027 手紙(2)

 ――作り物じみた景色の中にあって、唐突に現れた彼女の姿は一層頼りげなく、まるで人形か何かのように見えた。俺は言葉もなく呆然とその端正な顔を眺めた。


「……酷い顔」


「え?」


「絶対に間違ってる。こんなのは……」


 何かに堪えるような表情でクララはしばらく俺を見守っていた。何を言っているんだろう彼女は、ぼんやりとそう考えた刹那――折りからの苦悩と彼女がここに現れた事実とが音を立てて繋がった。


「……! そうだ隊長は!」


 立ち上がってクララの両肩を掴んだ。そのまま押し倒すような勢いで遮二無二問いかけた。


「隊長は!? 隊長は今どこにいる? 教えてくれ頼む! 一昨日の練習でいなくなってそれきりなんだ。本番はもう明後日なのに何の準備もできてない。厄介な問題があとからあとから出てくるし、それなのに隊長はどこ探してもいなくて!」


 必死の問いかけに答えはなかった。クララは憐れむような瞳で俺を見つめ、けれども唇を固く閉ざし何も言葉を返してくれなかった。


「本当に困ってるんだ! 電話番号も知らないし、連絡のとりようがない。妹の君なら知ってるだろ、お願いだ教えてくれ。隊長は今どこにいる? どうすれば話せる? どこに行けば会える?」


「……痛い」


「……え?」


「痛いです。放してください」


「……あっ」


 言葉の意味に気づいて咄嗟に俺は手を放した。気がつけば着物の襟が大きく開き、しどけなく桃色の襦袢が覗いていた。


「ごめん……つい」


 謝罪の言葉もしどろもどろになった。着衣の乱れを直しながら、クララは辛そうに俺から視線を逸らした。


「……兄の居場所はあたしにもわかりません」


「!? そんなはずあるか! 兄妹なんだろ?」


「……こう言い換えればいいですか。兄の居場所を伝えることはできません。固く口止めされていますし、それに説明したところで――」


「お願いだ! 頼む!」


 矢も楯もたまらず俺はまた彼女の肩を掴んだ。だが今度はすぐに手の力を弱め、代わりに少女の瞳をじっと見つめた。


「今は……本当に大事なときなんだ。のるかそるかの土壇場なんだ。もうあとがない。他に頼れる人がいないんだ。お願いだ……この通り」


 祈るような気持ちで俺は深く頭を下げた。まだ雨の乾かない地面が目に映った。


「……今回の舞台は絶対に成功させないといけないんだ。知ってるだろ、隊長にとって最後の舞台で……。そうでなくたって、長い時間かけて練習してきた大切な舞台なんだ。……情けないけど、俺じゃもうどうにもならない。舞台を成功させるために……どうしても隊長に会いたいんだ。少しでいいから話がしたい。ほんの少しでいい……頼む」


 薄く滑らかな着物の下に、少女の華奢な肩がゆっくり上下するのを感じた。木の上に小鳥たちのさえずる声が一頻り響いた。


「ごめん、強引にこんなこと頼んで申し訳ないと思ってる。でも……」


 そう言いながら頭をあげて、俺は続きの台詞を呑みこんだ。


 ――クララは泣いていた。思い詰めたような表情のまま、声もなく静かに涙を流していた。


「……どうして」


 思わず口にした質問もあとが続かなかった。どうして彼女が泣いているのかわからなかった。俺は沈黙してクララが泣き止むのを待った。やがて彼女はそっと目を拭い、か細い声で「もう沢山」と呟いた。


「……」


「兄のことは何も言えません。あたしの口からは」


「そ……そんな!」


 なおも食い下がろうとする俺の前で、クララは着物の袂に手を差し入れた。再び出てきた彼女の手には異様なものが握られていた。


 紛れもない拳銃だった。


 俺の見ている前で彼女はその撃鉄を起こし、銃口を生い茂る緑の天井に向け、真っ直ぐに腕を伸ばした。


 ――銃声。


 小鳥たちが一斉に飛び立った。一呼吸遅れて、葉のついたままの細い枝が小さな音を立てて地面に落ちた。銃口から白い煙が立ち上るのが見え、濃い硝煙の臭いが鼻をうがった。あまりに突然の展開に俺は息を呑み、瞬きを忘れて見入った。


 どれだけ経ったのだろう。あるいはほんの短い時間だったのかも知れない。クララは俺に向きなおると、拳銃を持つ手をこちらに差し出した。ほとんど何も考えられないまま手を伸ばし、俺は銃を受けとった。


