026 手紙(1)

 ――風の音が聞こえた。湿り気をたっぷりと含んだ風が耳の穴に潜りこみ、鼓膜に直に触れごうごうという音を響かせていた。


 俺はこの音を知っている。もう何年も前、野宿で旅したという友だちの話を聞いてにわかに憧れ、鈍行を乗り継いで名も知れない町の公園で明かしたとき、俺は一晩中この風の音を聞いていた。


 星空の下に何度も眠りを妨げられ、明け方にはこの音に揺り起こされた。目覚めてみれば何でもない、頬を撫でるような優しい風。けれども瞼を閉じた暗闇にあって、ただ一つ開け放たれた感覚に流れこむ調べはやけに大きく生々しい。


 その音を聞きながら俺はゆっくりと覚醒していった。新鮮な朝の光が瞼の間から射しこみ、こじあけ、押し開けていった。


「ん……」


 ぼやけた視界に映ったのは路地裏の風景だった。ビルの裏からまわりこむ陽光を受け、雨上がりの黒いアスファルトが気のない輝きを見せていた。


 目の前には一羽の烏がいた。烏は品定めするように赤い目で俺を見つめていたが、やがて嘴を広げ引きつった短い声をあげると、そのまま飛び立っていった。


「う……。何だ……これ」


 全身に不快な感触があった。身体を少し動かすと、その感触の正体はすぐにわかった。首から足先まで、服という服が重く濡れそぼっていた。シャツもジーンズもべったりと肌に貼りつき、堪らない気持ち悪さだった。


「何でこんなことに……なってるんだ」


 座ったまま不自然な姿勢で寝ていたせいで凝り固まった身体を伸ばしながらそう自問した――


 そこで唐突なフラッシュバックがあった。昨夜の記憶が映画の一場面のように鮮明に蘇った。


「……」


 腹に目を遣った。シャツに血の跡はなかった。そのシャツを胸のあたりまでめくりあげた。銃創は見当たらなかった。


 ……何とも言えない虚脱感に襲われた。都合のいい予感は的中したようだ。結局は幻だった。朝が来て、あの惨劇はすべて帳消しになった。アイネが俺を襲った証拠などもうどこにもない。


「っこいせ……と」


 かけ声の助けを借りて立ち上がった。そのままよろめくようにして裏路地から出ると、そこは見慣れた通りだった。日はもう高くあがっていて、いつに変わらない日常の景色が澄み渡る青空の下に広がっていた。絵に描いたように平和な朝の風景だった。


「……?」


 だがふと――俺は小さな違和感を感じた。


 そこは町の目抜き通りで、これまで何度も通り抜けてきた道だった。今さら何を感じるはずもない馴染みの道だった。けれども俺の心には引っかかるものがあった。


 ……まるで間違い探しの絵を眺めているような、奇妙で捕らえ所のない感覚だった。その感覚の正体がわからないまま、俺は路地の暗がりを抜け、眩しい朝の光の中に一歩を踏み出した。


 景色が流れていった。沿道の家々や街路樹、低い灰色のビルやシャッターの降りたままの店。そんな単調な群像が、通りを行く俺の周囲をゆったりと通過していった。


 濡れ鼠のまま歩く俺とすれ違いざま、訝しそうに視線を向けてくる人が何人かいた。俺はその視線に何も感じなかった。恥ずかしさもなければ、自分が見られているという実感さえなく、だから俺は気にせずに道を歩き続けた。


 そこはたしかに見知った通りだった。埃まみれのガードレールも安っぽい電飾の看板も、昨日まで繰り返し眺めてきた町並のそれだった。


 それなのに俺は、どれだけ歩き続けてもその町並に溶けこめない自分を感じていた。初め小さかった違和感はゆっくりと膨張し続け、強い乖離の感覚となって俺の心を支配していった。


