の中の幻影(3)

 チャンネルを合わせるのには時間がかかった。絶え間ないノイズを聞きながら79.4MHz付近で微妙な調整を繰り返した。


 半ば諦めかけ、つまみから指を離そうとしたところでようやく人の声らしきものが聞こえ始めた。俺は慎重にアンテナを動かして感度よく受信できる位置を探った。先端を窓の桟すれすれに近づけたところでノイズは晴れ、喋り声がはっきりと聞きとれるようになった。


「……?」


 一瞬は耳を疑った。だがすぐに「ああ、まただ」と思った。俺は動きを止めその声に意識を集中した。


 それは普通の放送ではなかった。そうであるはずがなかった。スピーカーから聞こえたその声は……カラスのものだった。


『そう堅くならずもっと楽にしてください。自分の家だと思ってくつろいでくれていいんです。だってそうじゃないですか。ここへ来たということは実際これからそうなるわけです。違いますか?』


 大袈裟なほどゆったりと落ち着いた口調でカラスは誰かに語りかけているようだった。


 反射的に俺は不快になった。カラスがこうした調子で話すときは決まっている。相手の方は逆に落ち着きからほど遠い状態にあるのが常なのだ。その証拠に相手からの返答はない。憎しみに満ちた相手の顔が思い浮かんだ。


『今はまだこんな何もない薄暗い場所ですけどね、そのうちちゃんとした部屋を用意します。寝台とトイレがある、扉に鍵のついた部屋です。毎日欠かさず伺います。貴女の受け持ちは僕ということになりましたから』


『……好きにすればいい』


 そこで初めて返事があった。押し殺したような女の声だった。……聞き覚えのある声だと思った。だがいつどこで聞いた誰の声かまでは思い出せなかった。


『好きにさせてもらいますよ、言われるまでもなく。それが僕に与えられた役目ですから。では早速』


 コンクリートの床なのか、甲高い靴音が反響して聞こえた。その裏でかすかに鎖が鳴るような音が響いた。状況がよく掴めないまま、俺はラジオのボリュームをあげた。


『あんっ!』


 びくっ、と震えて硬直した。――いきなりの嬌声だった。もう疑いのないちゃりちゃりという鎖の音に、尾を引く女のうめき声が重なって聞こえた。俺は呆然としてそれに聞き入った。


『暴れない方がいいですよ。そんなに動いたら中が傷ついてしまう。……そう、それでいいんです。僕としては手荒に扱うつもりはありませんから。そのままじっとして、ここに意識を集中してみてください』


『う……うう。うあ……んん』


『ああ、やはり初めてですか。そんな気はしていたんですが、そうなると少し面倒ですね。嫌いなんですよ僕、初めての人とするのは。身体が馴染むまでに時間がかかる。痛がる姿を眺めながらというのも趣味じゃありませんし。そういうのが何より好きな仲間もいますけどね。代わってもらいましょうか?』


『う……ううっ』


 ――どうやらカラスが女を犯そうとしているようだ。


 女は囚われの身で鎖に繋がれている。カラスは何らかの取り決めから彼女の身体を自由にする権利があって、これからその権利を行使しようとしている。……そういう状況らしい。謎は深まるばかりだが、とにかくそういう状況らしい。


『そんな目で見ないでください。冗談ですよ。そんなことをしたら危険を冒して貴女を捕虜にした僕の努力が水の泡になるじゃないですか。初めて見たときから欲しかったんです。そう易々と他人に渡したりはしません』


『くっ……ん。あっ……ああ』


『準備が整ったようですね。薬も効いてきたようですし頃合いですか。では貴女をいただくことにします』


 ジッパーを引く音に続いてかすかな衣擦れの音が聞こえた。どちらが服を脱ぐ音なのかは会話の流れからすれば明らかだ。女はもう諦めているのか抵抗の叫びもなければ、鎖の鳴る音が大きくなることもなかった。


『あっ……!』


『触れているものがわかりますか? これが貴女の中に入るものです。今の感覚を覚えておくといいですよ。せっかくですから。喪失は一度きりですし、やり直しのきかない貴重な体験ですから』


