024 ジャミングと霧雨の中の幻影(4)

「――時間だね。始めようか」


 薄闇のホールにキリコさんの乾いた声が響いた。彼女はそのまま立ち上がると、下手袖の控え場所に歩いて行こうとする。粗末な電球の灯りを受け、打ち放しの壁に映し出される影がゆらゆら揺れた。袖に作られた領域――赤いビニールテープで床に張られた小さな四角は特別な場所で、そこに入ってしまえばあとはもう幕開のベルが鳴るのを待つだけだ。


 けれどもベルを鳴らす人間は今この場所にいない。


 雨の町を這いずり回っての捜索にもかかわらず二人は見つからなかった。いつ来てもいいように小屋の扉は半分開けたままにしてある。だが入ってくるのは重く湿った夜の空気ばかりで、息せき切って駆けこんでくる幻の姿さえ今はもう見えない。


「キリコさん」


 俺の呼びかけに彼女は振り返らない。二人がいないという現実が俺の目の前に大きく立ち塞がった。正直、まだうまく信じられないが、劇団内のリハーサルである今日の通しにアイネと隊長の姿はない。それなのにキリコさんはもう控えに入ろうとしている。キューを出す隊長がいないまま通しを始めて、いったい何をどうしろというのだ……。


「キリコさん!」


 堪らず俺は叫んだ。控え場所に入るその一歩手前でキリコさんは足を止めた。


「……朝に言ってたあの言葉は嘘かい?」


「え?」


「忘れたとは言わせないよ。時間までに見つからなかったら三人で通すって言ってたのはハイジ、あんたじゃないか」


 そこでキリコさんはゆっくりとこちらを振り返った。その顔にあからさまな失望の色が浮かんでいるのを、俺は認めた。


「あと十分……五分でいい。待ちませんか」


「待ったって誰も来やしないよ。何なら貞操賭けてもいい。そっちは何賭けてくれるんだい? ちゃんと見合うだけのもの賭けてくれるんだろうね?」


「キリコさん。……冗談言ってるときじゃないだろ」


 わずかに怒気をこめて俺はそう言った。だが彼女はそれをやり過ごすようにやれやれというジェスチャーを返してきた。


「そうだね、ハイジの言う通りだ。じゃあさっきの話に戻そうか。時間になったのに始められないってのはどういうことだい? 朝の言葉は嘘だったってことかい?」


「嘘じゃない。二人がいないんだから俺たち三人でできることをするしかない。でも――」


「でもも案山子もあるもんか。ならどうして時間までに行動提起がなかったのかって、あたしが言ってるのはそういうことだよ」


 そう言うキリコさんの顔にはもう嘲るような微笑はなかった。代わりに激しい怒りの表情が彼女の眉目を醜く歪ませていた。見ているのが辛かった。けれども目を逸らすことはできなかった。


「まだ時間があったのに二人が来なかったときの話なんて、いけないと思ったんです。だから今からそれを話し合おうと――」


「今からだって? そっちこそ冗談は止めてほしいね。これがヒステリカの次代隊長だってんだから笑わせる。あらゆる事態を想定して対処策を用意し、その場その場で最良の行動を提起するのがヒステリカの隊長じゃないか。いいかい、あの男だったら……」


 言いかけてキリコさんは詰まった。もっともそこで止めても同じだった。彼女が言おうとしたことは鋭い錐のように俺の胸に突き刺さった。何も言い返せないままキリコさんの次の言葉を待った。


「……とにかく始めるよ。こうしてる間にも時間は過ぎていくんだ。さあ、あんたらも早く控えに入りな。キューは適当にあたしが出すから」


「キリコさん!」


「だから何だってんだい! もう一度言うよ、朝のあれは嘘だったのかい? その場しのぎの軽い言葉かい? それとも責任を逃れるための方便かい? 隊長になって責任を押しつけられるのが嫌とか、おおかたそんなところだろ?」


「な……違っ!」


「違うもんか! 隊長になっても何の解決にもならない、とか知ったような口を聞いておいて、いざ蓋を開けてみりゃこの様だ。少しでも期待したあたしがばかだった。あんたにその覚悟がないならあたしが言うしかないだろ。さあ始めるよ。とっとと終わらせて次の準備に入らないとね」


「こんな状態で通して何の意味があるんだ! それこそ時間の無駄じゃないか! 隊長がいないんだから何もかもいつもと違うんだ! それなのに打ち合わせもしないでいきなり始めてどうするんだ!」


