025 ジャミングと霧雨の中の幻影(5)

 夜の町には霧のような雨が舞っていた。


 その細やかな雨の中、人通りの絶えた暗い道を、俺とキリコさんは傘を並べ歩いていた。風はもう止んでいた。分厚い雲の下、湿潤した大気が行き場をなくしたように漂っていた。


 簡単な片づけを終えペーターを送り出したあと、俺は残る一人を家まで送っていくことにした。「別にいいよ」とキリコさんは言ったが、申し出を繰り返すとすぐに折れた。通し前のことを水に流すためにも少し話がしたいという俺の気持ちが伝わったのだろう。


「ちょっぴりときたね、あれは」


「何がですか?」


「運転手のおじさんだよ。最後のあれは有り難かった」


「……そうですね」


「あの拍手でどれだけ救われたかわからない。扉ってのは開けっ放しにしておくに限るね」


「はい。勉強になりました」


 あれからオハラさんは勝手に入ったことを詫び、何度も頭を下げて片づけまで手伝ってくれた。そうして手を動かしながら、終わったばかりの舞台をこちらが恥ずかしくなるくらい繰り返し誉めてくれた。


 いつもの例からすれば、オハラさんが俺たちの輪に入るのをペーターは快く思わないはずだが、今日ばかりは言葉にも表情にもそうした色を見せなかった。片づけが終わったあと、一人帰されることに不平を口にしなかったのも、オハラさんへの感謝があったからだと俺は思う。


「いい舞台だったね」


 キリコさんがぽつりと呟いた。溜息にこめた小さな一言だった。けれどもその一言に今日これまでのすべてが含まれている気がして、俺は胸が詰まりうまく返事を返せなかった。


「素晴らしかったよ。あんたたち」


「え?」


「あんなどたばたで始まって、最後まで通せりゃいい、って初めはそう思ってたけど、袖からあんたたち見てたらこう、何というかね」


 そこでキリコさんは恥ずかしそうに目を伏せ、空いている手の指で唇の端を掻いた。


「自分が情けなくなった。そんな逃げ腰になってるのはあたしだけで、あんたたちときたらいつもの何倍も真剣じゃないか。……負けた、と思ったよ。始まる前にあんなきついこと言って悪かった。この通り」


 キリコさんは立ち止まり、俺に向き直って深々と頭を下げた。「そんな、止めてください」と口にしかけたところで彼女は頭をあげ、晴れやかで優しい笑みを俺に向けてきた。


「本当にいい演技だった。ずっとハイジの演技を見てきたけど、今夜のが一番だった。一緒にあの舞台に立てたことを、あたしは誇りに思うよ」


「――そうですか」


 素っ気なくそう言って、俺は彼女から目を逸らした。せめて「ありがとう」くらいは言いたかったのだが、できなかった。今回の舞台を限りに引退してしまう先輩から初めてかけられた、手放しの賞賛の言葉だった。この場面でそんなものをかけられれば、誰にだってこみあげてくるものはある。


 もっとも、そうした事情をキリコさんは充分に理解している。理解しているから、気の利いた返事ひとつ返せない俺に何も言わないのだ。街灯に輝く霧雨を眺めながら、俺たちはしばらく会話のないまま歩き続けた。


◇ ◇ ◇


「ひょっとしてあの男に計られたのかもね」


 もうすぐキリコさんの家というところで、唐突に彼女はそんな台詞を口にした。


「どういうことですか?」


「次代を担う新隊長に与える試練ってことだよ。窮地に陥らせて一皮剥けさせるためのね」


「そりゃまた随分と大がかりな芝居ですね」


 苦笑して口ではそう返しながら、ありえない話ではないと思った。これからのことを考えて敢えて俺たちをいばらの道に導いたのだとしたら辻褄は合う。あの隊長ならばそれくらいのことは平気でやってのけるに違いない。だが、その仮説には一つだけ腑に落ちない点がある。


「それだとアイネがいなくなったのは不自然じゃないですか?」


「まあそうなんだけどね。あんたたちを鍛えるって前提なら、まず巻きこむべきはあたしだ」


「キリコさんだと反対されると思ったとか」


「まさか。反対なんかしないよ。あたしが一枚噛んでるならもっとうまくやるね。たとえば当日、時間ぎりぎりになるまでハイジだけ残して隠れてるとか」


「鬼ですか」


 冗談めかしたやりとりに、俺たちはようやく普通に笑い合った。わだかまりはこれで綺麗に消えたと思った。通しも理想的な形で終えることができ、混沌としていた状況に一筋の光明が見えた。ただその舞台にアイネと一緒に立てなかったことが残念だった。


「アイネは今、どこで何してるんでしょうね」


「だから隊長と一緒に次の策略を練ってるのさ」


「それはないですよ。アイネに限って」


 一昨日の公園での会話を思い出して俺はそう言った。あれが芝居だったとしたらアイネは大した役者だが、舞台に立っていないときの彼女にろくな演技ができないことを俺はよく知っている。何より友だちを引き合いに出して同情を買うような安い芝居ができる女では、間違ってもない。