『くっ……う。うあ……ああっ』


『まだ先が少し入っただけです。力を抜いてください。気持ちを楽にして。……そう、そんな感じで』


『うう……。あっ! あああああっ!』


『これで根本まで入りました。貴女とひとつになったということです。なかなか具合がいいですよ。相性は悪くないようですね。今はまだ痛いでしょうが、薬が回りきれば貴女も楽しめるようになります。では動きますよ。まあ最初はゆっくり』


『あ……あんっ! あんっ! あああっ!』


 泣くような喘ぎが幾重にも反響して聞こえた。そこから女は堰を切ったように大きな声をあげ始め、そのためにカラスの喋りはよく聞き取れなくなった。それでも何かを呟いているのはわかった。耳元で淫らなことを囁きながら後ろから交わっている絵がありありと浮かんだ。


 初め苦痛を滲ませていた女の声は、時間を追うごとにはっきりと甘やかなものになっていった。身体同士がぶつかり合う低い音は規則性のある単調な旋律に変わり、鎖の鳴る音もそれに合わせちゃりん、ちゃりんと軽快なリズムを刻むようになった。


 ――事態はよく飲みこめなかったが、向こうで起こっていることはリアルに想像できた。想像できはしたが、だからといってどうすることもできなかった。どうすることもできないまま、俺はただ憑かれたようにそのラジオに耳を澄まし続けた。


「……先輩?」


「!?」


 突然の呼びかけに驚き振り向いた。ペーターだった。彼女は困惑の顔つきで部屋の入口に立ち尽くしていた。


「……脅かすなよ。心臓が止まるかと思ったぞ。上がる前に一声かけるくらいしろって」


「何言ってるんですか。ちゃんと声かけましたよ? 私。もう何回も」


「う……そうか」


 少し不機嫌な表情をつくってペーターは部屋に入ってきた。俺の隣までくると、その場に膝を抱えて座った。


「前を通りかかったら扉が開いてて、先輩いるのかなと思って何回も呼びました。けど返事がないから、心配になって上がってきたんです。いけませんでしたか?」


「いや、ごめん。そういうことなら俺が悪かった。ちょっと別のことに集中してたから」


「別のこと、って……これですよね?」


「……ああ。このラジオ」


 ひときわ大きな女の嬌声がスピーカーを震わせ、またすぐ切れ切れの喘ぎ声に戻った。鎖の鳴る音、肉と肉のぶつかり合う卑猥な響きに混じって、女を責めさいなむ男の声が呪詛のように漏れ聞こえた。


「これ、カラス先輩ですよね?」


「……どうやらそうみたいだな」


「もう一人はエツミさんですか」


「何だって?」


「エツミさんですよ、この声は」


 何を考えているのかラジオをじっと見つめ、淡々とした口調でペーターは告げた。……そう言われてみればたしかにそれは、昨日の朝ペーターの部屋で聞いた女性の声だった。なるほど聞き覚えのある声の謎は解けた。しかしここでまた新たな謎が浮かび上がってくる。


「でもどうしてカラス先輩とエツミさんがその……エッチしてるんですか?」


「……ちょうど俺もそれ考えてたとこ」


「というか、何でこんなのがラジオから聞こえるんですか?」


「いや、こっちが知りたいくらい。……このエツミさんって人、カラスと面識あったのか?」


「さあ……ないと思いますけど。エツミさんはいつも家にいますし、カラス先輩が家に来たことはありませんから」


「そうか。だとすると……」


 そう言いはしたものの、考えの糸はそこで切れてしまった。艶めかしい女の淫声は磯うつ波のように大きくなり、また小さくなる。粘りのある湿った音が二人の裸体までも彷彿させるような生々しい旋律を奏で続けている。まるで画面を消して音だけにしたエロビデオのようだ。知った人間の声でこういうのを聞くのは、何というか酷い違和感がある。


 不意に隣でペーターが身じろぎした。目を遣れば彼女は神妙な表情をして放送に聞き入っていた。


「ずいぶん平気な顔してるんだな」


「――え?」


「いや、何も感じないのかと思って。こんなの聞いて」


 カラスはまだしも、女性の方はこいつにとって家族にも等しい人のはずだ。そういう意味の言葉だった。けれどもペーターはそれをどうとったのか、低い小さな声でぽつりと呟いた。