「そのどうするかを決めてなかったのはあんたじゃないか! 降って湧いた事態でこうなったんじゃない、充分に予想できただろ! 策のひとつも用意しないでよくもそんな口が聞けたもんだ! いいから黙って控えに入りな!」


「控えに入ってどうなるんだ! 最後まで通せないことなんて目に見えてるじゃないか!」


「生意気な口聞くんじゃない! あんたにそんなこと言う資格は――」


「いい加減にしてください!」


 絶叫がホールに響き渡った。俺とキリコさんはひっぱたかれたように一瞬動きを止め、揃って声のした方に顔を向けた。


 粗末な電灯の灯りに照らされる舞台の端、薄闇に半分隠れるようにして、大粒の涙を流すペーターがそこに立っていた。


「……もういい加減にしてください。これじゃ……これじゃ昨日と同じじゃないですか。感情的になって……喧嘩して。こんなときだから……こんなときだからみんなで力を合わせないと。……そうじゃないんですか? 言ってること間違ってますか……私」


 絶え間なく嗚咽を漏らしながら一言一言、絞り出すようにペーターは喋った。


「隊長がいないから……アイネさんもいないから。……だから私たちがしっかりしないと……力を合わせて頑張らないと。……そうしないと駄目じゃないですか。こんな……こんなときに啀みあってどうするんですか……。先輩たちが喧嘩して……こんなの悲しいです……辛いです……私」


 小さな身体は何かに脅えるように小刻みに震えていた。


 ……そんな彼女に、俺は強い既視感を覚えた。彼女の姿は、昨日あの場所で何もできなかった俺そのものだった。


 けれども彼女は立っていた。ペーターはしっかりと立って、俺たちの行いは間違っていると声に出していた――


「あああああ!」


 声を限りに叫んだ。床に頭を打ちつけて叩き割ってやりたかった。ペーターの言うことは正しい。キリコさんの言うことも正しい。それなのに俺は何をやっていた! 彼女たちの期待を裏切って、俺は何をやっていた!


 湿りきった闇を吹き飛ばすように俺は叫んだ。喉が嗄れるのも恐れずに。迷いを完全に断ち切るために。やがて叫ぶのを止めた俺の目に、ドアノブに手をかけたキリコさんの姿が映った。


「待って! 出ていかないで!」


 精一杯の気持ちをこめて、今度は小さく叫んだ。こちらを振り向かないまま、キリコさんは動きを止めた。


「十分――五分でいい。待ってください」


 キリコさんは動かない。こちらに向けられた背中は泣いているようにも、後悔に沈んでいるようにも見えた。ペーターに目を遣った。彼女はまだ泣いていた。それを確認して俺はまたキリコさんに視線を戻した。


「いや、やっぱり十分。十分待ってください。これから十分後に通しを開始します。出ていくなら十分後には戻ってきてください。お願いします」


「……この期に及んでまだ連中を待つのかい?」


 そう言いながらキリコさんはようやく振り向いた。さっきと同じように厳しい表情だった。だがその表情は冷静な理性の色を宿していた。「違います」と俺は言った。


「二人を待つためじゃない。気持ちを切り替えるためです。あと――キリコさんの言ってた対処策を考えるため。そのために必要な時間です」


「……そんな簡単に立てられるもんかねえ」


「立ててみせる」


 決意をこめて言い切った。キリコさんが訝しむような目で俺を見つめた。


「十分できっちり立ててみせる。朝の言葉が嘘じゃなかった証拠を見せる。だから――」


「わかったよ。十分だね」


 強い瞳で一度だけ俺を睨んで、キリコさんは踵を返し舞台に向かった。ペーターを見た。彼女は泣き腫らした目で俺を見つめ返し、力強く頷いた。それを確認したあと、俺は脇目もふらず二階に駆け上がった。


 真っ暗な部屋に時計の針を見つめながら必死で考えた。今日の通しを成功させるために必要なこと。二人の抜けた穴を埋めるための対処策。舞台の始まりから終わりまでを何度も頭の中で繰り返し、起こるべき事態、解決しなければならない問題をひとつひとつ潰していった。


 瞬く間に十分は過ぎた。だが俺はその時間を無駄にはしなかった。押入から寝袋を引きずり出し、台所に一番大きなボウルを掴んで俺は二人の待つホールに戻った。


◇ ◇ ◇


「これが隊長。隊長はここにいる」


 ホールに戻った俺は二人の眺める前で椅子に寝袋を立て、てっぺんにボウルを被せた。その席はいつも隊長が座っている場所だった。どう考えても滑稽なその隊長を、二人は笑わなかった。この席に隊長がいないことにはどうしようもない、それがわかるからだ。倒れないように据えつけてから、俺は舞台に上がった。