「『アイネに限って』か。いい台詞だね。ハイジの見立てではアイネちゃんが共犯の線は薄いってかい?」


「薄いというか、ゼロです」


「ふうん、そうかい。それならあれだ。どこかに監禁されてるんだよ、きっと」


「まさか」


「そのまさかだよ。地下牢かどこかで鎖に繋がれてるのさ。可哀相にね、このじめじめした中」


 ふっ、と昼間の忌まわしい記憶が蘇った。呪わしいカラスの声と、繋がれた女の喘ぎ声。それをきっかけに、抑えつけていた不安がまたゆっくりと蠢き始めるのがわかった。


 ――二人がいなくなって終わり、ではない。不可思議な時間は止むことなく続いている。


 もしこれがキリコさんの言うように隊長の試練だとしたら、日曜の舞台が終わるまで、俺たちはまだ幾つもの常軌を逸した事件を踏み越えていくことになるのだろう。


「次に消えるのはあたしだよ」


「え?」


 驚いて目を遣れば、キリコさんは悪戯っぽい笑みを浮かべてこちらを見ていた。


「今度はあたしが監禁される番だ。怪しい薬を嗅がされて気を失ったところで、縄か何かで縛られていかがわしい場所に押しこめられるのさ。どうする? そんなことになったら」


「困りますよ……それは。でもまあ、今夜は護衛がついてるから」


「そうだよ。送ってもらったのは正解だったね。でもまだ日曜まで二日もあるよ。その間ちゃんと守ってくれるかい?」


 そう言ってキリコさんは妙にしおらしい目で見つめてきた。俺は少しどきりとして、だが彼女を見つめ返し大きく頷いた。そこでキリコさんはいきなりぷっ、と吹き出した。


「……何が可笑しいんですか。自分で言っといて」


「あはは……はは。ごめん、ごめんよ。いや、頼もしいねハイジは。そうだね、あんたが守ってくれるなら安心だね」


 もうキリコさんの下宿の前だった。彼女は笑いすぎて涙の浮いた目を指で拭い、「それなら今夜は泊まりこみで守ってもらうよ」と言った。


「……はあ?」


「寝こみを襲われたらどうするんだい? それこそ連中の思うつぼじゃないか。ちゃんと報酬は払うよ、ハイジの予想してる通りのもので」


「あのですね、それは無理です」


「どうしてだい?」


「どうしてって……そんなの」


「あはは。冗談だよ、冗談。送ってくれてありがとうね。明日もまた頑張っていくよ」


「はい。それじゃ――」


 ――そのとき何の前触れもなく、ぱぁん、という音が響いた。


 反射的に音のした方を見た。そこには何もなかった。さっきまでと何も変わらない夜のしじまに、霧雨がアスファルトを濡らしているだけだった。


「キリコさん、今の……」


 その先は出てこなかった。振り返ったそこにキリコさんはいなかった。


「……?」


 そこには誰もいなかった。息づかいさえ感じられるほど近くにいた人は、もうどこにもいなかった。


「……キリコさん?」


 呼び掛けに返事はなかった。俺は傘を畳み、広くなった周囲の闇に目を走らせた。だがキリコさんはいなかった。――それだけではなかった。そこで俺は気づいた。自分が見知らぬ場所に立っていることにはっきりと気づいた。


「おい勘弁してくれ。……またかよ」


 そこはもう俺の知る場所ではなかった。キリコさんの下宿もなければ、もと来た道さえなかった。激しい不安と焦燥を感じながら俺はあたりを見回した。


 そこでまた銃声が響いた。


 今度は単発ではなかった。俺を取り巻く闇――霧雨の降る音さえ聞こえるほど静かだったその闇に幾つもの銃声、そして機銃の掃射音が波紋のように広がっていった。


 俺はその場に立ち尽くした。あまりに不可解な出来事に考えが追いつかず、どうすればいいのかまるでわからなかった。


「やばいよな……これ」


 自分が極めて危険な状態に置かれていること。それは何となく理解できた。


 夜の市街、見通しの利かない闇の中に銃撃戦は行われている。そのただ中に俺はまったくの無防備で、自分がどこにいるかさえわからず突っ立っている。それがどれほど危険で愚かなことか理屈ではわかった。せめて物陰に身を隠して様子を窺おうと動きかけた。


 そのとき、俺の目の前の闇を駆け抜けていく影があった。ほんの一瞬捉えたその姿に、それまでの考えがすべて吹き飛んだ。


「アイネ……!」


 思うや俺は飛び出していた。低いビルの谷間の路地にアイネのあとを追った。抜けていったと見えた道の先に彼女の姿はなかった。だが俺は放たれた矢のようにひたすらその一本道を走り抜けた。