「……何も感じないわけ、ないじゃないですか」


「ん?」


 そこでペーターは動きを止め、熱に浮かされたような瞳でじっと俺を見つめてきた。薄く開かれた唇がもう一度同じ言葉を紡いだ。


「何も感じないわけないじゃないですか。先輩と二人きりで、こんなの聞いて」


「……」


 俺の見つめる前でペーターはもどかしそうにまた身じろぎした。その小さな動きで、部屋の空気が一瞬のうちに別のものになった。


 そこで初めて――ジーンズを破ろうとするほど勢いづいた自分の一部に気づいた。考えてみればごく自然な話だった。明らかに異常で理解不能な放送とはいえ、あんな声をずっと聞かされていればこういう状態になりもする。


 ペーターの視線が一度そこに落ち、何も見なかったようにまた俺を見つめた。厚いデニムの下で塊が苦しくのたうった。


「いや……これはだな」


 咄嗟の弁解は真剣そのものの瞳を前にあえなく立ち消えた。嗅ぎ慣れた少女の甘い体臭に息苦しさを覚えた。手を伸ばせばすぐ届く距離にペーターの柔らかい身体があった。いつの間にかラジオの音はよく聞き取れないほど遠いものになっていた。


 ペーターは何も言わなかった。何も言わずただ真摯な目で俺を見守っていた。彼女の身体がまた小さく動き、それと共に今までとは別の匂い――むっとするような濃く湿った匂いが鼻孔に届いた気がした。


 ゆっくりと頭の中が白くなっていくのがわかった。制御の効かない衝動が血に溶け、身体中に運ばれていくのを他人事のように感じた。


 気がつけば俺は罠に落ちていた。誰が張ったものでもない、偶然の罠だった。俺はもう何も考えられないまま静かに腰を浮かし、目の前にあるたおやかな身体に手を伸ばしかけた。


『こいつはいけない! ルール違反だ!』


 突然の声に俺は文字通り飛び上がった。下からかすかな悲鳴が聞こえた。破裂しそうな心臓の鼓動を感じながら、俺はその場に気をつけの姿勢で固まった。


『いやわかってますよ、音楽にルールなんて堅苦しいものが存在しないってことは。でもですね、ソナチネの途中に屁の音……もとい放屁の効果を入れるってのはいくら何でもルール違反でしょう。そりゃ便器に色塗って芸術だ、って人もいますけどね。僕はこういう小手先の工夫が前衛と呼ばれるものをここまでスポイルした第一の戦犯だと、そんな風に思うんです』


 呆気にとられる俺たちを後目に、DJの音楽論はいっそう加速していった。徐々に動悸が落ち着いてきたところで確認すれば、にわかに燃え上がった劣情は完全に消え失せ、部屋の空気もすっかり元通りになっていた。


 ……恐る恐るペーターに目を遣った。まるで何事もなかったかのように、いつも通りの瞳で俺を見つめる彼女の顔がそこにあった。


 照れ隠しに頭の後ろを掻きながら俺はラジオの電源を切った。そして今更ながら昼食をとっていないことを思い出した。


「もう昼は食べたのか?」


「え? いいえ、まだです」


「俺もこれからだから食べてけよ。ついでだし」


「あ、はい」


 いったんはそう返事をして、けれどもペーターはすぐ気まずそうな表情で、「やっぱり一度家に帰ります」と訂正した。


「ん? そうか」


「……ちょっと用事があって」


「それなら、また通し稽古で」


「はい。お邪魔しました」


 ずっと座っていたからかペーターはぎこちない様子で立ち上がり、軽く頭を下げて部屋を出ていった。


 階段を下っていく足音。階下で重い扉が軋み、そして閉まる音。そのあとは蕭々と屋根を叩く雨の音だけが残った。誰もいなくなった部屋に、俺はさっきより激しくもう一度頭の裏を掻いた。


「……本当に、やばかった」


 どたばたのせいか空腹は治まっていたが、午後の行動に備えて適当に昼食をとることにした。下へ降りようとしてふと思い直し、空気を入れかえるために部屋の窓を開けた。


 暖かく湿った風がそっと俺の頬を撫でていった。鈍色の空の下に、雨は朝に比べ心なし小降りになっていた。

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