 いつかのように道に迷ったのではなかった。自分がどこにいるかわからない迷子とは違った。俺はちゃんとここにいる。自分が立っている場所がどこかよく知っている。


 だがそこに俺がはっきりと存在を確認できるものは何一つなかった。すぐ傍を通過していく車のエンジン音さえ、どこかくぐもったような遠いものに感じられた。


 ……ちょうど役に入りこめない舞台に似ていた。俺と世界との間には見えない壁があって、取り巻く景色は俺を拒絶したまま歩みと逆の方向を目指して流れていった。その空虚で生暖かな流れの中を、溺れない程度に手足を動かして俺は泳いでいった。


 どこに向かっているかもわからないまま、幽鬼のように俺は歩き続けた。昨日の夜のこともこれからのことも、何一つ考えられなかった。


 燦々と照りつける陽光の下にやがて服は乾いていった。さすがにジーンズは最後まで乾かず、生乾きの感覚がいつまでも脚に残った。だがそれも大分になり、服の乾く嫌な臭いが立ち上ってこなくなったところで、俺は大学に辿り着いた。


◇ ◇ ◇


 時刻は既に十時だったが俺は朝練の場所へ向かった。開いたばかりの交流会館の前には、いつものように暇な文化系サークルの連中がたむろしていた。けれどもそこに仲間たちの姿はなかった。アイネもキリコさんも、隊長もペーターもいなかった。


 一応は談話室を覗いてみたあと、俺は近くの公衆電話からキリコさんの携帯に電話をかけた。……繋がらなかった。立て続けに十回ほどかけなおし、それと同じ回数だけ虚しい圏外通知を聞いた。その後、無駄とは思いながらアイネの携帯にかけた。結果は無駄であることを確認しただけだった。


 力無く受話器を戻して俺は電話ボックスを出た。交流会館の玄関に続く短い階段に腰掛け、漠然と辺りを眺めながら深い溜息をついた。


 ……とうとう朝練に出なかったことを弁解する相手さえいなくなった。携帯はどれも電波の届かない場所にあって、いつもなら誰かいる場所にはこの通り誰もいない。頼みの綱の隊長には連絡のとりようもない。もうあと残るは――


「……ペーターか」


 ペーターの家にかければ連絡がとれるかも知れない。そう思い立ち上がりかけて、また腰を下ろした。


 ――考えてみれば俺はあいつの家の電話番号を知らない。高校の演劇部には連絡網があったが、それも卒業と同時に捨ててしまった。もうかけることなどないと思って小屋の電話帳にさえ控えていない。


 ……彼女を邪険にしてきた日々が恨めしかった。今さらそんなことを後悔しても遅い。これでもう俺には、仲間たちと連絡をとるための手段は一つもなくなった……。


「済みません、そこどいてもらえますか?」


 上からの声に振り仰ぐと、俺の後ろに行列ができていた。慌ててその場から退いた。


 俺の座っていた場所を、黒光りするハードケースの一群が通過していった。ホルンのケース、サックスのケース、トランペットのケース……。新設のブラスバンドだろうか。楽器を持つ彼らは気安い言葉をかけあい、楽しそうに笑いあいながら講堂の方へ歩いていった。


 不意に強く胸が締めつけられるのを感じた。呻き声が漏れそうになるのをどうにか堪えた。


 苦しさから逃れるために階段を離れた。……これ以上ここにはいたくないと思った。ブラスバンドの彼らとは別の方向に向かおうとして、それでも俺は一度だけ振り返った。


 玄関前の小さな広場――昼も夜もなく過ごしていた俺たちの場所に、気安い言葉をかけあい、楽しそうに笑いあう四人分の影が浮かんで、消えた。


◇ ◇ ◇


「結局、ここか」


 交流会館を離れた俺は、幾らも歩かないうちに庭園のベンチに落ち着いた。一旦は小屋に帰ろうと歩き始めたのだが、身体はくたくたに疲れ切っていて、少し休まなければ立っているのも辛いほどの有様だった。ベンチに倒れこむようにして仰向けに身体を横たえた。葉の間からこぼれ落ちる陽光が目を射た。