「キューはそのとき舞台に立っていない一人が出す。俺たちの芝居は基本的に二人の掛け合いだから、三人で立ってる時間を短くすることでそれはどうにかなる。一人が入ったら一人が抜ける。終わりも……やっぱり二人で締める」


 最後の一言だけ、苦しい声で俺は言った。幕が閉じるときは全員が舞台に立っている。それがヒステリカの伝統だった。けれども今日ばかりはそうはいかない。緞帳が降りきらなければ舞台は終わらない。その気持ちを酌んでくれたのだろう、溜息をつくような軽い調子で、「緞帳はあたしが降ろすよ」とキリコさんが言った。


「で? 『盗人』はどうするんだい? まったくいないものとして物語から締め出すのかい?」


「それも考えてきた。『盗人』はいる。でも舞台にその姿は現さない」


「……どういうことですか?」


 そう尋ねるペーターの声は、もう泣いたあとの鼻にかかったものではなかった。目はまだ少し赤かったが、彼女が十分という時間で、俺が望んだ通りの準備を終えてくれたことが嬉しかった。


「『盗人』は姿が見えないのがむしろ普通だ。だから今日の芝居ではそうする。アイネはちゃんと舞台にいる。でもその姿は俺たちにも観客にも見えない。姿の見えない『盗人』がいるものとして、俺たちはそれを即興で演じる。そういうことでどうだ?」


「日ごろ培った即興の技能が試されるってわけだね。……即席で考えたにしちゃ面白いじゃないか」


 そう言ってキリコさんは笑った。潔い笑いだと思った。彼女の気持ちも完全に吹っ切れていることがそれでわかった。これで準備はすべて整った。


「隊長がいつも言ってる通りこれは本番だ。観客は一人もいないけど一期一会の芝居だ。いなかったことを二人があとで悔しがるような舞台にする。この舞台を絶対に成功させる。では今から控えに入る!」


「はい!」


 掛け声と共にキリコさんは下手袖へ、俺とペーターは上手袖へ控えに入った。原付のエンジン音が半開きの扉から漏れ聞こえた。その音の止んだホールに、束の間の静寂が息を潜め俺たちを見つめた。


「一ベル入ります!」


◇ ◇ ◇


 舞台は始まった。『盗人』に手紙を盗まれた『博士』と、待ち合わせの場所にたまたま居合わせた『愚者』、『博士』の命を受けて奔走する『兵隊』という枠組みを残したまま、姿の見えない『盗人』を軸に物語は進んでいった。


 打ち合わせ通り、キューは袖にいる一人が出した。舞台に立つ二人のやりとりが煮詰まると、残された一人が自分で額を弾いて役に入った。三人が舞台に立つ短い時間があって、誰か一人が袖に引っこむ。そんな一連の流れが滞りなく繰り返された。


 初めはどこか不自然なところがあった。いつもならば舞台上に立ち、自ら率先して物語を先に進めてくれる仲間がいなかった。だがその不自然なところも半ばを過ぎてからは目立たなくなった。不在する『盗人』のまわりをぐるぐると回る三人。ひとたび歯車が噛み合ってから、その構図は魔法のように俺たちを絡めとり、ともすれば破綻しかねない即興の芝居にたしかな方向を与えてくれた。


 俺の意識はかつてないほど舞台に集中していた。袖に立ってキューを出しているときも、舞台の上の二人と一緒に芝居を演じていた。俺という存在は繰り広げられている劇と有機的に結合し、呼吸をするように自然に舞台と袖とを行き来した。一昨日、夕陽の庭園にペーターと絡んだときのようなうわずった興奮はそこになかった。雑念の入りこむ余地などなかった。俺はただ頭を空っぽにして、水の流れに沿うように演技に没頭した。


 それは静かな舞台だった。静かで、何かをきっかけに壊れてしまいそうな張りつめた舞台だった。


 けれどもそれは壊れなかった。ペーターもキリコさんも、俺たち三人は他の何も考えず舞台上の世界に目を見張り、耳を澄ましてそれぞれの役を果たしていった。


 やがて舞台はひとつの終わりに向け収束していった。そこで初めて、俺の心に小さな不安が宿った。物語が目指している先、辿り着くべき約束の場所――奇しくもそれは一昨日と同じあの場面だった。


「……王国とはなんですか? いったいどうしてこの僕にそんな大層なものが作れるというんですか? こんななりをした王族がどこにいるというんですか? その王国というのは、いったいどこにあるんですか?」