「アイネ!」


 走りながら彼女の名を呼んだ。闇には銃声が響き続けていたが、もうそんなものは何も気にならなかった。細かい雨が脂のようにべったりと顔に張りつき、下から吹き出る汗がそれを押し流していった。息を荒げ、心臓が破れそうなほどひた走りに走った。


 その果てにようやく彼女の背中を目にしたとき、俺は矢も楯もたまらず大声でその名を叫んだ。


「アイネ!」


 ――ぱぁん。


「ぎっ……」


 それは一瞬の出来事だった。


 アイネが行ってしまったあと、自分が地面に尻もちをついていることに気づいた。立ち上がろうとして……立ち上がれなかった。腹に力が入らなかった。


 視線を落とした。腹の真ん中に赤黒い染みがあった。その染みがゆっくりと広がっていくのがわかった。


「げっ……げほっ」


 力のない咳が出た。唾が垂れたと思い手の甲で拭った。拭い終えた手にはべっとりと赤いものがついていた。錆びた鉄の臭いを嗅いだ。


 そこで、俺は理解した。自分がアイネに撃たれたのだということをようやく理解した。


「げほっ……げほっ」


 また咳が出た。今度は血を拭わなかった。俺は地面を這うようにして道の端まで動き、土汚れたコンクリートの壁にもたれかかった。そこでまた咳が出た。けれども腹筋はもうろくに動かず、新しい血が咽をあがってくることはなかった。


「う……ぐっ」


 今さら激しい痛みが腹から全身に向け走った。ようやく落ち着いてきた頭で撃たれた場所を確認し……絶望した。


 震える指で触れてみるそこはちょうど肝臓のあるあたりだった。口径の大小にかかわらず、腹を撃たれたらまず助からない。まして肝臓を撃ち抜かれて助かるわけがない。


 ああ死ぬんだ、と他人事のようにそう思った。


「へ……へへ」


 唇から短い笑いがこぼれた。何のための笑いかわからなかった。自分がなぜここにいて、何をしているのかわからなかった。なぜアイネに撃たれたのかわからなかった。なぜ死のうとしているのかわからなかった。


 ――劇の中なのだろうか。ふとそんな考えが頭を過ぎった。


 ここは劇の中で、俺は役の一人として死に瀕しているのだろうか。漠然とそんなことを考えた。それならばこの異常な状況にも説明がつく。アイネが一言もなく俺を撃ったことも、俺がこうして闇の底で一人、舞台を降りようとしていることも。


「ひゅう……。ひゅう……」


 か細い笛の音のような響きが耳に届いた。しばらく聞いているうちに、それが自分の呼吸音であることを知った。目がかすみ、視界がぼやけてきた。いよいよ死ぬのだ、と靄がかかった頭で思った。


 ……そういえば一昨日もこんなことがあった。あのとき俺は同じように狙撃され、血を流し痛みに悶えたが、翌朝には幻のように元に戻っていた。


 きっと今回もそうなるのだろう、と思った。だがすぐに、あのまま血を流し続けていたらどうなっていたのだろう、という疑問が湧き起こった。……もしここが劇の中だとして、その中で死んだら俺はどこへ行くのだろう。


 ――死にたくない。泣き濡れる裏通りの闇を見つめ、俺は初めてはっきりとそう思った。


 五分後の自分がもうあの闇さえ見ることができず、感じることも思うこともできないまったくの無に還るのだという観念が俺の心を凍らせ、粉々に砕いた。


 ――死んではならない。絶望に埋め尽くされようとしていた心に衝動が起こった。


 俺はまだ死んではならない。ここで死ぬわけにはいかない。這ってでも病院に行き、この傷を治してもらい、そして日曜日の舞台に立たなければならない。


 渾身の力をこめて身体を動かそうとした。だが少しも動かなかった。地面を掻いてでも前に進もうとした。けれども俺の身体は指一本動かなかった。


 ――生きたい。消え入りそうな意識で俺はそう思った。


 雨とも汗とも涙ともわからないものが頬を伝い落ちていった。自分が息絶えようとしているのがよくわかった。それでも俺は生きたいと思った。


 せめて最後の瞬間までそう願うことを止めない。振り絞るようにしてそう思った俺の視界――今はもう闇に溶けようとする視界に、悲しみに崩れそうな面影が浮かんだ。


 誰の面影だろう、と思った。それはアイネのようにも、ペーターのようにも、キリコさんのようにも、隊長のようにも見えた。


 ――生きたい。今度ははっきり、熱い涙がこぼれ落ちた。もう一度みんなに会いたい。みんなと会って、そしてまたいつものように……。


 それが最後の思考だった。もう何も見えず、何も聞こえなかった。撃たれた腹の痛みさえ感じられなかった。


 もう何も考えられなくなり、緩慢に無に還ろうとする俺の中に、まるで名残を惜しむように、小さく冷たい感覚が生じて――消えた。

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