「その銃をよく見てください」


 ……言われるままに俺は銃を観察した。S&Wの刻印が入ったリボルバーだった。少し小振りだがピースメイカーのように見える。黒い銃身はまだ熱を持ち、さっきのあれがまやかしでなかったことを証明していた。ずっしりと重い鉄の塊。今まで目にしてきたモデルガンとは何もかも違う。


「……本物の銃か」


 そう呟いて俺はクララに視線を向けた。だが彼女は小さく頭を振り、「もっとよく見てください」と言った。言葉に従って俺は拳銃に視線を戻した。


 ……使いこまれた銃だと思った。銃身には無数の傷が浮き、木製のグリップはほどよく摩滅している。硝煙の臭いもしっかりと馴染んでいるようだ。実銃を手にするのは初めてだったが、その銃が長く使われてきたものだということは何となくわかった。


 そう思い、俺は改めて戦慄を覚えた。これは本物の銃なのだ。どうしてそんな代物がここにあるのかわからないし、まだ半分信じられない気持ちでいる。だが実際にクララは俺の目の前で発砲して見せた。


 ……不用意に扱うのは危険すぎる。たとえその気はなくても何かの拍子に火を噴いて人の命を奪いかねない。弾さえ入っていれば撃鉄をあげ引金を絞るだけで誰にでも使える、簡単で便利な殺人のための道具なのだ。


「……?」


 そこで俺は奇妙なことに気づいた。シリンダーには一発の弾も入っていなかった。それは別に不思議でもない。けれどもそこにはあるはずのものがなかった。銃身から一つずれた穴はどちらも空っぽだった。


「気がつきましたか」


「これは……どういうことだ?」


 空の薬莢がなかった。クララが撃ってから一部始終を俺は見ていた。その間に取り出した様子はなかったから、当然まだシリンダーの穴に収まっているはずだった。だが空の薬莢はどこにもなかった。混乱する俺の手からクララは拳銃を取りあげた。そしてさっきのように木の茂みに向けて構え、滑らかな手つきで撃鉄を起こした。


 ――ぱぁん。


 響くはずのない銃声が響き、銃口から閃光が走った。そこで俺は我に返った。慌てて周囲を見まわし、庭園に誰もいないことを確認した。校舎の窓もすべて閉じられたままだった。「心配しなくても大丈夫です」というクララの声が聞こえた。


「……え?」


「見ての通り、この銃に弾はいりません」


 そう言って差し出してくる銃を、俺はまた無意識のうちに受けとった。銃身ははっきりと熱かった。まだわずかに銃口から煙が漏れているような気さえした。


「どうしても苦しければ、それで自分を撃って」


 弾かれたように頭をあげた。クララが何を言ったのかわからなかった。けれども彼女はそれきり何も言わず、しばらく俺を見つめたあと、もう役目を終えたとばかりに俺の目の前から歩き去ろうとした。


「……待てよ」


 彼女は待たない。炎天に灼かれる庭園をその出口に向け歩いていってしまう。


「待てって! ……自殺でもしろってのか?」


 そこでクララは立ち止まり、頭だけこちらに振り返った。整った顔に曖昧な笑みを浮かべ、どこか蔑むような調子で独り言のように言った。


「弾の入ってない銃で、どうして自殺なんてできるんですか?」


「……」


「頭か、でなければ心臓を撃ってください。この茶番に幕が引きたければ。……あなたにはその権利があります。今回ばかりは、あたしはあの人のやり方に賛成できない」


 そう言ってクララは再び歩き出そうとし、けれども何かに気づいたようにもう一度こちらを見た。


「それと……忘れていましたが、兄からの言伝があります」


「――隊長は、何て?」


「『やり残しがないように』とのことです。『心にかかるものは舞台までにすべて片づけておくように』と」


「何をそんな……当然のことを今さら」


「言伝はそれだけです。それでは、失礼します」


 クララは軽く一礼してこちらに背を向けた。もう俺に引き留める言葉はなかった。それでも最後に、一つだけ聞いておきたいことがあった。


「……舞台には来るって言ってたよな」


 問いかけに彼女は立ち止まらなかった。こちらに振り返ることさえせず、それでもよく透る声ではっきり回答した。


「はい、それは請け合います」


 クララが行ってしまったあと、俺の手には硝煙の臭いのするリボルバーが残った。その冷たい鉄の塊を眺めながら、彼女は結局ここに何をしに来たのだろうと、まだ混乱の抜けない頭で取り留めもなく考えた。

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