「う……」


 疑いのない夏の陽射しだった。厚く生い茂った緑はその光を受けて燦然と輝き、新しい季節を迎える準備に余念がない様子がはっきりと見てとれた。


 ……だが俺の心には何の感慨もなかった。この木は夏に向かおうとしている。降り続いた雨を根から吸い上げ、強い陽射しの下に生命を燃やしている。そう言葉にできるだけだった。


 そして……ふと思った。この木は、俺とは別の世界にいる。隔絶された向こう側の世界に息づいている。そんなばかげた考えがごく自然に浮かび、頭にこびりついていつまでも消えなかった。


 朝からの乖離の感覚は弱まることなく続いていた。目に映るすべてが作り物のように感じられ、自分さえ以前の自分とは違ってしまっているような違和感があった。この感覚をどこかで感じたことがあると思った。そう――こんな気持ちになったのは今日が初めてではない。


 初めてこの感覚を自覚したのはリカたちを見失った翌日、このベンチに座って考えを整理しているときだった。あのときも俺は入り組んだ感情の迷路をさまよいながら、現実感のない庭園の景色を眺めていた。


 ……あれから俺は同じことを繰り返している。普通では考えられない出来事に遭遇し、そのことについて思い悩み、結論の出ないまま考えるのを止める。そんなことを繰り返している。


 この違和感はそこから来ているのだと思った。きっとそうに違いなかった。度重なる不可解な出来事と、それに向き合っての果てしない堂々巡りの中で、これまでは空気のように感じることのできた世界を、俺はもう信じられなくなった……。


 自分がたしかだと信じていたものがどれほど脆く壊れやすいものだったか、この数日でそれを痛いほど思い知った。


 通い慣れた場所でも道に迷うことを知った。ラジオがときとして異様な電波を受信するものだと知った。弾さえ入っていないモデルガンで撃たれて血が流れるものだと知った。……舞台を前にして仲間たちがいなくなるなどということが本当に起こりうるものだと知った。


 長い年月をかけて積み上げてきたものも崩れるのは一瞬だった。安心しきった目で眺めていた世界さえ、こうして手の届かない遠くへ行ってしまった。たった五人でまわしていた小さな劇団も一緒に――


 隊長の言葉を思い出した。今思えば昨日の夜、路地裏で俺を狙撃したアイネこそ『向こう側の世界』にいる彼女だったのではないか。そうでなくてあいつが俺を撃つはずがない。


 アイネはもう『向こう側の世界』に入った。だから躊躇せず俺を撃ち、顧みることもなく行ってしまった。……そんなでたらめばかりが、今の俺にははっきりと信じられる。


 ――キリコさんもいなくなった。昨夜のことを思い返す中で俺はそのことに気づいた。あの場所で俺の目の前から忽然と消え、あれきりもういなくなってしまったのだ。……それは漠然とした推測だった。けれども確信に近いものがあった。


 キリコさんはもういない。もう隊長の言う準備を終え、アイネと同じように『向こう側の世界』に行ってしまった。


「……」


 俺はベンチに起きあがった。精巧な絵画のように現実感のない庭園の景色をじっと眺めた。


 ――もう起こっていることの真偽はどうでもいい。夢でも幻でもなく、仲間たちはいなくなってしまった。これはやはり誰かの意図で人為的に導かれた状況なのだろう。誰かが関わっているとすればそれは一人しかいない。


 胸の奥底から焼けつくような感情が湧きあがってきた。砂漠に水を求めるように激しくその人を思った。いったい隊長はどこに消えてしまったのか。今どこで何を思い、何をしているというのか……。


「……?」


 不意に影が差した。頭をあげると木陰の外、庭園の日溜まりに着物の少女が立っていた。


 それは、クララだった。

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