 彼女は気づいていない。今の演技があのときのものとそっくりであることを。役に没入した我々が向かう先、現実と虚構の狭間に取り返しのつかない惨劇が待っているかも知れないことを。なぜなら彼女はもう『向こう側の世界』にいて、あのときの記憶を持つ人間など、この舞台にはいないのだから。


「その王国は君の中にある。長い年月をかけ、君は君の心の中にその王国を築きあげた。誰も君を傷つけることなく、何もが君の思い通りになる。君はその国の国王で、その国のたった一人の国民だ。その壮麗な王国に一人君はいて、そこからどこへも出られないでいる」


 ――乗り越えなければならないと思った。あの事件を足枷にしてはならない、演技に昇華しなければならない。


 彼女はきっと撃つだろう。何の躊躇いもなく銃口を俺に向け引き金を引く。それならば俺は撃たれるしかない。舞台を血で染めてもいい、取り返しのつかないことになってもいい。その思考を最後に、俺は考えるのを止めた。


「行かせない! あなたを行かせない! もうあなたをどこにも行かせない! どんなことをしても。どんな手を使っても! そうだ……それならこうすればいいんだ。どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。あなたが来てくれないというのなら、僕があなたを連れていけばいいんだ」


 彼女はおもむろに懐から黒く光るものを取り出した。撃鉄を引き起こし、銃口を真っ直ぐこちらに向けた。躊躇いのない指が引き金にかかった。


 あのときと同じ戦慄が背筋に走った。俺は身体の動くままに、左手を前に突き出した。


「銃声の効果音入ります」


 キリコさんの声に、頭の中の銃声が重なった。左手は大きく弾かれ、俺はその場によろめいた。弾丸に貫かれた手にあのときの痛みをはっきりと感じた。その手首を右手で掴んでうずくまり、目の前に立つ少女の姿を確認した。


 彼女は放心の表情で銃口を自分の胸に向け、今にも引き金を引こうとしていた。俺はつんのめるようにして彼女に駆け寄り、その手から拳銃を奪い取った。


 しばらくの間があった。この先は知らない世界だった。その未知の世界に一歩を踏み出すため、俺は目の前の彼女を見つめ、次なる台詞を思い描いた。


「……手を出して」


 被弾した左手をそのままに、彼女にそう告げた。言われるままに彼女は左手を差し出した。俺はその小さな手の真ん中に銃口を突きつけ、そっとその引き金を落とした。


「銃声の効果音入ります」


 銃声と共に彼女の手は下に落ちた。糸が切れた人形のようにそのまま座りこむ。そんな彼女に俺は歩み寄り、傷ついた手に自分の左手をそっと重ねた。


 痛みに震える二つの手の指と指が絡み合った。流れ出る温かい血が溶け合い、重ねられた手の間でひとつに混じり合った。


「君の王国は、どうなった?」


 囁くように俺はそう尋ねた。彼女はしばらく呆然としたあと、きょろきょろとあたりを見回して、また俺に視線を戻した。


「王国? 王国なんてもうどこにもない」


 彼女の目は真っ直ぐに俺を見つめていた。俺はそこで、自分がこの場所を訪れた本来の理由を思い出した。


「聞き忘れたことがあった。君は手紙をどこに隠した?」


 俺の質問に、彼女は穏やかな微笑みを浮かべた。


「あの王国に建つ城に」


「そうか。それなら事件は、これで解決した」


 言葉が途絶えた。重ねられた左手の震えはもう治まっていた。傷口から混じり合った血が浸みこんでくるのを感じながら、我々はぼんやりとお互いの顔を見つめ続けた。


「緞帳、降りきりました」


 舞台の終了を告げるキリコさんの声を、喪心にも似た気持ちで受け止めた。指を絡め繋がれたままの手に目を遣った。そこに血の跡はなかった。俺は心の中で溜息をついて、まだ役から出てきていないペーターのあどけない顔に目を戻した。


 ――不意に拍手が起こった。


 観客などいるはずのないホールに一人分の拍手が鳴り響いた。もしかしたら――思い当たるところがあって暗い客席に目を走らせた。客席の最奥、外に続く扉のすぐ横に、たった一人のカーテンコールを送るその人の影はあった。


 けれどもそれは俺の思い描いていた人とは違った。扉の隙間から射しこむ街灯の淡い光が、帽子を小脇に抱え手を打ち鳴らすオハラさんの姿をぼんやりと照らしていた。

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